塔の小休止
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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記録の塔下層・職務室。
記録官たちが灯の作法を学び、武を鍛錬する階層の一角に、静かな職務室があった。
外光は届かず、天井から吊るされた灯だけが、長机の上を淡く照らしている。石壁は音を吸い、足音も衣擦れも、ここではどこか遠い。
ヴァルター、グレイブ、ユリウスの三人はそれぞれの持ち場に腰を下ろし、束になった答案用紙に静かに目を通していた。
カリカリカリ、と整ったリズムで響く炭筆の音。
ずずず……と、紅茶を啜り、机に置かれる金属音。
一枚、また一枚と用紙をめくるたびに擦れる乾いた音。
フォルド。
ミック。
ネレク。
書き慣れ、整った名前の字。
記録官の血筋らしい無難を選び取ったかのような答案。至って平凡。
危うさもなければ、光るものもない。
ユリウスは答案用紙をめくる。
次に出てきたのは、ところどころ小さな消し跡が残る答案だった。
迷いながらも考え、考えながらも書いた痕跡。
フィオナの名前を見つけ、ユリウスは一瞬だけ視線を留めた。
慎重で、弱くて、だが誠実な線だった。
「ふむ……」
また一枚めくる。
フレア。
雑だがはっきりとした意思を持つ文字。
最終問題の欄に、力が籠り、筆先が折れた跡が残っている。
だが正の文字に、ためらいのない円。
「……迷いは、ないか」
ユリウスは小さく呟いた。
「フレア・レヴァティーネ。それとも――ただの、赤い髪のフレア、なのでしょうか……?」
誰に聞かせるでもなく、そう零してから、紙をまためくる。
そこで、手が止まった。
現れた答案用紙は他の者とは、明らかに違う。
名前の欄に書かれた文字は、整いすぎるほど整っている。
あの、静かな志願者。
黒髪の少年――シン。
回答用紙の余白という余白にまで、文字が刻まれている。
小さく、詰めるように、だが乱れはない。
ユリウスは、最初の行を追う。
第一問 回答。
配給量が不足しているなら、優先順位は「反応」ではなく「必要量」で決めるべきだ。
反抗の有無は結果であり原因ではない。原因は不足である。
両村に最低限の生存線を引き、それ以下の村から配給する。
同時に、なぜ反抗が起きたかを調査し、再発を防ぐ。
ユリウスの視線が、わずかに止まる。
第二問 回答。
感謝は情報ではなく感情である。沈黙は拒絶とは限らない。
感情を条件に配給を変えれば、村は演技を始める。
配給は状況によって決め、感情は評価対象から外すべきだ。
紙をめくる音が、遅くなる。
第三問 回答。
既に死者が出ているなら、緊急度はそちらが高い。
ただし従順かどうかは関係ない。
人命の損失は統治の失敗であり、罰の理由ではない。
優先配給と同時に、遅延の責任を記録官側が負うべきだ。
ユリウスの眉が、わずかに寄る。
第四問 回答。
私情で配給を歪めることは正しくない。
だが制度が人の感情を無視するなら、制度の方が壊れている。
家族の有無は考慮しない。ただし、その決定に記録官は責任を持つ。
責任を負えない制度は、人の上に立つ資格がない。
ユリウスはしばらく何も言わず、ただ視線だけが紙の上を行き来する。
灯の揺らぎが、金色の鎧の縁を淡くなぞる。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
一番端の席で、ヴァルターが同じように答案を採点している。
背筋は崩れず、杖は膝の横に置かれ、視線だけが静かに動いている。
ユリウスは、目を細めてその姿を見やり、ぼそりと呟いた。
「君に付き添っていた、あの少年でしょう……?
ヴァルター君……。君は変わってしまったというのに……これはまるで……かつての君そのものだ……」
これは、才能。
だが、それ以上に――異物。
理解できる。
だからこそ、危うい。だが、尊い。
ユリウスは、それ以上何も言わなかった。
ただ、答案用紙をそっと伏せる。
まるで、今はまだ、誰にも見せないというように。
「どうだ、ユリウス。今年は骨のある逸材はいたか?」
グレイブは、そう言うより先に思わず身を乗り出していた。
机の上のカップの水面が、縁の内側で危うく揺れる。
慌てて触れるか触れないかの所で手を止め、息を呑む。
ユリウスはその様子を黙って伺うと、静かに答えた。
「ええ。そうですね……。既に目ぼしい者たちはいますよ」
グレイブは、カップから目を離し、
ユリウスのその予想外の返答に一瞬顔が強張ると、
すぐぱぁっと花が開いたように表情を変え、ユリウスを振り向いた。
「そうか! そうか、ユリウス! お前の目にかなう志願者がいるとは!」
ユリウスもその顔を見て控えめに笑う。
「どうだ。一つ賭けるか? 誰がこの試験、主席で合格するかを。やはり私はお前の息子だと思うがな。えーっと……」
「ガイウス」
グレイブは一本指を立てた。
「そう、ガイウス。良い身体をしている。淀みのない武といった感じだ。娘の花婿候補にしてやってもいい」
「まだ子どもでしょ? ……特に君の娘は」
ユリウスは口元を緩め、次いで、どこか遠いものを見るように、ため息をひとつついた。
「ガイウスかどうかはわかりませんよ。
息子は幼少期に雷に打たれて以来、強さと引き換えに喜怒哀楽の哀を欠如してしまいました。常に真正直、だからこそ脆い部分がある」
グレイブは一瞬だけ瞬きをした。
それから、顎髭をぐいと掻き、視線を上に向ける。
「……要するにお前の息子は、突撃しか知らんってことだな?」
「……ですね」
「ネチネチタイプのお前とは……まるで真逆だな」
ユリウスはこめかみを摘み、視線を落とした。
「……でしょうね」
――
昼。
記録の塔下層の大食堂に入った瞬間、鼻の奥に温い匂いが触れた。
焼けた穀物の香ばしさ。煮込みの塩気。刻んだ香草のわずかな青さ。
湯気が薄く漂い、青白い灯の光を曇らせている。
長い木の机が何列も並び、その周りに記録官たちとその家族、そして志願者たちが入り混じり、低い話し声とざわめきに満ちている。
奥の厨房では、鍋をかき回す木杓子が、コツ、コツ、と一定の間隔で鳴っている。
焼き台からは、ときどき小さく脂のジュゥゥ、と弾ける音。
皿を重ねる陶器のかすれた音に混じって、女たちの声が忙しなく飛び交う。
「スープ、もう一杯足りないわ」
「はい、今汲みます」
「パン、焦げてない? 端、裏返して!」
子どもが背伸びをして皿を抱え、配膳係の娘がそれを受け取る。
娘たちはカチャリ、カチャリと手際よく、無表情のまま、机に皿を配置していく。
机の中央には粗挽きの穀麦パンが山のように盛られた大籠。その横には、湯気の立つ根菜と豆の煮込み。
今日の主菜は薄切りにされた肉の香草焼き。
そして澄んだ黄金色のスープが、それぞれの前に配られる。
フレアは椅子に腰を下ろすなり、皿の上の肉をじっと食い入る様に見つめた。
「……あれ、何の肉だろ?」
フレアがぽつりと呟く。
隣のフィオナは、すでに皿の前で固まっていた。
フォークを持つ手が、膝の上で止まったままだ。
「……お、お肉……ですよね……」
声は小さく、どこか確かめるようだった。
「そうだけど……狩り鳥でも、兎でも、猪でもないな」
フレアはフォークでそっと一切れを持ち上げる。
皿の上で、肉がわずかに揺れた。
鼻先に寄せて、静かに匂いを嗅ぐ。
「脂が軽い。……羊か?」
近くの記録官の娘が頷いた。
「はい。西の畜産村で飼ってる羊です。塔の居住者用なんですよ」
「……へぇ」
フレアはほんの少し驚いた顔をした。
「飼ってる……か。狩らないんだね」
その言い方に、フィオナが小さく目を瞬かせる。
「……狩らない……?」
「うん。私の村は狩猟村だから、森に入っては獲物を狩って、解体して肉を得る。だけどこれは、育てて、それから、殺すんだ」
「えっ……。荷運び用のアグリや卵鳥のように育ててるのに……殺して食べるなんて……。そんなの、かわいそう……」
フレアは一瞬だけ肉を見つめ、それから一口かじる。
「フィオナは優しいね。むぐむぐ……。
ん……?やわらか……。というか、噛み応えがないな」
「……おいしくない、ですか?」
フィオナが不安そうに尋ねる。
「いや。うまい。でも……森の肉とは違った味だ」
「……それ、どう違うんですか?」
フレアは少し考えてから言った。
「うーん……生き方の重さが違う、みたいな?」
フィオナは一瞬きょとんとするが、小さく呟いた。
「人に生き方を決められて……それで、こうして……肉になって……味を比べられるなんて……やっぱり、かわいそうです……」
フレアは一瞬だけ肉を見つめ、それからフィオナを見た。
「……でもさ」
ぽつりと、独り言みたいに言う。
「食べられなかったほうが、もっとかわいそうじゃない?」
フィオナは、はっとしてフレアを見る。
「……え?」
「生きて、殺されて、誰かに食べられる。
それって、悪いことばっかじゃないよ」
フレアはそれ以上言わず、パンをちぎった。
フィオナはしばらく黙って皿を見つめていた。
何か言い返したいようで、でも言葉が見つからず、唇を噛む。
やがて意を決したようにフォークを取り、そっと肉に触れた。
「……私、その……肉を見るのも、初めてなんです」
フレアが一瞬だけ目をやる。
「本当に?」
「はい……村では、穀物と豆と……たまに卵くらいで……」
「そっか。かわいそうだったら、やめときなよ。でも……味は悪くない」
フレアはそれ以上言わず、ただフィオナのぎこちなく動くフォークを見つめる。
フィオナは小さく首を振り、恐る恐る口に運ぶ。
噛んだ瞬間、目がわずかに見開かれた。
「……あ……」
「どうだ」
「……温かいです……」
フレアは一瞬だけ笑いかけそうになり、やめた。
「そりゃ、今焼いたからね」
フィオナは小さく笑って、もう一口だけ食べた。
「……なんだか……胸の奥が……あったかいです」
「肉はね、血になるんだよ」
さらりと言う。
二人の周囲では、記録官たちとその家族が穏やかに食事をしている。
子どもがパンを落として笑われ、大人がそれを拾って渡す。
青白い灯の下で、ほんのひとときだけ、ここは「塔」ではなく「家」だった。
フィオナはスープを飲みながら、ぽつりと呟いた。
「……ここ、ちょっとだけ……ほっとします。村みたいで……」
フレアは鼻で小さく笑う。
「……だね」
――
午後。
記録の塔下層・面接室。
コン、コン……。
扉をノックする音。
「入りなさい」
ユリウスの声が静かに落ちる。
ギィィィィィ――バタンッ。
窓から刺す光。
それが逆光となり、机の上で手を組むユリウスの影だけが浮かび上がる。
「初めまして。
こうして出会えたことを、光栄に思いますよ……」
ユリウスの口元が緩む。
「フレア・レヴァ……いや、失礼。フレア君。
これより面接試験を始めます」
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