命の巡り道
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
→https://ncode.syosetu.com/n5378ky/
断崖に身体を押しつけ、足幅半分ほどの細い岩の出っ張りを慎重に進む。
背中の卵は布越しでもしっかりと温かく、体を僅かに後ろへ引っ張る。
「……卵、軽くなってくれてもいいんだけど……」
愚痴をこぼした瞬間――
――ギャアアアッ!!
またあの叫び声。
霧を裂き、上空から黒い影が迫る。
「来たっ……!」
風圧が背中を押し、フレアは壁に指を食い込ませる。
必死に顔を上げ、前を見やる。
だが――視界の先が、途切れていた。
「……うそ。道、ないじゃん……!」
細い足場は、途中でぽっきり折れていた。
崩れた岩片が静かに落ちていき、底知れぬ谷に吸い込まれる。
進む道はない。
戻る時間もない。
「どーしよ……いやほんとにどーしよ……!!」
下を覗くと、白い霧の中腹に、色が抜けた布旗がひらりと揺れていた。
これも狩人達が残した道。だが高低差はかなりある。
ただ落ちれば命はない。
上空の影が、さらに濃くなる。
「やばい。来る……!!」
叫びながらも、フレアは辺りを見回し、目を細めた。
「あ! これだ!」
そこには、古い“傷跡”があった。
岩が、周囲よりわずかに白く、粉を吹いている。
指で擦ると、薄い白粉がふわりと落ちた。
「……この刃物傷……! この風化の仕方……この岩、石灰岩だ……!」
父ガロンが教えてくれた狩人の知識。
――「白っぽい岩は、雨や風で削れやすい。
ピッケルも通りやすいが、気をつけろ」
風化した石灰岩は柔らかく、刺さる。
「わかった……壁を下れってことね……!」
心臓が勢いよく跳ねる。
鼓動が卵を揺らした。
「いける……いや、いくしかない!!」
上空から影が覆う。
カムナ=トゥチカが翼を畳み、急降下を開始する。
「――ごめんね卵!! 絶対守るからあああッ!!」
フレアは旗めがけて飛び降りた。
ドォンッ!!
次の瞬間、
カムナ=トゥチカの爪が断崖を抉る。
雪と白い粉が爆ぜ、
裂けた氷の破片が飛び散った。
その一つがフレアの頬をかすめ、
赤い髪が一房、宙を舞った。
「っ――!!」
空気が震え、
急降下の風圧が、背中を叩きつける。
「いっっけぇぇぇぇぇ!!」
フレアは歯を食いしばり、
白く風化した岩へピッケルを力いっぱい突き出した。
――ガンッッ!!!
刺さった。
だが――
「うそっ!!?」
石灰岩は柔らかすぎた。
ピッケルは刺さりながらもズリッと滑り、
フレアの身体は岩肌を高速で落ちていく。
肩がぶつかり、背中の卵が揺れ、
火花のような石粉が飛び散った。
「やばいやばいやばい!!!!
止まって止まって止まって!!!!」
――キィィィィィィィィッ!!
鉄と石の悲鳴。
その直後――
――ガッ!!!
ピッケルが節理に噛み込み、身体が止まる。
視界がぶれ、呼吸が戻らない。
手が震えて握力が抜けそうになる。
「っっ……はぁ……はぁぁ……!!
死ぬかと思った……ほんとに……!!」
フレアは首をぶるんと振り、
髪がまだ残っているのを確かめた。
「ったく……私を丸坊主にする気かーーっ!!」
下を見ると、旗までは残りわずか。
ここからなら降りられる。
フレアは震える手で壁を探り、慎重にピッケルを抜いた。
深く息を吸い、ひとつ、またひとつと足を下ろす。
風が吹き上げ、身体が揺れる。
背中の卵が温かい重みで、彼女の背を押した。
「……ここまで来れば大丈夫だよ……!」
ようやく足先が旗へ届いた。
フレアは、背中へ手を回す。
卵は割れていない。動いてもいない。
「……よし……頑丈ね。この子!」
古びた布は触れただけで崩れそうだったが、
ゆっくり顔を上げると、さっきまでの細い足場とは違い、幅のある下り坂が続いていた。
フレアは息を整え、
上空を旋回するカムナ=トゥチカを見上げる。
「おっけー……ここからが本番だね……!」
フレアは背中から弓を取り出し、素早く構えた。
冷たい風が頬を斬り、指先の感覚を奪っていく。
「親鳥を仕留める気はない……。狙うのは……」
視線の先、断崖の上に白く張り出した雪塊――
雪庇。
風に削られ、今にも崩れ落ちそうな、危うい白の棚。
「雪庇は風下にできる……縁は薄い……。
あそこなら矢一本で落とせる……!」
フレアは矢をつがえ、わずかな風向きの変化を読む。
胸が沈み、世界が静まる。
真っ白な霧の奥から、怪鳥の羽音だけが響く。
「……見えた……!!」
息を止め、指を離す。
——ヒュッ!
矢は風に乗り、雪庇の“縁”を正確に射抜いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
——パキ……パキパキッ……!
亀裂が走り、白い板がゆっくりと前へ沈む。
「……いけ……!」
ドォォォォォッ!!!
雪庇が一気に崩れ落ち、
巨大な“白い壁”となって谷へと流れ込んだ。
吹き上がる冷気がフレアの髪をはね上げる。
ギャアアアアッ!!?
急降下していたカムナ=トゥチカは、
眼前に現れた雪の奔流に驚き、
慌てて翼を広げて急上昇した。
巻き込まれはしない。
しかし――追撃の軌道は完全に乱れる。
フレアは大きく息を吐いた。
「よしっ、これで……少しは時間稼ぎになる……!!
あとは――下るだけッ!」
フレアは足元を確かめながら、一定の歩幅で下っていく。
さっきまでの断崖とは違い、斜面はなだらかだ。
靴裏が地面をしっかり捉え、踏み出すたびに重心が安定する。
「……やった。楽勝楽勝!」
呼吸も整ってきた。
肩の力を抜き、背中の重みを意識し直す。
卵は静かだ。
揺れも、異音もない。
「……余裕、余裕。このまま一気に下るよ」
足取りは慎重だが、もはや怯えはない。
歩く速さも、少しずつ元に戻っていく。
道らしき凹みが続き、古い狩人道の名残が見て取れる。
何人もの足がここを通り、削り、固めた跡だ。
「昔の人たちに感謝しなくちゃ……おかげで無事帰れる」
風の向きも落ち着いている。
上空の羽音は、遠い。
フレアは視線を上げず、一定のリズムで歩き続けた。
一歩。
また一歩。
その時だった。
フレアの足裏が――沈んだ。
「……?」
踏みしめたはずの地面が、妙に柔らかい。
岩のはずなのに、返ってくる感触がない。
次の瞬間――
ジャリ……。
小さな音が、やけに大きく響いた。
「……まずっ」
言い終わる前に、足元が崩れた。
地面の表層が、皮を剥がすようにずるりと滑り落ちる。
土と砂利と砕けた石灰岩が、波のように前へ流れ出した。
「うわっ――!」
フレアは反射で後ろ足を引き抜き、前へ跳ぶ。
だが、次の一歩も同じだった。
ズルッ!!
ガラガラガラッ!!
足場そのものが、斜面ごと動き始める。
「っ……走るしかない……!! 昔の人、なんでこんな道にしたのよぉ!!」
フレアは身体を前傾させ、崩れゆく斜面を駆け下りる。
足を置いたそばから、地面が崩れる。
止まれば飲まれる。
立ち止まる余裕はない。
「このっ……っ!」
小石が弾き、脛を打つ。
背中の卵が揺れ、思わず歯を食いしばる。
「大丈夫……! 揺れるだけ……!」
言い聞かせるように叫び、フレアは腕を振った。
視線は下。
足元だけを見る。
ガラガラガラガラッ――!!
古い狩人道が役目を終えたかのように、背後で音を立てて崩れ落ちていく。
風が舞い上がり、土埃が視界を白く染める。
「……っ、まだ……!」
前方に、わずかに色の違う“空間”が見えた。
霧が薄く、奥が暗い。
地面が――ない。
「……谷……!? だめだめだめだめ!!!!」
それでも足元の斜面が大きく沈んでいく。
もはや止まれない。
「――死ぬ死ぬ。死ぬって!!」
フレアは視線を走らせる。
谷の向こう側、霧の切れ目に垂直に立つ岩壁が見えた。
白く風化した石灰岩。
判断は一瞬。
フレアは最後の一歩を踏み切り、空へ飛び出した。
胃が浮く。
足元が、完全に消えた。
背後で、斜面がまとめて崩落する音が轟く。
地鳴りのような振動が、空気を揺らした。
「いけぇぇぇぇッ!!」
空中で腰をひねり、身体を前へ伸ばす。
腕を振り抜き、ピッケルを構えた。
――ガンッ!!
鈍い衝撃。
刃が、向こう側の岩壁に突き刺さる。
「っ……!!」
腕に衝撃が走り、身体が宙で大きく揺れた。
だが――
――ギッ!
石灰岩に食い込んだ刃が、確かに噛んだ。
フレアの身体は、谷へ落ちきる寸前で止まる。
視界が揺れ、霧が渦を巻く。
下では、崩れた斜面が音もなく闇へ消えていった。
「……っ、は……っ……」
フレアは歯を食いしばり、両足を壁へ押しつける。
震える腕で、ピッケルを深く打ち込んだ。
「……セーフ……!!」
だが、まだ安心はできない。
上空で、羽音が聞こえる。
――ヒュウゥ……バサァッ!!
「……っ!」
フレアは息を呑む暇もなく、壁に指を食い込ませる。
休む余裕はない。
腕が悲鳴を上げている。指の感覚も曖昧だ。
それでも、登る。
――ザッ!
ようやく岩の縁に肘を掛け、身体を引き上げた、その瞬間。
バサァァッ!!
霧が、一気に押し流された。
風が止み、視界が開ける。
断崖の向こう、空を塞ぐように――
カムナ=トゥチカがいた。
広げた翼は、岩壁よりもなお大きい。
艶美な真紅の羽毛の下で筋肉がうねり、
鉤爪が岩を掴むたび、石が砕け落ちる。
「……でか……やっと、顔見せてくれたね……!」
思わず、声が漏れる。
フレアは即座に背中へ手を伸ばし、弓を引き抜いた。
指先がかじかみ、弦を張る感覚が鈍い。
「仕留める気はないって言ってるじゃん……」
そう呟きながら、矢をつがえる。
視線は、ぶれなかった。
「……だけどさすがにごめん。もう体力の限界……」
息を整え、弓を引き絞る。
狙いを、わずかに下げる。
羽毛の流れを外し、胴にも入らない位置。
翼の付け根――やや後方の飛翔筋。
カムナ=トゥチカが、翼を大きく打ち下ろし、
突風がフレアの髪を煽ったその刹那――
「……今だ」
息を止め、指を離す。
――ヒュッ!!
矢は風を裂き、
羽毛の縁をかすめるように走った。
ギャアアッ!!
悲鳴が、空に響く。
翼が、打ち下ろした拍子にわずかに抜ける。
力が入らず、羽ばたきの周期が崩れた。
巨体が大きくよろめく。
血は、線を引くように散る。
だが、深くは入っていない。
カムナ=トゥチカは高度を保とうと翼を打つが、
左右が噛み合わない。
羽ばたくたび、動きが鈍る。
ギャアアアッ……!!
悔しげな声を残し、
怪鳥は高度を下げながら、霧の向こうへ退いた。
やがて、羽音は遠ざかる。
フレアは弓を下ろし、膝に手をついた。
消えていく霧の向こうを、しばらく見つめ小さく呟く。
「……あなたの卵は、村のみんなの糧になる。
生きるために、その命を使わせてもらうよ。
だから……あなたも、生きて」
その瞬間だった。
「――あ」
足元が、ずるりと滑った。
苔だ。
湿りきった、柔らかい苔。
「ちょっ――!」
反射で身体を丸め、
咄嗟に布を前へ引き寄せる。
卵を、胸に抱え込む。
次の瞬間、視界が回り――
ズルズルズルッ……!
斜面を、情けない音を立てて滑り落ちた。
辺りにはもう雪は残っていなかった。
地面は、深い緑に変わり、
冷たい岩の匂いも、土と草の湿った匂いに塗り替えられている。
「わ、わ、わ、わ――っ!!」
最後は、
ふかふかの苔の絨毯に、
そのまま尻餅をつく。
ぽすっ。
「……」
フレアは、きょとんと周囲を見回した。
木々。
いつもの、見慣れた森。
「あは……」
思わず、笑いが漏れる。
「……いつもの森じゃん。
帰ってこられた」
力が抜け、肩が落ちる。
フレアは卵をそっと下ろし、
周囲に生えていた若い葉を千切り、躊躇いなくかじった。
「……にっが……」
顔をしかめつつ、噛み砕く。
「……だけどさ。
ちょっと大変だったな……」
卵に視線を落とし、苦笑する。
「卵取りだけに……」
一拍置いて。
「……えっぐい……」
――
旅立ちの日。
ティノ村広場にて。
「……卵?」
配給の荷車を引いてきた、でこの広い記録官が手を止め、目を開く。
大きく、丸く、淡い斑紋の入った殻。
「でかくて……珍しいな」
興味深そうに、そっと手を伸ばし、殻を撫でた。
「でしょ」
フレアは胸を張る。
「カムナ=トゥチカの卵だよ。
命懸けで取ってきたんだ。ね、ちょっと配給、おまけしてよ」
記録官は苦笑し、首を振った。
「すまんが……余分は、このランタン一個しかない」
荷台から小ぶりの灯のともるランタンを取り出す。
「これなら回してやれる」
「え〜……一個……」
不満げに頬を膨らませるフレアに言う。
「記録官の宿舎町には、“金色の上級記録官“様の屋敷がある。あの方に見てもらえれば……
取り計らってもらえるかもしれん」
フレアの目が、きらりと光った。
「ほんと?」
「ああ。保証はできんがな」
「わかった。頼むよ」
そう言って、フレアはにっと笑う。
次の瞬間、
軽やかに荷車へ飛び乗った。
車輪がきしみ、アグリが小さく嘶く。
「フレア――必ず、記録官になるんだぞ」
父ガロンが、静かに言った。
厳しい声ではない。
背中を押すような、まっすぐな声だった。
「身体には気をつけるのよ」
母ミナは、少しだけ眉を下げて微笑む。
言葉とは裏腹に、その目は名残惜しさを隠しきれていない。
その周りで、村人たちが手を振っていた。
フレアは荷車の上から、皆を見渡す。
卵を抱え、
そして、笑った。
「ありがと」
少し間を置いて、声を張る。
「行ってくるよ!
必ず――記録官になってくる!」
最後にもう一度、手を振る。
車輪が回り、
荷車はゆっくりと動き出した。
村は、少しずつ遠ざかる。
だが、背中は軽かった。
フレアの旅は、
ここから本当に始まる。
『灯の断章 外伝 〜赤い髪のフレア〜』を読んでいただき、ありがとうございます。
もし面白いと思っていただけたら、ブックマーク、評価をよろしくお願いします。あなたのリアクションが作品を書く原動力になります。




