毒の滴る天幕
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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グレイブは、顎に手をやったまま、砂煙の向こうを睨んでいた。
赤い髪の少女と、分厚い外套の男。その間を漂う、異様な緊張。
「おい。
フレアとかいう小娘、今の……
毒蜂に刺されたんじゃないのか?」
言いながら、視線だけを横へ滑らせる。
隣でユリウスは、すぐには答えなかった。
筆を持った指先が、わずかに動く。
視線は円の中央から一瞬も外れていない。
「……たとえ模擬試合中に、何が起ころうとも、
我々が“止めない”限りは、試験は続行です」
そう静かに言ってから、ようやくグレイブの方を見る。
「彼女が倒れるか。
相手が折れるか。
あるいは――別の何かが露わになるか」
視線を戻し、淡々と続けた。
「……様子を見ましょう」
グレイブは、鼻で短く息を吐いた。
「ふん……」
――
「なにそれ? 脅しのつもり?」
フレアは、痺れる肩から手を離した。
「……蜂に刺されたくらいで、倒れるほど軟じゃないよ」
言い切ると同時に、矢筒へと手を伸ばす。
引き抜かれた一本の矢は、ためらいもなく弓に番えられた。
ジェミルは、動かない。
逃げもせず、構えもせず、それは警戒というよりも、結果を待つ観察者の視線だった。
「……動かないなら、先に撃たせてもらうよ!」
フレアは視線を逸らさない。
弦を引き絞り、息を整える。
狙いは、脚。
確実に動きを止める部位。
シュパッ――
空気を裂いて放たれた矢は、
ガッ。
鈍く乾いた音を立て、ジェミルの右太腿を捉えた。
重い衝撃で、彼の足がわずかに押される。
しかし、矢は深く刺さらず、外套の表面に噛みついたまま止まり、羽根だけがかすかに震えていた。
「……」
フレアの眉が、わずかに寄る。
「なに……?」
弓は下ろさない。
声だけを、静かに投げる。
「その外套の下、何か仕込んでるってわけ?
だから避ける必要も、ないって?」
ジェミルはゆっくりと、
足元に刺さった矢を一瞥し、小さく、息を吐く。
「はぁ……。
やはり……弓というものは不遇ですね」
「は?」
ジェミルは顔を上げる。
その表情に、焦りはない。
「この試験では、致命傷は即失格。
急所を狙えない以上、弓は“決定打”になり得ない」
淡々と、事実だけを並べる。
「遠距離からの牽制にはなる。
時間を奪い、場の流れも支配できる。
ですが……勝敗を決める力には、届かない」
フレアは、口の端をわずかに上げた。
「……ふぅん」
軽く受け流すように言いながら、
もう一本、矢筒から矢を抜く。
視線は外さないまま、足だけを半歩ずらす。
「じゃあさ、あなたの“武器”は、あれだよね」
ちらりと、先ほど蜂が消えた方向へ視線を投げる。
「さっきの“蜂”」
ジェミルの眉が、ほんのわずかに動いた。
「前の試合……相手は、傷も血もないまま倒れた。
逃げ回って、時間を稼いで……
気づいたら、相手は気を失ってた」
フレアの声は落ち着いている。
確信だけを、積み上げていく。
「つまり、直接倒してない。
毒を盛って、効くまで待った」
一拍。
「……で、蜂が武器なら」
弓を構え直す。
「この毒は、死なない」
ジェミルは、答えない。
「麻痺か、眠りか……。
もし、死ぬような毒なら……こんな試験じゃ使えないでしょ?」
フレアの視線が、真っ直ぐに突き刺さる。
「さっきの脅しは“いつそれが来るか分からない” って思わせるため。焦ればその分、毒は早く回る」
風が、二人の間を抜ける。
「……時間稼ぎが、あなたの戦い方」
ジェミルは、ゆっくりと首を傾げた。
「……興味深い推論ですね」
だが、その口調には評価も否定もない。
「ですが――推論は推論。
やはり死に至る毒かもしれない。
僕の武器が、“蜂”であると証明されなければ、あなたが死んでも、それは運の悪い偶然ですから」
シュッ――
「……!」
その瞬間、矢が、紙一枚の距離で彼の頬をかすめた。
空気が裂け、
背後で乾いた音がして、矢が地面に突き立つ。
ジェミルの頬に、じわりとした熱。
そこに赤い血の筋がゆっくり流れた。
「……これは」
その様子を見て、
円を囲む志願者たちが、まとめて息を呑んだ。
「い、今の……
わざと外れるギリギリを狙ったのか……?」
「なんだ、あいつ。度胸あるな……」
壇上で、グレイブが思わず身を乗り出す。
「やるな、あの娘……! 当たれば即失格だぞ……」
ユリウスは、目を伏せたまま静かに答えた。
「あれが彼女の、弓……
いい腕をしている」
円の中央で、
フレアはそのざわめきを気にもせず、
言葉を投げかける。
「その外套――頭以外は完璧だよね」
ジェミルは相変わらず、答えない。
「……誰も“頭は狙わない”って、最初から思ってるから?」
フレアは弓を下ろさない。
「これも偶然だと思う?」
矢の軌道は、雄弁だった。
その事実を理解するには、
ジェミルは十分すぎるほど聡明だった。
「……脅し、ですか?」
「いいや」
フレアは一歩、踏み出す。
「証明してあげるよ。
毒が効く前に、あなたの手の内を全部暴いて倒す!」
フレアは言い切ると、弦を引いた。
矢先を、さっきより、ほんのわずかに下げる。
シュパ――
放たれた矢は、今度はジェミルの左肩をかすめる。
布が引かれ、上半身が小さく揺れた。
「……」
その反応を、フレアは見逃さない。
間を置かず、次の矢を番える。
シュパン――
ジェミルは反射的に身を引いた。
ゴッ。
矢は、外套の右脇腹に突き立つ。
「あれぇ?
さっきまで余裕そうに突っ立ってただけなのに、
――動揺してるんじゃない?」
ジェミルは刺さった矢を一瞥し、距離を測るように後退る。
矢の間合い。
次の一射までの時間。
視線が、自然とフレアへ向いた。
彼女は、追ってこない。
弓を構えたまま、踏み込まず、走らず――ただ、そこに立っている。
肩が動かない。
呼吸の起伏が、見えない。
肺を大きく使わず、腹の奥だけで、
最小限の呼吸を往復させている。
心拍を上げず、血の巡りを抑え、毒が回る速度そのものを削ぎ落とす呼吸。
その在り方を見た瞬間、
ジェミルの中で組み上げてきた理屈が、音もなく、静かに崩れ落ちようとしていた。
普通の剣士なら、成す術はない。
だが、目の前の少女は、
厳しい自然を相手に、生き延びる術を会得している。
熟練の狩人。
まさに、“天敵”。
フレアは、弓を構え直す。
腕に力を入れず、肩を固めない。
引き絞るのは、指先だけ。
余計な筋肉を、眠らせる。
照準が揺れなくなる。
視界が、一本の線に収束する。
思い出すのは、ティノ村の厳冬。
吹雪の中、息を誤れば肺が焼け、
一歩動けば、命を失う狩り。
生き残る術は、ただ一つだった。
シュッ――
ガッ。
矢は、ジェミルの右肩部に確実に食い込んだ。
フレアは弓を下ろさない。
速めない。
ただ、同じ調子を保つ。
彼女の呼吸は、すでに狩りのものだった。
「これで……」
だが、次の矢を番えようとした、その瞬間。
ドクン……。
ジェミルはその変化を察知し、わずかに瞬いた。
フレアの視界が揺れる。
焦点が合わず、喉が乾く。
フレアの胸が、一度だけ大きく上下した。
身体が、重い。
脚は動く。
腕にも、まだ力は残っている。
だが、反応が半拍遅れる。
「おや……」
低く、愉しげな声。
「毒が効く前に証明する、と言いましたね」
ジェミルは、その場で足を止めた。
「呼吸の制御は実に見事なものです。
ですが、もう時間が迫っているようだ」
穏やかな声だった。
忠告の形をした、宣告。
「もう巡っています。
着実に、淡々と、非情に――」
シュッ。
その瞬間、
矢が、外套の左表面を撫でるように走った。
バリ……。
「……!」
布が矢先を覆い、引き攣れる。
張り詰めた布が、低く軋む。
「ありがと、心配してくれて……!」
フレアのその言葉に、ジェミルの声が、わずかに上擦った。
フレアは、止まらない。
二射目。
同じ高さ。同じ軌道。
シュパッ――。
「ま、まさか……!」
布は逃げない。
ジェミルの右肩、右脇腹、右脚。
堅固な外套に突き立つ三本の矢が、まるでアンカーのように、布ごと表面を固定している。
「始めから、これを狙っていたと、いうのですか!?」
そこへ、反対側からの矢が張力を与え、
さらに二射目が、それを横に――
引き裂いた。
バリバリバリバリバリッ!!
布が悲鳴を上げ、裂け目が、右肩から脇腹へ。
そこから一気に、下へと走る。
「どう? 見たか……!」
フレアの声に、裂けた外套が力を失い、だらりと開いた。
「すげぇ! 裂けたぞ!」
「嘘だろ……あんな分厚いのを……」
円を囲む志願者たちから、抑えきれないざわめきが湧き上がった。
ユリウスとグレイブも声を失う。
ジャラ……ジャラ……
重なり合った金属が擦れ、
刃を受け止めるための鎖帷子が露わになる。
その下。
黒く、歪な塊が――張り付いていた。
「……げ」
フレアの口から、思わず声が漏れる。
ミチ……ミチミチ……
鎖帷子の輪ひとつひとつに、
樹脂のような粘ついたものが絡みつき、
隙間を縫い、覆い尽くすように形作られた異物。
それは巣だった。
金属に寄生するかのように組み上げられ、
外套は、その上に被せられた膜でしかない。
巣の内側では、
淡く濁った色をした幼虫が数匹、
ぬめりを帯びた身体をくねらせながら蠢いている。
ブブブブブブ――
低い羽音が、空気を震わせた。
フレアの視線が、反射的に跳ねる。
「あ……あいつ……!」
先程、肩を刺した緑色の蜂。
それが、どこからともなく舞い戻ってきた。
ふらり、と宙で一度静止し、
ゆっくりと巣の外縁へと降り立つと、
翅をしまい、頭を下げるように身を伏せる。
「……おかえり、ラタトスク」
ジェミルは、穏やかな声でそう告げた。
視線はフレアから外さないまま、
まるで当然の存在を紹介するように言葉を続ける。
「この外套の名は、ナストロンド・ベール。
“屍の岸”の名を借りた、毒の滴る天幕です。
そこに二匹の蜂が棲まい、僕はその檻の中で、
生かされているだけの囚人です」
「は?」
フレアの喉が、ひくりと鳴る。
低い羽音が、さらに重なる。
「そしてあなたは、それを壊した」
その声に、非難はない。
ただ事実を述べているだけだった。
「巣を裂き、幼虫を晒し、
守るべきものに触れてしまった」
その瞬間。
巣の奥が――脈打った。
黒い塊の中心から、
ずるりと割れ、
内側から、赤い影が這い出してくる。
ブゥゥゥ――!
空気が、押し潰される。
人の頭ほどの胴体を持つ赤い蜂が、
巣から飛び立ち、宙へと浮かび上がった。
荒々しく翅が打ち鳴らされるたび、
胸の奥に、鈍い圧が響く。
「なに……その化け物みたいな蜂……!?」
フレアの声は、わずかに低くなった。
冗談めかした調子が、消えている。
周囲にも、はっきりとしたざわめきが走る。
「蜂……? なんで……?」
ミックが息を呑む。
「おいおい、でかすぎだろ……!」
フォルドの声に引きずられるように、
ネレクもまた、無意識に一歩、後ずさった。
「……」
壇上で、グレイブが無言のまま戦斧に手をかける。
柄を握り、持ち上げかけた――その瞬間、止まった。
ユリウスが手を伸ばし、視線を向けないまま、それを静止した。
「……っ」
もはや審判役の記録官ですら、思わず円の縁まで足を引き、距離を取っている。
シンは口元に手を添え、戦局を測るように見つめていた。
ジェミルは、静かに口を開いた。
「緑の蜂は、雄の斥候役、ラタトスク。
安心してください。
彼の毒はご明察通り、睡眠毒です」
淡々と告げながら、ちらりと赤い蜂へと視線を向ける。
「そして……」
赤い蜂が、ぎしりと身体を捻る。
巨大な頭部がゆっくりと持ち上がり、
一直線に、フレアを射抜くように定まる。
腹端からは、粘性のある液を垂らしながら、
鈍く光る毒針が、出入りを繰り返していた。
ブジュ……ブジュ……。
「赤い蜂は雌の暴君、ニーズヘッグ」
ジェミルはほんのわずかに眉を下げた。
口元に、困ったような、曖昧な笑みが浮かぶ。
「刺されれば、即死。
巣を壊され、怒り狂う彼女は、
もう止められない……」
ジェミルは肩をすくめ、くるりと背を向けた。
円の端で身を引いていた記録官の方へ、足音を殺すように歩き出す。
「毒で眠り切る前に、彼女を止められなければ、
あなたの命は、ここまで。
そして、蜂が“武器”だと暴かれた以上、
あなたが彼女を倒しても、僕の敗北。
あなたが死んでも、僕の失格……」
ジェミルは一度足を止め、首だけ振り返る。
視線は冷たく、穏やかな微笑みだけを浮かべて、
結論を告げる。
「……これはまったく、想定外。
失策、誤算、そして――撤退です」
「ふっざけんな……この無責任男!」
フレアは弓を肩にかけ、ニーズヘッグから目を離さないまま、
落ちかける視界を噛み殺すように、腰のナイフを引き抜いた。
――ブブブブブゥゥゥゥゥゥッ!
殺意そのものの翅音が、鼓膜を震わせる。
ジェミルは、もうこちらを見ないまま、淡々と言葉を落とす。
「僕は、まだ評価の対象でいたいので」
一拍。
「……どうか、がんばって生き延びてください」
『灯の断章 外伝 〜赤い髪のフレア〜』を読んでいただき、ありがとうございます。
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