筆記試験
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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塔の門を潜った瞬間、空気が変わった。
ひんやりとした冷気。
石と油と、古い紙の匂いが混じったような、どこか閉じた匂い。
視界が一気に開ける。
だだっ広い石造りの広間だった。
天井は高く、太い石の柱が等間隔に立っている。灰白色の石床がそのまま奥まで続き、音を吸うでもなく、反響させるでもなく、ただ重たくそこに敷き詰められている。
壁に備えられた幾つもの青白い灯は、広間の隅々まで照らし出している。
そこには温もりはなく、ただ均一だった。
その中央に、三班に分かれるように幾つもの簡素な長机と椅子の列が並べられていた。
どれも同じ形、同じ色。新しくもなく、古くもなく、感情の入り込む余地のない木の家具。
その列の前――わずかに高く設えられた教台の後ろに、三人の上級記録官が各々すでに腰を下ろしていた。
ヴァルター・ウォールデンは、背もたれに深く寄りかかることなく、背筋を伸ばしたまま静かに座っている。
黒いマントは椅子の背に掛けられ、長い白髪だけが肩の後ろに流れている。杖は膝の横に立てかけられ、指先がその頭部に軽く触れていた。視線は鋭く、広間全体を刺すように捉えている。
グレイブ・ハルトフェルドは、対照的に椅子に深く腰を沈め、脚を少し開いて座っていた。
蒼いマントはそのまま羽織ったまま、戦斧は椅子の脇に無造作に立てかけられている。顎髭の奥で小さく歯を鳴らし、退屈そうに天井を一度見上げ、それから志願者たちへと視線を戻した。
ユリウス・バルナークは、三人の中でいちばん姿勢が整っていた。
背もたれに背を預けず、両手を机の上で組み、わずかに顎を引いている。金色の鎧は光を反射せず、むしろ周囲の明るさを吸い込むように鈍く輝いていた。志願者を見る視線は柔らかいが、その奥に一切の迷いがない。
「――さあ、進め。立ち止まるな」
若い記録官たちの声が、広間に響く。
「ヴァルター班は左! そっちはグレイブ班だ!」
「詰めろ、詰めろ、奥から座れ!」
志願者たちは戸惑いながらも、流れに押されるように動き出す。
靴底が石床を擦る音。衣擦れ。小さな咳。誰かの小声の愚痴。
人の塊が、三つの班へと分解されていく。
フレアは流れに身を任せ、フィオナの背を軽く押して進んだ。
「……こっち、だね」
ユリウスの前に伸びる列。
椅子は硬く、低かった。
フレアは腰を下ろし、すぐに周囲を見回す。
すでに、例の三人組も同じ列に座っていた。
フォルドは落ち着きなく足を動かし、ミックはきょろきょろと周囲を見回し、ネレクだけが前を向いたまま動かない。
少し離れた、一番端の席。
黒髪の少年が、ひとりで座っていた。
背筋を伸ばすでもなく、崩すでもなく。
手は膝の上に置かれ、視線だけがまっすぐ前を見つめている。
フレアは、ほんの一瞬だけ彼を見て、それから前を向いた。
「……全員、着席したな」
若い記録官の声が、広間に響く。
ざわめきが、ゆっくりと沈んでいく。
衣擦れが止まり、足音が消え、咳払いがひとつだけ残って、それもやがて途切れた。
広間は、ようやく静まり返った。
三人の上級記録官の視線が、同時に志願者たちへと向く。
ユリウスは、音も立てずに椅子を引き、静かに立ち上がった。
金色の鎧がわずかに軋み、その音すら、広間の静けさに吸い込まれる。
教台へ歩み出る。
足取りはゆっくりで、急ぐ様子はない。
教台の前に立つと、ユリウスは一度だけ、軽く顎を引いた。
それから、班の志願者たちへと視線を巡らせる。
視線は、ひとり、またひとりと、淡々と流れていく。
まるで人数を数えるように。
あるいは――何かを確かめるように。
そして、その流れが、ふと止まった。
フレアは、その瞬間に気づいた。
視線が、自分のところで止まっている。
自然と、顔を上げる。
目が合った。
穏やかで、澄んだ瞳だった。
濁りも、ためらいも、曇りもない。
だが、その奥に――
人の感情を量るような、冷たい静けさがある。
フレアは、ほんの一瞬、胸の奥がひやりとするのを感じた。
ユリウスは、何事もなかったように視線を外す。
教台の上に置かれていた試験用紙に手を伸ばし、軽く揃える。
指先で、端を二度、叩く。
紙の揃う、乾いた音。
それから、前列の志願者へと、そっと差し出した。
「……回してください」
声は低く、静かだった。
志願者たちは、はっとしたように動き出し、紙を一枚抜いては隣へ、隣へと回していく。
紙の擦れる音だけが、広間に連なっていった。
ユリウスは、試験用紙がすべて行き渡ったことを確認すると、ゆっくりと視線を上げた。
「――これが、君たちが記録官となるための、最初の課題です」
声は低く、よく通った。
広間の奥まで、過不足なく届く。
「本日は、この筆記試験と――午後に行う面接を通して、志願者を選別します」
その言葉に、わずかなざわめきが走る。
衣擦れ。小さな咳。誰かが息を呑む音。
「地方から来た者も多いと聞いています。
そのため、問題はすべて口頭で読み上げます。
文字を読める者は、そのまま記入して構いません」
ユリウスは淡々と続ける。
「解答は、正誤の二択です。
聞き逃さぬよう、“よく“耳を澄ませてください」
静かな口調だった。
だが、その言葉は、逃げ道を削るように整っている。
フレアは、無意識に背筋を伸ばしていた。
「なんだ……簡単じゃないか」
ミックはそう呟くと、ほっと息をついたように肩を落とした。
フォルドは小さく鼻で笑い、ネレクは何も言わない。
広間の空気が、期待と緊張と安堵と失望を含んで、重く沈んだ。
「……では、準備はいいですか」
ユリウスは、志願者たちを一度だけ見回した。
誰も答えない。
答えるべきではない、という空気だけが、すでに出来上がっている。
ユリウスは、それを待たずに続けた。
「――それでは。筆記試験、始めます」
一拍。
「第一問」
紙に目を落とし、淡々と読み上げる。
「灯の配給量が足りない村が二つあります。
どちらも同じ人数、同じ貧困度です。
片方は記録官に従順で、片方は過去に反抗しました。
従順な村を優先すべきですか?」
フォルドは一瞬にやりとし、意気揚々と炭筆を取る。
他の二人も続いた。
フレアは、すぐには筆を動かさなかった。
一度、問題を頭の中でなぞる。
村が二つ。人数も、貧しさも同じ。
違うのは――従ったか、反抗したか。
「……」
フレアは、ほんのわずかに眉をひそめた。
誰が悪いかじゃない。
誰が言うことを聞くかでもない。
足りないなら、足りないだけ、困っているはずだ。
なのに――
「従順かどうか」が、ここで条件として出てくること自体が、気持ち悪い。
フレアは、視線だけ横にやった。
フィオナは、紙を見つめたまま固まっている。
炭筆を持った指が、止まっている。
唇が、かすかに動く。
「……従順……って……なに……?」
問いの意味を理解しようとしている。
正解を探しているというより、「どう考えればいいのか」を探している。
フレアは小さく息を吐いた。
フィオナの紙を一瞬だけ見て、それから自分の紙に戻る。
――正しいか、誤りか。
どちらを選ぶかではなく、
「迷うかどうか」を見ている問いだと、フレアは本能的に直感した。
口を引き結び、炭筆を動かす。
フィオナもその音に続く。
「第二問」
紙から目を上げず、同じ調子で読む。
「灯の配給量が足りない村が二つあります。
どちらも同じ人数、同じ貧困度です。
片方は記録官に感謝を示し、片方は沈黙しています。
あなたは感謝を示す村を優先すべきだと思いますか?」
炭筆の音が、少しだけ変わった。
さっきよりも、速い音。
速いというより――焦った音。
フィオナは、はっと顔を上げた。
「……え……?」
声にはならない。
ただ、目が泳ぐ。
感謝?
沈黙?
それって、条件?
フィオナの呼吸が、少しだけ早くなる。
フレアは、今度はほとんど迷わず、炭筆を走らせた。
その時――
「……あの」
後列のほうで、ひとつ、声が上がる。
「すみません……もう一度、お願いします」
若い男の声だった。
だが、ユリウスは顔を上げない。
「――第三問」
淡々と、次の問題を読み上げる。
「灯の配給量が足りない村が二つあります。
どちらも同じ人数、同じ貧困度です。
片方の村ではすでに子どもが灯欠乏症で亡くなり始めています。もう片方ではまだ死者はいませんが、過去に記録官へ反抗しました。
このときあなたは死者が出ていない従順でない村よりも、すでに死者が出ている従順な村を優先すべきだと思いますか?」
声をあげた主は、一瞬、言葉を失った。
「あ、あの……?」
誰も、振り向かない。
誰も、答えない。
紙の擦れる音と、炭筆の音だけが、続いていく。
男は、周囲を見回す。
誰も彼を見ていない。
顔が次第に青ざめ、どこまで聞いて、どこから分からなくなったのか。
それすら、もはや分からない。
男は、ただ座ったまま、固まった。
フィオナは、唇を噛む。
考えすぎている。
でも、考えることをやめられない。
「第四問」
ユリウスの声が落ちる。
「灯の配給量が足りない村が二つあります。
どちらも同じ人数、同じ貧困度です。
片方の村にはあなたの家族が住んでいますが、過去に記録官へ反抗しました。
もう片方の村にはあなたの家族はいませんが、記録官に従順です。
このときあなたは家族のいる反抗的な村よりも、家族のいない従順な村を優先すべきだと思いますか?」
志願者たちの顔が、わずかに歪んだ。
誰かが、額の汗を袖で拭う。
誰かが、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。
かり、という炭筆の音が、一瞬、止まり、
次の瞬間、ばらばらに走り出す。
速い。
だが、揃っていない。
文字を読める志願者たちも周りの様子を見て、紙の上で筆が迷い、行きつ戻りつする。
指で擦った消し跡が増え、同じ行を何度もなぞる。
呼吸が浅くなる。
肩が小刻みに上下する。
「――次」
炭筆を持つ指が、震え始める。
「第五問――」
空気が、どんよりと重く沈んでいく。
見えない圧力が、肩の上に乗っているようだった。
志願者たちは誰も声を出せない。
ただ、ユリウスの声と、紙の擦れる音と、炭筆の音だけが、広間を満たしている。
淡々と。
刻々と。
時間だけが、
ただ無情に進んでいく。
「……最後の問題です」
ユリウスは、ほんのわずかに間を置いてから、静かに読み上げた。
「ひとつの卵があります。
その卵を使えば、あなたの村は――少しだけ楽になります。
しかし、その卵の親は、子を失って深く嘆き、やがて衰えて死ぬでしょう。
あなたは、その卵を取りますか?」
問いは短く、静かだった。
だが、重かった。
誰もすぐには炭筆を動かさない。
誰かが、喉を鳴らす音。
誰かが、肩で息をする音。
遠くで、椅子がきしむ。
ユリウスは、ゆっくりと視線を上げた。
志願者たちの顔を、ひとり、またひとりと見渡す。
そして、その視線が、フレアのところで止まった。
フレアは顔を上げず、眉をひそめたまま紙に視線を落としている。
目を見開き、唇を引き結び、一度だけ震える炭筆を止め、それから――
自分に言い聞かせるように走らせた。
カリ、という音と共に炭筆の芯が折れる。
ユリウスは、それを見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
笑みというほどではない。
ただ、予測が当たった者の表情だった。
「……以上です。お疲れ様でした」
声は、最初から最後まで変わらない。
「これより採点に入ります。午後の面接まで、休んでいてください」
言い終えると、ユリウスは紙を集めて、どこかへ消えていった。
その瞬間、志願者たちの身体から、いっせいに力が抜けた。
誰かが、机に額を押し当てる。
誰かが、深く息を吐く。
誰かが、震える手を膝の上に落とす。
広間には、ただ重たい沈黙だけが残った。
「……なんなの、これ」
フレアが、ぼそりと零した。
フィオナは返事をせず、ただ机に肘をついて、額を指で押さえた。
「……つかれた……」
それだけ言って、深く息を吐いた。
青白い灯だけが、何事もなかったかのように、均一に志願者たちを照らしていた。
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