戦場に咲く花
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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――ズドンッ!!
空を支配していた赤黒い影が、
糸を断たれたように落下した。
ニーズヘッグの巨体が、
地面へと叩きつけられ、
外殻が砕け、翅が歪み、砂が噴き上がった。
複眼の光が、ふっと掻き消える。
「……やった、のか……?」
誰かの、掠れた声。
次の瞬間、
張り詰めていた空気が一気に弾ける。
「うおおおおおっ!!」
「倒したぞ……!」
「あんな化け物みたいな蜂を……一人で!」
ざわめきは波のように広がり、
やがて怒号に近い歓声へと変わっていく。
円の中央。
赤い髪の少女は、
仰向けに倒れたまま動かない。
弓を握る指だけが、わずかに緩んでいる。
遅れて、記録官の声が場に落ちた。
「対戦相手の降参により、勝者――フレア!!」
歓声が、さらに一段高くなる。
「おい、担架を用意しろ! 衛生室へ!」
「……大丈夫。眠ってるだけだ」
記録官たちが見回しながら、手分けして動き出す。
「こりゃ……試合場がめちゃくちゃだぞ……」
「武器は自由だからって……
毒蜂なんぞを使う馬鹿がいるとは……」
「後片付けだ。次が詰まってる、急げ!」
短いやり取りの合間にも、
視線は何度も、
倒れた少女へと戻っていく。
砂に横たわるその姿は、
勝者として称えられながらも、
どこか戦場の余韻を残したままだった。
壇上。
「……どう見ますか、グレイブ君」
ユリウスの問いに、
グレイブは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
視線は、円の中央。
砕けた外殻と、歪んだ翅。
そして、担架で運ばれていく赤い髪の少女。
「英雄だろ、あれ……」
歓声の中、誰かの声が耳をかすめる。
やがて、鼻で短く息を鳴らす。
「……はは」
低く、喉の奥で転がすような笑い。
「正直に言う。
派手ではない。剣も振らない。見栄えもしない」
肩をすくめる。
だが、再び聞こえた歓声に、
口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「――とは言え」
腕をほどき、円の中央を指で示す。
「知略で、空の獲物を地面に引きずり落とし、
戦い方そのものを変えた」
ぐっと拳を握る。
「速さも、判断も、胆力もある。なにより――
あの場で、前に出られる奴はそうはいない」
ユリウスは頷き、淡々と筆を走らせる。
グレイブの表情には、
はっきりとした高揚が滲んでいる。
「……英雄だなんだと、
騒ぎたくなる気持ちも、分からんでもない」
歓声の方へ視線を流す。
そして、低く、楽しげに言う。
「なるほど……。
賭けはいい勝負になりそうだな」
ユリウスは、
その言葉に視線を上げなかった。
「英雄は、物語には必要です」
さらさら、と乾いた音。
「ですが、我々が集めているのは――
物語ではありません」
その言葉に、
グレイブは眉をひそめ、ユリウスの方を振り向いた。
「秩序とは、
英雄を必要としない状態を維持すること」
一拍。
「我々記録官は、
賞賛を求めず、物語の中心に立つことを拒む者」
ぴたり、と筆を止める。
「そういう者たちこそ、
塔の秩序にとって、最も価値がある」
視線だけが、円の中央へ向く。
「――そして彼女は、
自分の行いを誇示しない」
グレイブは答えなかった。
担架で運ばれていく赤い髪の少女の背を、最後まで目で追う。
組んでいた腕をゆっくりと解き、
親指でこめかみを一度だけ掻いた。
小さく、息が漏れる。
「……はは。
いい拾い物をしたな、ユリウス」
――
「……」
ジェミルは、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
砂煙がゆっくりと落ち、
羽音の消えた空に、奇妙な静けさが広がっていく。
しばらくして、
ようやく喉が、かすかに鳴る。
「ああ……ラタトスク……。
君まで、失ってしまうとは……」
唇が、わずかに歪む。
それが笑みなのか、痛みに耐える形なのか、判別はつかない。
「……やはり君は、
ニーズヘッグを、愛していたんですね」
その言葉には、皮肉も、嘲りもなかった。
ただ、
研究者としての理解と、
生き物が生き物として選んだ結果への、静かな受容だけがあった。
隣で、シンは何も言わない。
止めも、肯定もせず、
ただ、ジェミルの横顔を見つめている。
やがて、静かに口を開いた。
「……今はただ、一人の狂人がここにいたように、
振る舞ってください。できますね?」
声は低く、感情の起伏はない。
忠告でも、非難でもない。
その言葉を、ジェミルは拒まなかった。
やがて、ジェミルの視線が、ゆっくりと外套の内側へ落ちる。
裂けた膜の奥。
幼虫が、蠢いている。
小さく、白く、
確かに“次”を宿した命。
ジェミルの呼吸が、静かに整う。
「ああ……そうか。
僕の研究は……まだ、終わってはいない」
唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。
狂気ではない。
歓喜でもない。
「ならば、今度は――」
理解した者だけが浮かべる、結論の表情。
「完全に制御可能なニーズヘッグと、
ラタトスクを育てるとしましょう」
隣で、シンはなおも何も言わない。
だが、その沈黙には、わずかな重みがあった。
――
数刻後。
消毒薬の匂いが、鼻の奥に刺さった。
天井は低い。白い布が波打つように吊られ、
風が通るたび、かすかに揺れている。
「――どこだ、ここ……」
フレアは目を開けようとして、
重たい意識に、舌打ちした。
「……寝てた……? 私……」
ゆっくりと上半身を起こし、
一度、腰に手を当て、呼吸を整える。
「……ふぅ……」
短く吐いて、背筋を伸ばす。
骨が鳴るような感覚。
肩を回すと、筋が少し引き攣ったが、すぐに収まった。
「……大丈夫だな。
試合は……どうなった……?」
フレアは首を左右に軽く振る。
その拍子に、すぐ隣にもう一つの寝台があることに気づいた。
薄い毛布の下で、
紫の髪が、枕に静かに広がっていた。
「フィオナ……!?」
頭に巻かれた包帯は白く、何重にも重なり、
こめかみのあたりだけ、うっすらと赤が滲んでいる。
腹部には、小さなランタンが添えられていた。
掌に乗るほどの、淡い灯。
呼吸に合わせて、わずかに明滅している。
返事はない。
ただ、胸の上下だけが、静かに続いている。
その時、
布の向こうで、足音が止まった。
す、と空気が変わる。
香りが先に届く。
甘すぎない、花の匂い。
それが消毒薬の鋭さを、柔らかく削っていく。
仕切りの布が持ち上がった。
そこに立っていたのは、背の高い女性だった。
光を含むような淡い金髪が、肩口で静かに揺れ、
肌は白く、表情は穏やかで、よく整っている。
胸元から腰へ落ちるシルクの衣装が、
動くたびに滑らかに光り、布が音もなく波打ち、柔らかな素肌が覗いた。
細いのに、線が冷たくない。
触れたら、痛みがほどけそうな体温がある。
フレアは、息を呑んだ。
――こんな人を、今まで見たことがない。
美しい、という言葉では足りない。
けれど、それ以外の言葉も見つからなかった。
女性は目を細めて、フレアの寝台へ歩み寄った。
「……目が覚めたのね」
声は低い。
まるで、眠りから戻ったばかりの子どもを、
そっと起こすような声。
フレアは、思わず背筋を伸ばした。
その拍子に、
赤い髪がばさりと跳ね上がる。
「え、ちょ……!」
慌てて手をやるが、寝起きの癖毛は言うことを聞かず、ぴょんと跳ねた前髪が、そのまま戻らない。
一気に、顔に熱が集まる。
女性は、その様子を見て、ふっと微笑んだ。
そして、ためらいもなく手を伸ばす。
指先は細い。
けれど、動きに迷いがない。
「心配ないわ。ここは塔の衛生室」
そう言って、
フレアの頭にそっと触れ、
跳ねた髪を撫でるように整えていく。
「あなたは模擬試合で勝ったあと、
そのまま眠ってしまったの。
きっと、少し疲れていたのね」
指は優しく、
触れるたび、赤い髪が大人しく元の位置へ戻っていく。
不思議と、逆らう気がしない。
「あ、あなたは……?」
フレアは、語尾を落とすように尋ねた。
「私はフリージア。
ここに運ばれてくる負傷者を預かっているわ」
花の名みたいに、軽いのに、
その場の空気を、静かに整えてしまう名だった。
フレアは一度頷き、
はっと思い出したように声を上げる。
「あ、試験は……! 勝った後どうなりましたか?
まさか、私、寝過ごしたんじゃ!?」
フリージアは微笑んだ。
「今はお昼休憩よ。安心して。
午前中の試合は終わったわ。
あなたの出番は、また午後から」
フレアは、ほっと息を吐いた。
フリージアは、隣の寝台――
フィオナへ視線を移した。
包帯。
灯。
眠る顔。
それらを一度だけ、確かめるように見てから、
再びフレアへと視線を戻す。
「彼女は、今は眠らせている」
柔らかい断言。
「頭を打っている。血も流した。
それに……心も、限界まで使った」
フレアの喉が、動く。
「……フィオナ、大丈夫なんですか……?」
フリージアは、ゆっくりと頷く。
「大丈夫」
たったそれだけで、
胸の奥の硬いものが、少しだけほどけた。
「……よかった……」
フレアの肩から、力が抜ける。
ほとんど息のような呟きだった。
その様子を見て、
フリージアは思い出したように、脇へと視線を落とす。
「そうだわ。これ……」
静かに取り上げたのは、
布で簡素に包まれた、小さな包み。
丁寧に布を解くと、
中から現れたのは、固焼きのパンだった。
表面にひびの入った、素朴なそれと、
一緒に、使い古された木製の水筒。
フリージアは、それを両手で支えるように持ち、
ほんの少しだけ身を屈めて差し出した。
「あなたに、と。
黒髪の男の子が届けてくれたのよ」
その声には、
ほんのわずかな、柔らかい含みがあった。
「あ……」
フレアの眉が、ぴくりと動く。
「あいつか……?」
フレアは、しばらくパンを見つめてから、
ゆっくりと手を伸ばした。
「……いただきます」
パンを割ると、乾いた音がした。
フレアは割れた断面を見下ろし、
一瞬だけ迷うように瞬きをしてから、
上品ぶるように、ほんの少しだけかじる。
「……ん……」
噛み締めた途端。
――ぐぅ。
間の抜けた音が、はっきりと鳴った。
「……っ!」
フレアの肩が跳ねる。
一拍遅れて、頬が一気に赤くなった。
「ち、違っ……! 今のは……!」
慌てて口を押さえるが、
空腹は正直だった。
フリージアは、その様子を見て、
声を立てずに微笑む。
責めるでも、からかうでもない。
ただ、微笑むだけ。
「……お腹が空いていたのね」
その一言に、
フレアは言い返せなくなる。
照れ隠しのように視線を逸らし、
それからもう一度だけ、
フィオナの眠る顔へ視線をやると、
ぎゅっとパンを握り、もう片方の手で、水筒を取った。
「私、そろそろ行きます。
フィオナのこと、頼みました!」
そう言い、立ち上がると、布の仕切りを押し分け、
そそくさと、衛生室を出ていこうとする。
その先で、ふと、視界に入る。
――もう一つ、奥の寝台。
そこには、布が多く掛けられていた。
包帯も、灯も、量が違う。
フレアの足が、止まった。
寝台の上。
大きな身体に乱雑に巻かれた包帯。
胸と肩、腹部まで何重にも覆われ、
灯は一つではなく、二つ、三つと添えられている。
目を閉じ、呼吸は、浅い。
見覚えのある顔が見えた瞬間、
フレアの喉が、詰まった。
「……ミック……?」
フリージアが、後ろから静かに告げた。
「彼は、あなたの次の試合で重症を負い、
ここへ運ばれてきた……」
淡々とした声。
「命に別状はない。
けれど……怪我はフィオナさんよりも重い……」
フレアは、拳を握った。
「……ご……め……」
ミックの唇が、何かを告げるように、かすかに動く。
息が漏れ、声は小さい。
フレアは気づいて、思わず一歩、近づいた。
「……ミック?」
はっきりとした返事はない。
ただ、呟くように唇がもう一度、ゆっくりと形を作る。
「……ごめんよ……」
かろうじて、聞き取れるほどの空気。
フレアは、息を止めた。
「……殴られて……
……蹴られるのって……」
唇が震える。
言葉の途中で、呼吸が乱れ、喉が鳴る。
「……こんなに……痛かったんだ……」
その一言に、実感がこもっていた。
誇張でも、愚痴でもない。
ただ、初めて知った事実を、そのまま吐き出すような声音。
ミックの口が、もう一度、動く。
「……フォルドを……
……止められなくて……ごめん……」
フレアの指先が、ぎゅっと縮こまる。
「……それから……」
呼吸が、引っかかる。
胸が、小さく上下する。
「……君が……次に戦うやつは……
……フォルドより……やばい……」
それだけ言うと、
ミックの唇は、ゆっくりと閉じた。
力が抜け、
口元が、わずかに歪む。
それが笑みなのか、安堵なのか、
フレアには分からなかった。
「……ありがとう」
フレアは、ただ一言だけ、そう告げる。
その傍らで、
フリージアが音も立てずに毛布を引き上げ、
ミックの肩口まで、そっと掛け直した。
そして、何も言わず、フレアを見つめた。
責めるでも、慰めるでもなく、
ただ、静かな心配だけを宿した眼差し。
フレアは小さく一礼すると、
視線を伏せたまま踵を返し、衛生室を後にした。
『灯の断章 外伝 〜赤い髪のフレア〜』を読んでいただき、ありがとうございます。
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