志願者たちの灯
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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でこの広い記録官がアグリを御し、
荷車はゆっくりと坂を下っていく。
フレアは荷台の縁に腰を掛け、村が灯の代わりに納めた品々を見つめていた。
塩袋。干し肉。乾燥させた根菜。
骨材。毛皮の外套。
それと、卵。
車輪が、きし、と小さく鳴り、
ふと、鉄製のフライパンに目が留まる。
フレアはそれを持ち上げる。
縁は少し歪み、底には何度も火にかけられた跡が黒く残っている。
「……何これ?
おじさん、なんでこんなもん乗ってんの?」
手綱を引いていた、でこの広い記録官は、前を向いたまま答えた。
「それか? 仕事道具だ」
「……?」
フレアはフライパンを持ったまま、首を傾げた。
記録官は、少し間を置いてから言った。
「あんたは、なんで記録官に志願したんだ?」
「私?」
フレアは少し考え、それから素直に答えた。
「記録官になってさ、
お父さんとお母さんや、村の人たちを楽にしてあげたいんだ。
ティノ村の冬は大変なのよ。雪、積もるし……」
記録官は顔色ひとつ変えず、淡々と告げた。
「そうか」
それから続ける。
「俺はな、近々、記録官を辞める。
長年務めたのが功を得て、酒を扱う許可が下りた」
フレアは目を瞬かせる。
「へぇ……」
「地元で酒場をやる。
働いた分だけ飲ませて、食わせる。そいつを使ってな」
「すごいね」
フレアがそう言うと、記録官は小さく息を吐いた。
「今じゃ、記録官なんて、陰では煙たがられるだけさ」
手綱を軽く引きながら、付け足す。
「……まぁ、頑張りすぎるな」
フレアは、しばらく何も言えなかった。
言葉の意味が、うまく噛み合わない。
胸の奥に、何かが引っかかったまま、形にならない。
フライパンを荷台に戻し、フレアはただ意味が分からず、ただきょとんとしていた。
――
「着いたぞ」
フレアは荷台から振り向いた。
そこには、石造りの家屋が整然と並ぶ北の宿舎町が広がっている。
記録官と、その家族たちが暮らすために設えられた町だ。
荷台から降りた瞬間、
どこからか、香ばしく肉を焼く匂いが漂ってきた。
村では嗅ぎ慣れない、温かく重たい匂いだった。
でこの広い記録官は、近くにいた別の記録官に声をかけ、
話の途中で一度だけフレアを指差す。
指された男はちらりと彼女を見やり、
無言のまま手帳を開いて、何かを書き込んだ。
「話は通しておいた。俺は荷物を運ぶ。
お前は、この先の詰所で一晩休め」
「ありがと。卵の件、頼んだよ」
「わかってる。金色の上級記録官様に、通しておく」
フレアはにっと口元を緩めると弓を背に担ぎ直し、
何も言わず詰所のほうへと歩き出した。
石畳は乾いており、靴底が軽く音を立てる。
同じ造りの家屋。壁際には薪や木箱が、決まった位置に積まれている。
すれ違うのは、ほとんどが記録官だ。
マントの色は異なっていても、
胸元に揃った徽章だけが、この町の住人であることを示している。
歩き始めてすぐ、フレアはいくつもの視線を感じた。
真正面から見る者はいない。
だが、通り過ぎる瞬間、あるいは一歩遅れて、
ちらり、と目だけが向けられる。
――見ない顔だな。
――志願者か。
そんな無言の確認が、空気の中を行き交っている。
誰も足を止めない。
誰も声をかけない。
それでいて、無視されているわけでもない。
足音と衣擦れの音が、規則正しく重なっていく。
道の脇では、記録官の子どもたちがしゃがみ込み、
小さな黒と白の石をいくつも並べて遊んでいる。
別の家の前では、男が何本もの剣を研いでいた。
ここでは、生活が静かに続いている。
村のようなざわめきはない。沈黙でもない。
それでも、家屋のそのどれもから淡い灯の光が漏れていた。
詰所は、町の端にあった。
他の家屋よりも壁が厚く、
人の出入りで磨かれた扉が、静かに佇んでいる。
フレアは一度だけ、背後を振り返った。
宿舎町は変わらない。
彼女を受け入れも拒みもせず、
ただ「志願者」として通過させるだけだ。
フレアは息を整え、
詰所の扉へと手を伸ばした。
軋む音とともに扉が開く。
中は、思ったよりも広かった。
石壁に囲まれた室内には、長机がいくつも並び、
簡素な椅子に腰を下ろした若者たちが、静かに待機している。
志願者だろう。
誰もが口数少なく、視線を落としたまま、
あるいは手元をじっと見つめている。
空気は張り詰めているが、重苦しくはない。
入口に近い机には、三人組の若い男たちが陣取っていた。
そのうちの一人、つり上がった目をした男が、
フレアに気づくと、ちらりと横目を向ける。
そして、唇の端をゆっくりと歪める。
「へっ……また女かよ」
声は低く、ほとんど囁きに近い。
だが、確信に満ちていた。
「女が入試なんて、無理無理」
言葉のあと、
隣に座っていた小太りの男が小さく鼻で笑い、
もう一人の細長い男も、それにつられるように肩を揺らした。
つり目の男は、
自分たちの胸元に揃った徽章に、
一瞬だけ視線を落とす。
それからもう一度、薄く笑うと、
興味を失ったように奥の机へと顔を向けた。
フレアも、ふん、と小さく鼻を鳴らし、
同じ方向へ視線を送る。
そこには、
薄い紫色の髪をした少女が一人、
椅子の上で身体を縮こませるように座っていた。
髪は肩先で揃えられ、
前髪が少しだけ目にかかっている。
背中を丸め、膝の上で両手の裾をきつく握りしめ、
視線は定まらず、机の端と床の間を行き来していた。
フレアはしばらく、その様子を見てから歩き出す。
背後で、三人組の男たちが、
また何かを含んだように口元を歪ませる気配がしたが、振り返らない。
足音を抑え、
少女の前にある椅子を静かに引く。
向かい合うように腰を下ろし、
フレアは、いつも通りに名乗った。
「私はフレア。ティノ村出身。よろしく!」
微笑みながら、右手を差し出す。
少女は、その手をじっと見つめたまま、固まる。
数拍遅れて、はっと我に返ったように肩を跳ねさせ目が泳ぐ。
「は、は、はわわっ……!
あ、あの、その、わ、わ、わ、わたし……っ」
言葉が追いつかない。
「フィ、フィオナ……で、ででで、で……
北西の……ジュ、ジュダ村、か、か、から……き、き、ききき……きまし、きました……っ」
語尾が絡まり、声が裏返る。
言い終えると同時に、
フィオナは深く頭を下げ、
そのまま動けなくなった。
フレアは、差し出した手を引っ込めることもなく、
ただ、変わらぬ調子で言う。
「……うん。よろしくね、フィオナ」
「はい……」
フィオナは、差し出された手をしばらく見つめてから、
まるで壊れものに触れるみたいに、恐る恐る指先を重ねた。
一瞬だけ、ぎゅっと力が入る。
けれどすぐに我に返ったように手を離し、
また慌てて膝の上で服の裾を握りしめた。
視線は床に落ちたまま、肩が小さく強張っている。
「……」
フレアはその様子を見て、くすっと笑った。
「ねえ」
フィオナがびくっと肩を跳ねさせる。
「なんでそんなに緊張してんの?」
「えっ、あ、そ、その……っ」
言葉が喉で詰まり、フィオナは一度、深く息を吸おうとして失敗する。
「わ、わたし……試験なんて……受けるの、初めてで……。 人も、その……たくさんで……」
声は小さく、途中で揺れた。
フレアは椅子の背にもたれ、少しだけ身を乗り出す。
「私だって初めてだよ」
あっさり言われて、フィオナはきょとんと顔を上げる。
「だけど確かに初めてってそうかも。
私も最初は、手が震えて弓、引けなかったし」
「え……?」
「緊張しすぎてさ、試し撃ちで矢がそれて――
村長の頭、かすめちゃったの」
「あ……、えっ!?」
「ほんとほんと。
頭のてっぺんが川みたいに一本禿げちゃって……
”お前には才能がない”って、あとで散々言われた」
フレアは肩をすくめる。
「…………」
フィオナは一瞬ぽかんとして――
「……ふ、ふふ……」
堪えきれないように、口元を押さえる。
それに気づいて、フレアはにっと笑った。
「ねえ、フィオナはさ。どうして記録官になろうと思ったの?」
フィオナは一瞬、答えに迷ったように視線を泳がせる。
けれど、逃げ場がないと悟ったのか、裾を握る指に力を込めた。
「……わたしの村に、孤児が……その、何人もいて……」
言葉を選びながら、ぽつりぽつりと続ける。
「灯が足りなくて……夜、眠れない子もいて……。
大人たちは、どうしても自分の家族で精一杯で……」
喉が鳴る。
「だから……記録官になれたら、灯を……少しでも……回してもらえるんじゃないかって……」
言い終えたあと、フィオナは顔を伏せた。
自分の願いが、身勝手に聞こえたのではないかと不安そうに。
フレアは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷く。
「私と一緒だ」
「……え?」
「村の人を、楽にしたくて志願した。理由、それだけ」
フィオナは、はっとして顔を上げる。
フレアは照れたように鼻を掻いた。
「正直さ、記録官が何をするかなんて、全部は分かってない。でも、村で凍えたり、我慢してる人を見るのは……ずっと嫌だった」
フィオナの肩から、すっと力が抜ける。
「……同じ、ですね……」
声は、さっきよりも少しだけはっきりしていた。
「うん」
フレアは、再度にっと笑う。
「だからさ、緊張しててもいいよ。変でもいい。
ここにいる理由は、ちゃんとしてる」
フィオナはその言葉を、胸の奥で何度も反芻するように黙り込む。
やがて、そっと顔を上げた。
「……ありがとう、ございます」
語尾はまだ少し揺れているけれど、
今度は、ちゃんとフレアの目を見ていた。
そして、控えめに――
けれど確かに、微笑った。
フレアはその笑顔を見て、満足そうに頷いた。
詰所の張り詰めた空気の中で、
二人の間だけ、ほんの少し温度が変わった気がした。
――
その頃、宿舎町の入り口。
アグリに跨った金色の鎧の一団が、石畳を鳴らして戻ってきた。
隊列は乱れていない。だが、その数は――ひとり、少ない。
「金色の上級記録官ユリウス・バルナーク様が戻られたぞ!」
迎えに出ていた記録官たちの声が、張りつめた空気を震わせる。
先頭の男が、アグリから静かに降り立つと、
槍を片手に地へ突き、背筋を正した。
短く刈りそろえられた金髪。
額には、切りそろえきれなかった一本の前髪が揺れていた。
長いまつ毛の奥の瞳は、誰とも目を合わせず、
まっすぐ前だけを見ていた。
ユリウスは、鎧についた埃を軽く払うと、
迎えの記録官に向き直り、低く告げた。
「灯喰いの討伐には成功しました。
ですが……今回は、バルドル君が犠牲となりました」
その瞬間、周囲の空気が凍りつく。
誰かが息を呑む音。
誰かが、視線を伏せる気配。
ユリウスは一拍置き、言葉を選ぶように続けた。
「彼は清廉な記録官で、私欲のない男でした。……惜しいことをした」
さらに一拍。
「家族へは、すぐに連絡を。
遺体は――丁重に、弔ってあげてください」
それだけを告げると、深くはないが、確かな一礼をする。
次の瞬間には、彼の表情はすでに整えられていた。
悔恨も、動揺も、そこには残っていない。
まるで、それらをすべて内側へ押し込めたかのように。
ユリウスは無意識に口髭を撫でながら、
何事もなかったかのように、石畳を歩き出した。
「……ユリウス様。ご苦労さまです」
声をかけたのは、でこの広い記録官だった。
彼もまた一礼し、自然とユリウスの半歩後ろに並ぶ。
「ああ、君か」
ユリウスは歩調を変えず、前を見たまま答える。
「ティノ村への灯の配給、ご苦労でした。
無事で何よりです」
その声は穏やかだが、どこか事務的だった。
でこの広い記録官は、少し間を置いてから切り出す。
「実は……ティノ村で、少し面白い収穫がありまして」
ユリウスの歩みが、ほんのわずかに遅れる。
「面白い、収穫?」
でこの広い記録官は足を止め、
布に包んでいたそれを、そっと差し出した。
ユリウスも立ち止まる。
布を解かれると、そこには――
淡く温かい光を宿した、ひとつの卵。
ユリウスの眉が、わずかに動いた。
「……これは」
卵を両手で受け取り、目を細める。
表面の脈打つような光を、逃すまいと見つめる。
「なんでも……カムナ、なんとか、だそうで」
その瞬間、ユリウスの瞳がはっきりと見開かれた。
「カムナ=トゥチカの卵ではないですか!」
声が、思わず強まる。
先ほどまでの抑制された調子とは、明らかに違っていた。
「一体、これをどうしたのです?」
でこの広い記録官は、少し言いづらそうに視線を逸らしながら答えた。
「ティノ村の志願者が、採ってきたそうで。
灯を、もう少し融通してほしいと……」
一拍置き、付け足す。
「赤い髪を束ねた、生意気そうな少女でした」
その言葉に、ユリウスの指が――
卵の殻を、わずかに強く包み込む。
「赤い……髪の少女……?」
ユリウスは卵から目を離さぬまま、
その言葉を、確かめるように反芻した。
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