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毒の滴る天幕

本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。


ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」

と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。


興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。

→https://ncode.syosetu.com/n5378ky/

挿絵(By みてみん)



グレイブは、顎に手をやったまま、砂煙の向こうを睨んでいた。

赤い髪の少女と、分厚い外套の男。その間を漂う、異様な緊張。


「おい。

 フレアとかいう小娘、今の……

 毒蜂に刺されたんじゃないのか?」


言いながら、視線だけを横へ滑らせる。


隣でユリウスは、すぐには答えなかった。

筆を持った指先が、わずかに動く。

視線は円の中央から一瞬も外れていない。


「……たとえ模擬試合中に、何が起ころうとも、

 我々が“止めない”限りは、試験は続行です」


そう静かに言ってから、ようやくグレイブの方を見る。


「彼女が倒れるか。

 相手が折れるか。

 あるいは――別の何かが露わになるか」


視線を戻し、淡々と続けた。


「……様子を見ましょう」


グレイブは、鼻で短く息を吐いた。


「ふん……」


――


「なにそれ? 脅しのつもり?」


フレアは、痺れる肩から手を離した。


「……蜂に刺されたくらいで、倒れるほど軟じゃないよ」


言い切ると同時に、矢筒へと手を伸ばす。

引き抜かれた一本の矢は、ためらいもなく弓に番えられた。


ジェミルは、動かない。

逃げもせず、構えもせず、それは警戒というよりも、結果を待つ観察者の視線だった。


「……動かないなら、先に撃たせてもらうよ!」


フレアは視線を逸らさない。

弦を引き絞り、息を整える。


狙いは、脚。

確実に動きを止める部位。


シュパッ――


空気を裂いて放たれた矢は、


ガッ。


鈍く乾いた音を立て、ジェミルの右太腿を捉えた。


重い衝撃で、彼の足がわずかに押される。


しかし、矢は深く刺さらず、外套の表面に噛みついたまま止まり、羽根だけがかすかに震えていた。


「……」


フレアの眉が、わずかに寄る。


「なに……?」


弓は下ろさない。

声だけを、静かに投げる。


「その外套の下、何か仕込んでるってわけ?

 だから避ける必要も、ないって?」


ジェミルはゆっくりと、

足元に刺さった矢を一瞥し、小さく、息を吐く。


「はぁ……。

 やはり……弓というものは不遇ですね」


「は?」


ジェミルは顔を上げる。

その表情に、焦りはない。


「この試験では、致命傷は即失格。

 急所を狙えない以上、弓は“決定打”になり得ない」


淡々と、事実だけを並べる。


「遠距離からの牽制にはなる。

 時間を奪い、場の流れも支配できる。

 ですが……勝敗を決める力には、届かない」


フレアは、口の端をわずかに上げた。


「……ふぅん」


軽く受け流すように言いながら、

もう一本、矢筒から矢を抜く。


視線は外さないまま、足だけを半歩ずらす。


「じゃあさ、あなたの“武器”は、あれだよね」


ちらりと、先ほど蜂が消えた方向へ視線を投げる。


「さっきの“蜂”」


ジェミルの眉が、ほんのわずかに動いた。


「前の試合……相手は、傷も血もないまま倒れた。

 逃げ回って、時間を稼いで……

 気づいたら、相手は気を失ってた」


フレアの声は落ち着いている。

確信だけを、積み上げていく。


「つまり、直接倒してない。

 毒を盛って、効くまで待った」


一拍。


「……で、蜂が武器なら」


弓を構え直す。


「この毒は、死なない」


ジェミルは、答えない。


「麻痺か、眠りか……。

 もし、死ぬような毒なら……こんな試験じゃ使えないでしょ?」


フレアの視線が、真っ直ぐに突き刺さる。


「さっきの脅しは“いつそれが来るか分からない” って思わせるため。焦ればその分、毒は早く回る」


風が、二人の間を抜ける。


「……時間稼ぎが、あなたの戦い方」


ジェミルは、ゆっくりと首を傾げた。


「……興味深い推論ですね」


だが、その口調には評価も否定もない。


「ですが――推論は推論。

やはり死に至る毒かもしれない。

僕の武器が、“蜂”であると証明されなければ、あなたが死んでも、それは運の悪い偶然ですから」


シュッ――


「……!」


その瞬間、矢が、紙一枚の距離で彼の頬をかすめた。


空気が裂け、

背後で乾いた音がして、矢が地面に突き立つ。


ジェミルの頬に、じわりとした熱。

そこに赤い血の筋がゆっくり流れた。


「……これは」


その様子を見て、

円を囲む志願者たちが、まとめて息を呑んだ。


「い、今の……

 わざと外れるギリギリを狙ったのか……?」


「なんだ、あいつ。度胸あるな……」


壇上で、グレイブが思わず身を乗り出す。


「やるな、あの娘……! 当たれば即失格だぞ……」


ユリウスは、目を伏せたまま静かに答えた。


「あれが彼女の、弓……

 いい腕をしている」


円の中央で、

フレアはそのざわめきを気にもせず、

言葉を投げかける。


「その外套――頭以外は完璧だよね」


ジェミルは相変わらず、答えない。


「……誰も“頭は狙わない”って、最初から思ってるから?」


フレアは弓を下ろさない。


「これも偶然だと思う?」


矢の軌道は、雄弁だった。


その事実を理解するには、

ジェミルは十分すぎるほど聡明だった。


「……脅し、ですか?」


「いいや」


フレアは一歩、踏み出す。


「証明してあげるよ。

 毒が効く前に、あなたの手の内を全部暴いて倒す!」


フレアは言い切ると、弦を引いた。

矢先を、さっきより、ほんのわずかに下げる。


シュパ――


放たれた矢は、今度はジェミルの左肩をかすめる。

布が引かれ、上半身が小さく揺れた。


「……」


その反応を、フレアは見逃さない。

間を置かず、次の矢を番える。


シュパン――


ジェミルは反射的に身を引いた。


ゴッ。


矢は、外套の右脇腹に突き立つ。


「あれぇ?

 さっきまで余裕そうに突っ立ってただけなのに、

 ――動揺してるんじゃない?」


ジェミルは刺さった矢を一瞥し、距離を測るように後退る。

矢の間合い。

次の一射までの時間。


視線が、自然とフレアへ向いた。


彼女は、追ってこない。

弓を構えたまま、踏み込まず、走らず――ただ、そこに立っている。


肩が動かない。

呼吸の起伏が、見えない。


肺を大きく使わず、腹の奥だけで、

最小限の呼吸を往復させている。

心拍を上げず、血の巡りを抑え、毒が回る速度そのものを削ぎ落とす呼吸。


その在り方を見た瞬間、

ジェミルの中で組み上げてきた理屈が、音もなく、静かに崩れ落ちようとしていた。


普通の剣士なら、成す術はない。

だが、目の前の少女は、

厳しい自然を相手に、生き延びる術を会得している。


熟練の狩人。

まさに、“天敵”。


フレアは、弓を構え直す。


腕に力を入れず、肩を固めない。

引き絞るのは、指先だけ。


余計な筋肉を、眠らせる。

照準が揺れなくなる。

視界が、一本の線に収束する。


思い出すのは、ティノ村の厳冬。

吹雪の中、息を誤れば肺が焼け、

一歩動けば、命を失う狩り。


生き残る術は、ただ一つだった。


シュッ――

ガッ。


矢は、ジェミルの右肩部に確実に食い込んだ。


フレアは弓を下ろさない。

速めない。

ただ、同じ調子を保つ。


彼女の呼吸は、すでに狩りのものだった。


「これで……」


だが、次の矢を番えようとした、その瞬間。


ドクン……。


ジェミルはその変化を察知し、わずかに瞬いた。


フレアの視界が揺れる。

焦点が合わず、喉が乾く。


フレアの胸が、一度だけ大きく上下した。


身体が、重い。


脚は動く。

腕にも、まだ力は残っている。


だが、反応が半拍遅れる。


「おや……」


低く、愉しげな声。


「毒が効く前に証明する、と言いましたね」


ジェミルは、その場で足を止めた。


「呼吸の制御は実に見事なものです。

 ですが、もう時間が迫っているようだ」


穏やかな声だった。

忠告の形をした、宣告。


「もう巡っています。

 着実に、淡々と、非情に――」


シュッ。


その瞬間、

矢が、外套の左表面を撫でるように走った。


バリ……。


「……!」


布が矢先を覆い、引き攣れる。

張り詰めた布が、低く軋む。


「ありがと、心配してくれて……!」


フレアのその言葉に、ジェミルの声が、わずかに上擦った。


フレアは、止まらない。


二射目。


同じ高さ。同じ軌道。


シュパッ――。


「ま、まさか……!」


布は逃げない。


ジェミルの右肩、右脇腹、右脚。

堅固な外套に突き立つ三本の矢が、まるでアンカーのように、布ごと表面を固定している。


「始めから、これを狙っていたと、いうのですか!?」


そこへ、反対側からの矢が張力を与え、

さらに二射目が、それを横に――


引き裂いた。


バリバリバリバリバリッ!!


布が悲鳴を上げ、裂け目が、右肩から脇腹へ。

そこから一気に、下へと走る。


「どう? 見たか……!」


フレアの声に、裂けた外套が力を失い、だらりと開いた。


「すげぇ! 裂けたぞ!」


「嘘だろ……あんな分厚いのを……」


円を囲む志願者たちから、抑えきれないざわめきが湧き上がった。


ユリウスとグレイブも声を失う。


ジャラ……ジャラ……


重なり合った金属が擦れ、

刃を受け止めるための鎖帷子が露わになる。


その下。


黒く、歪な塊が――張り付いていた。


「……げ」


フレアの口から、思わず声が漏れる。


ミチ……ミチミチ……


鎖帷子の輪ひとつひとつに、

樹脂のような粘ついたものが絡みつき、

隙間を縫い、覆い尽くすように形作られた異物。


それは巣だった。


金属に寄生するかのように組み上げられ、

外套は、その上に被せられた膜でしかない。


巣の内側では、

淡く濁った色をした幼虫が数匹、

ぬめりを帯びた身体をくねらせながら蠢いている。


ブブブブブブ――


低い羽音が、空気を震わせた。


フレアの視線が、反射的に跳ねる。


「あ……あいつ……!」


先程、肩を刺した緑色の蜂。

それが、どこからともなく舞い戻ってきた。


ふらり、と宙で一度静止し、

ゆっくりと巣の外縁へと降り立つと、

翅をしまい、頭を下げるように身を伏せる。


「……おかえり、ラタトスク」


ジェミルは、穏やかな声でそう告げた。


視線はフレアから外さないまま、

まるで当然の存在を紹介するように言葉を続ける。


「この外套の名は、ナストロンド・ベール。

 “屍の岸”の名を借りた、毒の滴る天幕です。

 そこに二匹の蜂が棲まい、僕はその檻の中で、

 生かされているだけの囚人です」


「は?」


フレアの喉が、ひくりと鳴る。


低い羽音が、さらに重なる。


「そしてあなたは、それを壊した」


その声に、非難はない。

ただ事実を述べているだけだった。


「巣を裂き、幼虫を晒し、

 守るべきものに触れてしまった」


その瞬間。


巣の奥が――脈打った。


黒い塊の中心から、

ずるりと割れ、

内側から、赤い影が這い出してくる。


ブゥゥゥ――!


空気が、押し潰される。


人の頭ほどの胴体を持つ赤い蜂が、

巣から飛び立ち、宙へと浮かび上がった。


荒々しく翅が打ち鳴らされるたび、

胸の奥に、鈍い圧が響く。


「なに……その化け物みたいな蜂……!?」


フレアの声は、わずかに低くなった。

冗談めかした調子が、消えている。


周囲にも、はっきりとしたざわめきが走る。


「蜂……? なんで……?」


ミックが息を呑む。


「おいおい、でかすぎだろ……!」


フォルドの声に引きずられるように、

ネレクもまた、無意識に一歩、後ずさった。


「……」


壇上で、グレイブが無言のまま戦斧に手をかける。

柄を握り、持ち上げかけた――その瞬間、止まった。


ユリウスが手を伸ばし、視線を向けないまま、それを静止した。


「……っ」


もはや審判役の記録官ですら、思わず円の縁まで足を引き、距離を取っている。


シンは口元に手を添え、戦局を測るように見つめていた。


ジェミルは、静かに口を開いた。


「緑の蜂は、雄の斥候役、ラタトスク。

 安心してください。

 彼の毒はご明察通り、睡眠毒です」


淡々と告げながら、ちらりと赤い蜂へと視線を向ける。


「そして……」


赤い蜂が、ぎしりと身体を捻る。


巨大な頭部がゆっくりと持ち上がり、

一直線に、フレアを射抜くように定まる。


腹端からは、粘性のある液を垂らしながら、

鈍く光る毒針が、出入りを繰り返していた。


ブジュ……ブジュ……。


「赤い蜂は雌の暴君、ニーズヘッグ」


ジェミルはほんのわずかに眉を下げた。

口元に、困ったような、曖昧な笑みが浮かぶ。


「刺されれば、即死。

 巣を壊され、怒り狂う彼女は、

 もう止められない……」


ジェミルは肩をすくめ、くるりと背を向けた。

円の端で身を引いていた記録官の方へ、足音を殺すように歩き出す。


「毒で眠り切る前に、彼女を止められなければ、

 あなたの命は、ここまで。

 そして、蜂が“武器”だと暴かれた以上、

 あなたが彼女を倒しても、僕の敗北。

 あなたが死んでも、僕の失格……」


ジェミルは一度足を止め、首だけ振り返る。

視線は冷たく、穏やかな微笑みだけを浮かべて、

結論を告げる。


「……これはまったく、想定外。

 失策、誤算、そして――撤退です」


「ふっざけんな……この無責任男!」


フレアは弓を肩にかけ、ニーズヘッグから目を離さないまま、

落ちかける視界を噛み殺すように、腰のナイフを引き抜いた。


――ブブブブブゥゥゥゥゥゥッ!


殺意そのものの翅音が、鼓膜を震わせる。


ジェミルは、もうこちらを見ないまま、淡々と言葉を落とす。


「僕は、まだ評価の対象でいたいので」


一拍。


「……どうか、がんばって生き延びてください」

『灯の断章 外伝 〜赤い髪のフレア〜』を読んでいただき、ありがとうございます。


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