報復の男
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
→https://ncode.syosetu.com/n5378ky/
――フレアが衛生室で目覚める数刻前。
「それでは、第十二回戦を始める。
名を呼ばれた者は前へ!」
整え直された試合場に、記録官の声が張り渡る。
砂は均され、踏み跡も消え、何事もなかったかのように静かだ。
「――ミック!」
名が響いた瞬間、志願者たちの輪が、待っていましたとばかりにざわめいた。
「出たぞ、あのお調子者!」
「おい、デブ。腹踊りだ!」
笑い声が弾ける。
嘲りではない。
だが、期待とも、応援とも違う。
ミックは、口の端を引きつらせたまま、喉を鳴らした。
踏み出そうとしたその瞬間、
ぐっと、肩に重みが乗る。
「お……?」
反射的に振り向く。
そこにいたのは、ネレクだった。
表情は、ほとんど動かない。
眉も、口元も、いつもと同じ。
ただ、無言で、肩を掴んでいる。
「……」
ミックは一瞬、目を瞬かせたあと、
ゆっくりと息を吐いた。
肩の力が、ほんの少し抜ける。
何も言わずに、こくりと頷く。
ネレクも同じように一度だけ頷き、
何事もなかったかのように、手を離した。
そのやり取りを、
後ろで、フォルドが腕を組み、横目に捉えていた。
ミックはもう一度、深く息を吸う。
円の中央へ歩き出し、
わざとらしく背筋を伸ばし、肩を大きく回す。
「よっ、と」
周囲に向かって、にっと笑う。
飛んでくる声に、ミックは親指を立てて応じる。
「よおし、やるぞ!」
声は軽い。
だが、足取りは、先ほどよりも慎重だった。
記録官の前に立つと、
ミックは軽く腰を折った。
「よろしくお願いしまーす!」
語尾を伸ばし、場の空気を和らげるように、首を傾げる。
記録官は、わずかに眉をひそめたが、何も言わない。
「次――、スカル」
その名が落ちた瞬間、
さっきまで弾んでいた笑いが、すっと引いた。
空気の温度が、ひとつ下がる。
周囲の声が、自然と小さくなる。
ミックは、にっと上げていた口角を、ほんのわずかに戻した。
向こう側から、影がひとつ歩いてくる。
フードを深く被り、上着の前は開き、
細く締まった身体が露わになっている。
胸元で、白地に黒い羽根の首飾りが、だらりと揺れた。
歩くたびに、腰にぶら下げたナイフの鞘が、からりと音を立てる。
ざわめきの奥で、声が漏れた。
「あいつ、さっきの試合で、勝ってもまだ相手の喉元にナイフを押し当てた男だろ……」
「ああ、記録官が止めに入っても、
払いのけてた……」
スカルは記録官の前で立ち止まると、わずかに顔を上げる。
フードの影の中。
視線は見えないはずなのに、
ミックの胸のあたりが、刺されるように冷たくなる。
ミックは、無意識に、胸を張った。
唇を引きつらせるのを、笑いに変える。
「お、おう!よろしくな!」
スカルは返事をしない。
記録官が、淡々と確認する。
「武器は自由。致命打は禁止。
どちらかの降参、戦闘不能、あるいは死角を突いたと、我々が判断した時点で終了だ。
分かっているな……?」
スカルが、首を傾けた。
ミックは、笑ってみせたまま、汗ばむ手を握る。
記録官の腕が、上がる。
「――始め!」
次の瞬間、スカルの影が、ふっと薄くなった。
「――っ!」
ミックは反射的に後ろへ跳んだ。
視界の端で、スカルの脚が大きく振り上がる。
思った以上に長い。
ブンッ!
蹴りはミックを掠め、空を切った。
ミックはさらに一歩下がる。
「……あっぶ! 避けたぞ!」
思わず声が漏れ、
腰の剣を抜きながら、体勢を整える。
その瞬間だった。
「……?」
腹のあたりが、じわりと熱い。
ミックは眉をひそめ、腹に手を当てた。
掌に、ぬるりとした感触が広がる。
「何だ?」
恐る恐る、手を見る。
赤い。
砂よりも濃い、はっきりとした赤。
一瞬、思考が止まる。
「……え……?」
周囲が、ざわつく。
「……血?」
「おい、今の……蹴りだろ……?」
ミックは自分の腹を見下ろした。
服が裂け、そこから血が滲み出している。
遅れて、焼けるような痛みが走った。
「う、うわぁぁっ!」
ミックは顔を歪め、視線を上げる。
スカルは、すでに距離を取っていた。
片足をわずかに引く。
同時に、靴のつま先が光を弾いた。
革の内側。巧妙に仕込まれた短く、鋭い刃。
長い脚の先端が、蹴りと同時にミックの腹を裂いていた。
「……は? 仕込みナイフ?」
ミックの喉がひくりと鳴る。
スカルは、何事もなかったように、のっそり詰め寄る。
「ひっ!」
ミックの声が引き攣った瞬間、足が動いた。
二度目の蹴り。
ミックは慌てて剣を構える。
キィィィン!
鋭い衝撃が剣を叩き、腕を伝って腹へと突き抜ける。
「――ぐ……!」
息が、また肺から押し出された。
腹の奥が、急に冷える。
血が流れているのに、熱より先に寒さが来る。
その瞬間だった。
バキィッ!!
鈍い音とともに、スカルの拳がミックの頬にめり込んだ。
「ぐわぁ!」
頭が弾かれ、視界が横に流れる。
足がもつれ、身体がよろめく。
ミックはたたらを踏みながら、数歩よろけた。
頬の奥がじんじんと痺れる。
口の中に鉄の味が広がった。
「い……痛え……」
ぽたり。
血が砂に落ちた。
ミックはそれをぼんやり見つめる。
砂が血を吸う。
それを見届けると、ゆっくりと顔を上げた。
「知っているぞ。
お前、“記録官の息子“なんだってな。
自分で言っていたよな……!」
スカルが、低く吐き捨てる。
次の瞬間。
スカルの足が動いた。
左、と思った瞬間、もう右。
ミックは必死にその動きを目で追う。
だが、追いつかない。
「こんちくしょう!」
ミックは剣を振り回した。
ブンッ。
ブンッ。
無闇に振る刃は、ただ空を切る。
「試験だからよ、殺しはしねえ」
刹那――右から蹴りが飛んで来た。
ドンッ!
「ぐわぁぁぁ!」
背中に衝撃が突き刺さる。
身が抉られ、血が飛び散る。
ミックの膝が、がくりと落ちる。
ガンッ!
間髪入れず、スカルの硬い靴底が、
容赦なくミックの後頭部を叩きつける。
「……あ……」
地面が近づく。
砂の冷たさが、頬に触れる。
「あぁ……でもよ、お前は半殺しだ!」
ガンッ。
ガンッ。
ガンッ。
スカルは何度も何度も、
そのまま、ミックの頭を踏みつけた。
「おい。こら、どうしたぁ!
記録官の坊ちゃんよお!」
砂と血が飛び散る。
踏みつけられるたびに、ミックの顔がぐにゃりと歪み、鼻が上へ折れ曲がり、骨の軋む鈍い音が響く。
「……嫌……。
……や、やめて……!」
言葉にはならない。
叫ぼうとしても、喉が固まって息が吸えない。
腕に力が入らず、剣が指先から滑り落ちた。
がしゃり、と鈍い音がして、砂に転がる。
周囲が、唖然とした声を漏らす。
「……え?」
「おい……やりすぎだろ?」
フォルドの腕が、自然と解かれる。
「……ミック……!」
口を開こうとして、
後の言葉が続かない。
ネレクは、
ただ、怪訝そうにスカルの足元を見ている。
「……こ……」
ミックの喉が、かすれる。
「あ……?」
スカルはふと、足を止める。
ミックは震える両手を地につき、
額を砂に押し付けたまま動かない。
その姿に、
志願者たちのざわめきが沈んだ。
誰も笑わない。
誰も声を出さない。
ただ、重い沈黙だけが広がっていく。
震える背中から、
惨めさと恥が滲み出ていた。
ミックは――
土下座していた。
「……降参……」
スカルは、動かない。
沈黙。
ミックは、まだ、頭を下げている。
人目を気にせず、
笑われることも厭わない。
いつもなら、どんな嘲りも笑って流せた。
なのに――
今は、誰も笑わない。
その静けさが、
かえって胸を締め付ける。
「お願い、します……。
……降参、です……」
言葉を吐き出した瞬間、
情けなさが胸の奥に広がった。
それは、傷口に塩を塗り込まれるような、
鈍く、逃げ場のない痛みだった。
「……」
スカルはその姿を無言で見つめる。
「ミック、降参だな? よし!」
記録官が駆け寄り、一度確認すると、静かに腕を上げた。
終わった。
助かった。
ミックは、ほんの少しだけ顔を上げた。
だが――
――ドンッ!!
鈍く、重い音。
記録官が、驚いて一歩退く。
ミックの身体が、
横から叩き潰されるように吹き飛んだ。
「――っ!!」
声にならない音が、空気を裂く。
視界が、反転する。
天地が入れ替わり、
次の瞬間、肩から地面に叩きつけられた。
――バキッ。
嫌な音。
遅れて、
血が弾けた。
肩口から、
赤いものが、扇状に飛び散る。
「……っ……あ……」
息が、抜けない。
肺が、縮む。
スカルはフードの影の下。
怒りが、はっきりと滲んでいた。
歪んだ厚い口元。
きつく、噛み締められた顎。
「……ふざけるな」
スカルの手が、ゆっくりとフードの縁にかかった。
ぐい、と引き下げる。
苔色の長髪が、ばさりと落ち、
額の影が消え、鋭い目が、まっすぐミックを射抜く。
「……なんだ、その……」
視線が、血に濡れた腹をなぞり、顔へ戻る。
「……だらしなさは……!」
一歩、踏み出す。
砂が、ぎし、と鳴る。
「俺たちが――
村人が、飢えて痩せこけてるってのに!」
スカルの手が、ミックの胸ぐらを掴んだ。
ぐい、と持ち上げる。
宙に浮いた瞬間――
バキッ!!
拳が、頬にめり込んだ。
ミックの顔が、横に弾ける。
「腹減って!」
ガンッ!!
反対の頬を、もう一発。
頭が跳ね、唾と血が飛ぶ。
「土を舐めて!」
ドゴッ!!
蹴りが、腹に叩き込まれた。
ミックの体が折れ、
そのまま砂の上に転がる。
「明日、生きてるかも分からねぇってのに!」
血が、砂に滲む。
スカルの目が、ぎらりと光った。
「……豚みたいに……肥えやがって!!」
スカルが吐き捨てる。
「この――
豚野郎が!!」
――
周囲から、息を呑む音が重なった。
志願者たちのざわめきが、波のように揺れる。
壇上。
ユリウスは眉をひそめ、身を乗り出した。
「危険、ですね……」
低い声だった。
その視線は、試合場の中央――
ミックを見下ろすスカルに向いている。
隣で腕を組んでいたグレイブが、ゆっくりと息を吐いた。
「ああ……」
短く答えると、戦斧の柄に手をかける。
太い指が、革巻きの柄をぎゅっと握った。
だが、その瞬間。
すっと隣の影が動いた。
黒の上級記録官ヴァルター・ウォールデン。
それまで沈黙していた男が、
杖をついて静かに立ち上がる。
その動きに、ユリウスとグレイブが同時に目を向けた。
ヴァルターは何も言わない。
ただ、腰の剣に手をかける。
ゆっくりと――
鞘を離れる鋼の音が、かすかに鳴る。
――
試合場。
スカルは荒い息を吐きながら、ミックを見下ろしていた。
「お前みたいな豚野郎、初めて見たぜ!
守られて……
食わせてもらって……
それで、笑って立ってる」
靴底が、砂を削る。
「……ふざけるなよ」
スカルは腰のナイフを抜き、ミックに駆け寄る。
刃が光った。
地面に這いつくばったミックは、顔を上げることもできない。
震える肩。
喉の奥から、かすれた息だけが漏れていた。
「ごめ……ん……。
ネレク……。……フォルド……っ」
後方で、ネレクは目を細め、フォルドの目が泳ぐ。
スカルが腕を振り上げる。
ナイフの切っ先が、まっすぐ喉へ向いた。
「助けを求めてんのは、村の方だ!
もういい、死ねよ!!」
振り下ろされる――
その瞬間。
――ギィィィィィィィィン!!
鋼が弾ける鋭い音。
一本の剣が空を切り、二人の間を引き裂くように、
地面に突き立つ。
ドォォンッ!!
刃が地面に深く食い込み、砂が周囲に巻き上がった。
何が起きたのか、誰も理解できない。
「……!?」
スカルの腕が、空中でぴたりと止まる。
ゆっくりと顔を上げ、振り向く。
壇上。
黒いマントが揺れ、白髪の長髪の男が立っていた。
振り抜いた手を、ゆっくりと下ろす。
その目は、鋭く細められ、
まるで獲物を射抜くような視線が、まっすぐスカルへ向いている。
「勝負はもう着いている!
それ以上は、規定の範囲外だ!」
低い声が落ち、視線は動かない。
「……下がれ!」
ざわめきは消え、場が凍りついた。
ユリウスが言葉を飲み、グレイブは握った戦斧を置いた。
フォルドも、ネレクも、そこに集まる誰もがヴァルターに視線を向ける。誰一人、声を出さない。
スカルはしばらく黙ったまま、そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……ちっ」
ナイフをくるりと回し、鞘へ戻す。
その手で、フードを深く被り直すと、
ミックに背を向け、不満そうに志願者たちの輪へと下がっていった。
ヴァルターはその背中を、一歩も動ず、ずっと睨みつけていた。
まるで、逃げれば斬ると言わんばかりに。
「……」
少し離れた場所。
担架に乗せられ、運ばれていくミックを横目に、
シンはその一部始終を静かに見届けていた。
体は動かない。
だが、その目だけが、鋭く細められている。
視線の先――
壇上に立つ、白髪の男。
かつての師。
ヴァルター・ウォールデン。
シンは何も言わない。
ただ、その姿をまっすぐ睨みつけていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
その場に残ったのは、重い沈黙だけだった。
『灯の断章 外伝 〜赤い髪のフレア〜』を読んでいただき、ありがとうございます。
もし面白いと思っていただけたら、ブックマーク、評価をよろしくお願いします。あなたのリアクションが作品を書く原動力になります。




