弦が鳴るまで
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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――ブブブブブブブブゥゥゥゥゥゥッ!
人の頭ほどもある赤黒い巨体。
首をぎこちなく左右に振り、ぴたりと止まり、
その度に、光沢を帯びた複眼が、ぎらりと光る。
暴君蜂――ニーズヘッグ。
翅が打ち鳴らされるたび、空気が引き裂かれ、
衝撃に引かれるように、砂が円の中心へと吸い寄せられる。
細かな粒子が舞い上がり、
その流れが、フレアの足元で渦を巻いた。
フレアは、半歩だけ腰を落とし、
肩を開き、視線だけを据える。
「……来い」
声は低く、短い。
ニーズヘッグが一気に距離を詰めた。
直線ではない。
獲物の反応を試すように、蛇行しながら、毒針を前へ突き出す。
フレアは一歩、横へ。
キィィンッ!
フレアの刃が、毒針の軌道を弾く。
羽ばたきに前髪が跳ね上がり、
次の瞬間、風圧が皮膚を殴った。
「……っ!」
フレアは歯を食いしばり、ナイフを振り上げる。
「はぁっ……!」
ギィィンッ!
硬質な音が弾ける。
刃は、ニーズヘッグの外殻をわずかに削っただけで、
弾かれるように跳ね返された。
手首に、鈍い痺れ。
「……くっそ、硬いっ!」
眉が、ほんのわずかに寄る。
次の瞬間、
ニーズヘッグの翅が大きく鳴り、
再び、距離が詰まる。
ブゥンッ!
翅が鳴る。
毒針が、視界いっぱいに迫る。
フレアはナイフをくるりと反転させ、
逆手で正面に構えた。
キィン! キンッ! キンキンッ!
払う。逸らす。絡め取る。
甲高い衝突音が、連なって弾ける。
衝撃が、腕を通して肩まで走る。
間髪入れず、ニーズヘッグが旋回する。
身体を捻り、翅を畳み、尾を振り上げる。
ブブッ――!
フレアは軸足をずらし、回転に合わせて身体を開く。
キィィィンッ!
刃が一瞬、火花を散らしながら、毒針を掠める。
「……来るなら、もっと近く!」
フレアの目が、細く鋭くなる。
その一瞬。
ニーズヘッグの軌道が、ほんのわずかに詰まった。
「……今っ!」
フレアの左手が腰へ走る。
ベルトから、登山用ピッケルを引き抜き、
迷いなく、握り込む。
踏み込みは一歩。
振りかぶらず、体重だけを乗せる。
ゴッ――!
狙いは、外殻と外殻の“節目”。
力ではなく、構造を壊す一撃。
だが――
ブゥンッ!
ニーズヘッグが、それを察知し、空を蹴るように跳ね退いた。
翅が鳴り、距離が一気に開く。
「ああ……っ!」
フレアは、舌打ちを噛み殺す。
「……もう……!
もうちょい……だったのに……!」
肩が、小さく上下する。
呼吸は浅い。
だが徐々に乱れ始めていた。
瞼が重く、
胸の奥で、眠りがじわじわと足元から這い上がってくるのがはっきりと分かった。
――
「ヴァルゲルミル先生ですよね?」
志願者たちがフレアとニーズヘッグの戦う円の中央に縫い止められている中、
ジェミルはその声に足を止めた。
喧騒から半歩外れた場所で、静かに投げかけられた低い声。
そこに立っていたのは、黒髪の少年だった。
背筋を伸ばし、ただ真っ直ぐにこちらを見ている。
ジェミルは一瞬だけ、目を細めた。
記憶を探るように、少年の顔をなぞる。
「ああ……。君は確か……シン君でしたね」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
記憶に残る、少年の面影。
「いやぁ……久しぶりですね。
君はいつも、塔の書庫で一人、
熱心に勉学に励んでいた……」
シンは小さく頷いた。
「……時々、お世話になりました」
声は落ち着いている。
だが、どこか確かめるような響きがあった。
「あなたが論じていた昆虫学と植物学。
今でも忘れません。あれは、まるで――」
一拍
「異端的発想の宝庫でした」
ジェミルの眉が、ほんの僅かに動いた。
「褒めても何もでませんよ?」
軽い調子だったが、笑みは目に届いていない。
どこか自嘲めいた声音だった。
シンは一瞬、彼の全身を見渡した。
引き裂かれた分厚い外套と、
幼虫がうねる鎖帷子の奥に隠れた体躯。
以前よりも明らかに痩せ、目の下には濃い影が落ちている。
「……ジェミル、とは……
随分と安直な名を名乗っておられる……」
ジェミルの口角が、わずかに上がる。
「でしょう?」
軽く言い、わざとらしく片手を上げた。
「ウィズの夜の後、塔を追い出された時、名前も置いていく必要がある気がしましてね」
その言葉に、シンは一瞬、視線を落とした。
ジェミルは小さく笑う。
「長すぎる名前は不便です。呼ばれにくいし、覚えにくい。だから削ったんです。
頭を落として、尾を切って――」
指で、ぱちん、と弾く。
「残ったのが“ジェミル”。
軽くて、安くて、使い捨て」
言い終えて、肩を竦める。
シンは、言葉を返さなかった。
静かに彼の仕草を見つめて、話を切り替えた。
「それにしても……以前とは別人のように痩せ呆けている」
その言い方は率直で、責める色はない。
ジェミルは鼻で、小さく息を吐く。
「塔を追われてから、色々ありました。
寝る時間も、食べる時間も……
削れるものは全部削った。
何せ僕、学者ですから。
塔の外に出されれば、頭を使う以外に能がない」
視線が、ふっと細くなる。
「君も、同じでしょう?
その目は、もう“勉強熱心な少年”のものじゃない」
シンは一拍、置いてから呟いた。
「……その格好を見ると、今でも独創的な研究に明け暮れているようだ」
静かな声。
「危険で、非効率で、当時の塔では、何の役にも立たないと笑われていた」
ジェミルの眉が、わずかに動く。
「人が嫌う、植物や昆虫が持つ毒。
一見、それらはただ危険で、度し難い“異物”です」
ジェミルは淡々と語る。
講義でも独白でもない、事実の確認のような口調だった。
「ですが、僕は気づいた。
人の身体は――異物を体内に迎え入れた時、必ず対抗しようとする」
視線が、静かに宙を彷徨う。
「毒に侵されれば、身体はそれを排除しようとする。
ならば、その反応を――恐れず、拒まず、緻密に観察し、調整すればどうなるか」
わずかに、口角が上がる。
「僕は研究しました。捕獲した野鼠を使い、時には自らの身体も用いて、致死量の手前、回復可能な境界。
毒と免疫が拮抗する比率を、何度も、何度も」
指先が、無意識に自分の胸元へ触れる。
「その結果、危険な毒は“克服すべき脅威”ではなく、
制御可能な“性質”へと変わった」
一拍。
「ラタトスクの睡眠毒は言うまでもなく。
ニーズヘッグの即死毒でさえ、今の僕にとっては二、三日の高熱で済むものとなった」
その言い方は、誇示でも虚勢でもない。
ただの事実報告だった。
「人は脅威を乗り越えられる。
そして、それに抗った者だけが、それを制御できる。僕は証明した」
ジェミルは外套の裂け目から手を伸ばす。
その指に、緑色の毒蜂ラタトスクが静かに止まった。
「ラタトスクとニーズヘッグ。
彼ら二匹は、切っても切れない夫婦です」
外套を見下ろす。
「ナストロンド・ベールは、
僕の研究と、彼らの愛の象徴――」
一瞬、視線がシンへ戻る。
「毒を拒むのではなく、受け入れ、共存する。
これを身にした僕にとって、もはや死は恐怖ではない。武力も必要としない。記録官への執着もない」
静かに、結ぶ。
「僕は学者だ。
ただ、この毒の力を――今の塔がどう見るか。
それを、試したかっただけです」
沈黙。
シンは、ほんのわずかに息を吐いた。
「……やはり、先生は狂っていますね」
視線を逸らさず、続ける。
「これ以上は、あなたの進退が危うい」
ジェミルは一瞬、きょとんとした顔をしてから、肩をすくめた。裂けた外套が、かすかに擦れる。
「そうですか?
いい戦略だと思ったんですけどねぇ」
軽く笑う。
「まぁ……毒に抗う“別の道”を示すあの娘の前では、
前提そのものを、壊されましたが」
言いながら、ジェミルは視線を円の中央へ向ける。
赤い髪の狩人。
眠りに侵されながらも、なお立ち続ける少女。
シンもまた、その先へ目をやった。
「あなたの研究は、決して無駄ではない」
声は低く、確信に満ちていた。
「灯が管理されるこの世界にとって、
あなたの研究はいずれ――必ず、必要になる」
シンの視線が、フレアを捉える。
「だが、今はまだ早い。
これ以上、あなたの存在と研究が露呈する前に、
暴れ蜂はあの女狩人に、始末してもらう」
ジェミルは、その横顔を一瞬だけ盗み見ると、
残念そうに、小さく笑った。
「……相変わらず、君も塔にとっては異端だ」
――
キィンッ! キィィンッ!
フレアは、毒針の応酬を必死にナイフで受け止める。
弾くたび、金属越しに衝撃が伝わり、
手首が痺れ、肩が軋む。
「……っ、当たれ……!」
息を噛み殺し、片手のピッケルを振るう。
だが、眠気が判断より先に身体を鈍らせ、
刃先は空を切る。
ニーズヘッグは翅を震わせ、距離を詰めては引く。
戦いに酔う狂戦士のように、荒々しく律動で間合いを測っていた。
「……このままじゃ……」
視界の縁が暗く滲み、焦点が合わない。
瞼が、勝手に重くなる。
「……寝る。寝ちゃう……終わる……!」
自分に言い聞かせるように、唇を噛む。
だが、膝が笑い、足元が揺れた。
フレアは、視線を落とす。
踏み固められた荒野の土。
朝靄で湿っていたはずの地面は乾き、硬く締まっている。
だが、誰かの靴跡にわずかに残る泥。
浅く、薄く、それでも確かに刻まれていた。
フレアの瞳が、細く見開かれる。
「……一か八か……!」
次の瞬間、フレアは、横へ転がるように身を投げた。
ブンッ!
毒針が、頭上を裂いた。
その隙に、膝をつき、ピッケルを地面へ叩き込む。
ゴッ!
土が弾ける。
一撃では浅い。だが、確かに削れる。
「……っ!」
息を詰める間もない。
ブゥンッ!
ニーズヘッグが覆い被さるように迫る。
フレアは地面を蹴り、もう一度転がった。
砂が舞い、視界が白く揺れる。
ガリッ!
それでも、地面を掘る。
逃げながら、削る。
次の瞬間、影が落ちた。
――ドンッ。
反射的に、ピッケルを突き上げる。
ガキィンッ!!
硬質な衝撃。
顎を受け止めたまま、身体が押し潰される。
土の匂い。
金属じみた外殻の臭気。
熱を帯びた吐息が、頬を舐めた。
視界いっぱいに、赤黒い顎。
その奥で、複眼がぎらりと光り、わずかに焦点を絞る。
「きも……いや、きもっ……!」
フレアは両足を突き上げ、靴底で毒針の根元を蹴り返した。
「……っ、離れろ……!」
ガンッ、ガッ、ガッ!
翅が鳴り、圧が抜けた。
その瞬間を逃さず、身体を捻る。
地面を転がり、距離を取る。
そして、また――
ゴッ!
ピッケルで、地面を叩く。
周囲がざわめいた。
「何してるんだ……? あいつ……」
フォルドが呟く。
壇上で、ユリウスは身じろぎもせず、フレアを見据える。
転がる。
避ける。
叩く。
毒針が掠め、砂が跳ねる。
それでも、止まらない。
呼吸が荒れ、視界が揺れる。
「……もう、限界……!」
次の瞬間。
――ズブッ!
鈍い音。
ニーズヘッグの毒針が、地面に深く突き刺さった。
「掛かった!」
引き抜こうとする。
だが、抜けない。
ニーズヘッグが苛立ち、強引に翅を打った。
――ブォブォブォブォブォブォンッ!!
地面が爆ぜ、乾いた土と砂が一気に舞い上がる。
翅の膜に、節に、関節に――
砂が噛み込み、羽ばたきが乱れる。
「……今だ……!」
フレアは膝を折りながら立ち上がる。
肩が震え、それでも一歩、また一歩と間合いを詰めた。
その頃、ジェミルの掌でラタトスクが翅を震わせた。
触角が、ぴくりと跳ね、砂煙の向こう――
ニーズヘッグの影を正確に捉える。
「……ラタトスク……?」
ジェミルの声よりも早く、
緑の小さな身体が、空気を裂いた。
一直線。
加速。
思考の介在しない、条件反射。
「――待て!」
叫びは、追いつかない。
フレアは、ゆっくりと間合いに入る。
息を吐き、力を溜め、首の節目へピッケルを振り上げる。
その瞬間。
ラタトスクが、正面へ滑り込んだ。
身を投げ出すように。
迷いなく。
フレアの腕が、一瞬だけ止まる。
「……ごめん……」
低く、掠れた声。
「ここで止まれば、私が刺される。
……私は、止まれないんだ……!」
振り下ろした。
「ラタトスク!!」
ジェミルの叫びが、空に引き裂かれたまま消えた。
ゴッ――!!
ピッケルが落ちる。
緑の外殻が砕け、翅が散り、
内側の光が弾けるように飛び散った。
関節を貫かれ、ニーズヘッグの首が大きく歪む。
それでも――
複眼が、まだ焦点を失っていない。
砕け散ったラタトスクの残骸が、視界を横切り、
その衝撃に引かれるように、頭部がわずかに傾ぐ。
腹部が反射的に持ち上がる。
毒針が、狂った角度のまま、最後の本能に従って突き出される。
「……ほんと……しぶとい……」
フレアの足が崩れる。
倒れながら、弓を引き寄せ、矢筒に手を伸ばす。
――残り、一本。
指先が震え、それでも弓を引く。
仰向けのまま、狙いを定める。
空は、砂煙で白く濁り、
輪郭も、距離も、もう判然としない。
耳元を震わせる、低い羽音。
重なる、巨大な影。
弦が鳴った。
――ギンッ。
その音を最後に、フレアの意識は闇へ落ちた。
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