繋げる声
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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「第二回戦、はじめ!」
記録官の声が広場に響いた瞬間、怒号と剣戟の音が重なり合った。
金属がぶつかる乾いた音、踏み込む足が地面を叩く音――
それらが混じり合い、広場全体を震わせる。
フィオナは、観覧する志願者たちの輪からそっと離れ、後方に身を縮めるようにしてしゃがみ込んだ。
次は、自分の番。
そう思っただけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、心臓の音が耳の内側で脈打ち始めた。
呼吸が浅くなり、息を吸おうとするたび、喉がひくりと鳴る。
震えそうになる肩を抑えるように、フィオナは胸の前で両腕を抱きしめた。
そのまま、ぎゅっと目を閉じる。
暗闇の向こうで、喧騒がこだまする。
次第に喉の奥から、かすれた声が零れた。
「……怖い……」
その時だった。
フィオナの背後で、気配が動いた。
気づいた時には、もう遅い。
そっと、だが確かに――
背中に、穏やかなぬくもりが触れる。
「……」
フィオナは、びくりと肩を震わせた。
次の瞬間、両肩を包むように、静かに腕が回される。
視界の端に、赤い髪が揺れるのが見え、
温かな吐息が、頬のすぐそばにかかる。
「フィオナ……大丈夫だよ」
耳元で落ちる声は、低く、柔らかい。
命令でも、励ましでもなく、
ただ、そうあることを許す声だった。
「今は、怖くていい」
フィオナの喉が、ひくりと鳴る。
「……っ」
言葉にならない息が漏れ、胸が小さく上下する。
フレアだった。
彼女は、何も言わず、額をフィオナのこめかみへ、そっと寄せる。
肩に回された腕が、わずかに力を持つ。
「……こうやってさ」
フレアのまつ毛が、ふと瞬いた拍子に、フィオナの目尻に触れた。
くすぐったいような、熱を帯びたような感覚に、一瞬、呼吸が止まる。
「昔、私が狩りに出る前……
怖くて動けなくなった時、お母さんが同じことしてくれたんだ」
フィオナの指先が、ぎゅっと縮む。
「何も言わずに、後ろから優しく包んでくれて……
『大丈夫よ』って……」
フレアの腕が、さらに少しだけ、力を増す。
「だから、今はそれでいい」
フィオナの視界が、滲んだ。
閉じた瞼の裏に、ぼんやりとした光景が浮かぶ。
寒い夜。
薄い毛布。
小さな背中に、そっと添えられた手。
思い出そうとしていなかった記憶が、勝手に浮かび上がる。
「私のお母さんも……」
声が、震える。
「……こうして……くれました……」
フレアは、何も言わない。
ただ、額の位置をほんの少しだけ、近づけた。
「……だから」
静かな声。
「立つのは、あとでいい」
「……」
「今は、震えてていい」
フィオナの呼吸が、少しずつ整っていく。
浅かった息が、ゆっくりと、胸の奥まで届く。
隣に誰かがいる。
そのぬくもりだけで、世界の輪郭が戻ってくる。
身体の芯に絡みついていた冷えが、ほんの少しだけ解けていった。
広場では、まだ剣戟の音が鳴っている。
誰かの勝利を告げる声が、遠くで上がる。
それでも、この一瞬だけ、世界は狭く、二人の視線の先には、同じ静けさがあった。
フィオナは、ゆっくりと目を開ける。
視界の端で、フレアと目が合う。
「……フレアちゃん……」
「ん?」
「……ありがとう……」
フレアは、ふっと息を吐いた。
「負けても死ぬわけじゃない」
そう言って腕を解き、そっと一歩、距離を取る。
「だから――」
軽く、背中を叩く。
「精一杯、やってこい」
フィオナは、小さく頷いた。
震えは、消えていない。
怖さも、なくなってはいない。
それでも――
隣に立ってくれる人がいる。
それだけで、足元は、確かだった。
「第三回戦を始める。呼ばれた者は前に出ろ!」
記録官の声が、冷えた空気を震わせた。
広場のざわめきが引く。
視線が、一斉に前へ集まる。
「フォルド!」
名を呼ばれると、フォルドはふっと口元を緩めた。
隣のネレクとミックに手を軽く振り、そのまま気負いなく、前へ出る。
歩き方は軽く、足取りに迷いはない。
円の中央に立つと、鞘に収めていた剣をゆっくりと、わざとらしいほど丁寧に引き抜いた。
カチャリ。
刃を一度、くるりと回す。
傷一つない刃が、鈍く、均一な光を返した。
そのまま、刃先を前へ突き出す。
「俺の相手は、誰だっけなぁ?」
まるで退屈そうに、片眉を上げる。
後方で、ミックが堪えきれず、小さく吹き出した。
「それ、さっきネレクを倒したやつの真似でしょ」
「うっせぇ!」
フォルドは振り返りもせず、吐き捨てるように返した。
「次、フィオナ!」
記録官のその呼び声に、壇上でユリウスは手元の筆をぴくり、と止めた。
無言のまま、俯いていた視線を、すっと上げる。
呼ばれた声に、一瞬、フィオナはたじろぐ。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
心臓が跳ね、音が大きくなる。
――私。
足元を見下ろし、息を吸う。
震えは、まだ残っている。
だが、背中に触れたぬくもりを、思い出す。
ゆっくりと、顔を上げた。
「……」
返事はしない。
ただ、歩き出す。
観覧する志願者たちの輪を抜け、
一歩ずつ、前へ。
歩幅は小さい。
足取りは、決して軽くない。
途中、何人かと視線が合う。
憐れみ、驚き、戸惑い。
そのすべてを、受け止めながら、進む。
――逃げない。
そう、心の中でだけ呟いた。
フィオナは、フォルドを目で捉え、定められた位置に立つ。深く息を吸い、肺の奥まで、冷たい空気を入れた。
「――第三回戦、はじめ!」
記録官の声が、冷えた空気を切り裂く。
一拍遅れて、向かいの円で別の組の怒号が上がる。
剣が鞘を離れる金属音、靴が地を蹴る音。
だが、フィオナの耳には、それらすべてが遠かった。
正面に立つフォルドは、剣を軽く構え、唇の端を歪めて笑っている。
「……へぇ、女がしゃしゃり出て来んじゃねえよ」
視線が、フィオナの手元に落ちる。
短い筒状の棍。
「それが武器? 冗談だろ」
嘲りを混ぜた笑い声が、乾いた空気に落ちた。
フィオナは答えない。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
だが、足は動かなかった。
フォルドが、踏み込む。
粗い。
だが、一直線。
軽薄さを隠そうともしない、無分別の剣。
フィオナは半歩退き、棍の端を押した。
カチ、と乾いた音が鳴り、棍が伸びる。
筒は、即席の短棍へと姿を変える。
「……っ?」
フォルドの眉が一瞬だけ動く。
その一瞬に、フィオナは息を吸って踏み込んだ。
力ではない。狙いだけを定める。
短棍の先端が、フォルドの肩口へ――
ドン。
「ゔっ……!」
鈍い衝撃。
周囲がざわめき、フレアは腕を振って歓声を飛ばす。
「よっしゃあ! フィオナ、ナイス!」
フォルドが後ろへよろめき、声を上げる。
「いってぇぇぇッ! なんだよ、それ!」
「これは……伸縮自在の連結棍。
――リンク・タクトです……」
フィオナは答える。
肩をすくめるようにして痛みを逃し、舌打ちが漏れる。
苛立ちを含んだ声に、フィオナの肩が一瞬びくりと揺れる。だが、すぐに声には笑いが混じる。
「へぇ……そうか。仕掛けがあるってわけか」
剣を構え直し、今度は慎重に距離を取る。
横へ、円を描くように回り込む。
フィオナは連結棍を前に構えたまま、半歩ずつ、相手の動きに身体ごと向きを合わせる。
肩が硬い。息が浅い。棍を握る手が、汗ばむ。
それでも、目を逸らさない。
フォルドが、再び踏み込む。
今度は速さではなく、間合い。
剣先が、探るように伸びる。
その瞬間――
フィオナは、連結棍をさらに押し出した。
カチ、カチ。
もう一段階、棍が伸びる。
今度は、腕の長さを超える“棒”になる。
「なっ……!」
フォルドの声が短く漏れた。
剣を引き切る前に、棍の先が届く距離が変わった。
キィン――。
刃が棍に弾かれ、甲高い音が鳴る。
衝撃がフィオナの腕に走り、指先がしびれる。
だが、フィオナは身体を捻った。
棍を回転させ、低く振る。
ズンッ。
太腿に、鈍い一撃。
「っ……!」
フォルドは足を引き、体勢を崩しかけた。
倒れかけて、踏み直し、視線だけが、冷たく細くなる。
「やるじゃない!」
フレアの声に呼応するように、志願者たちが囁く。
「あの女の子……善戦してるな」
「でも、軽いな……」
フィオナの息が荒くなる。
腕が重い。
棍を支えるだけで体力が削られていく。
フォルドは剣を構え直しながら、口角を上げた。
「なるほどな」
声が低くなる。
「当たっても、痛ぇだけだ」
一歩、前へ。
「遅いし、軽い。
これじゃ、殺れねぇ」
さらに一歩。
フィオナは、棍を握り直す。
指が白くなる。
「だったら――」
フォルドは、剣を振り上げた。
フィオナが棍を前に構える。
だが、そのまま――フォルドは止まらない。
剣を受けに来た棍を、無理やり押し込み、距離を潰す。
「っ……!」
フィオナの腕が開き、胸が晒される。
次の瞬間、フォルドの肩が――ぶつかる。
ドン。
体重がのしかかり、フィオナの身体が後ろへと弾かれる。
「きゃっ……!」
視界が跳ね、背中がドン、と地面へ落ちる。
息が詰まり、視界が白くなり、
土の匂いが鼻に刺さり、口の中がざらついた。
「ははっ!」
フォルドは、そのまま前に出る。
「ほらな!」
倒れたフィオナの腹部に、靴底が無慈悲に落ちる。
ドンッ!
「ああっ……!」
息が喉で折れ、声が掠れる。
次は、肩。
ドカッ!
「うぅ……!」
フォルドは、間合いを切らない。
剣を握ったまま、上から見下ろして、笑う。
「痛ぇか?」
言いながら、靴先がもう一度持ち上がる。
その瞬間だった。
「やめろ!!」
低い研いだ刃のような声が、ざわつく輪の外から飛んだ。
フレアだ。
広場のざわめきが、ふっと薄くなる。
誰かの笑い声が途切れ、息を吸う音だけが目立ち始める。
フォルドの足が一瞬だけ止まる。
しかし、すぐに鼻で笑い、わざとらしく肩をすくめた。
「は? 負ける方が悪いだろ」
そう言い捨てて、身体を埋めるフィオナを見下ろす。
その視線は、さっきまでの軽さが消えて、ただ意地が悪い。
フォルドは片眉を下げ、さらにもう一度、蹴り付ける。フィオナの背中に鈍い衝撃が走る。
ガンッ!
「くっ……」
フィオナの喉が潰れた声を漏らす。
土に押しつけられ、息が吸えない。
肺が、空気を求めて痙攣する。
後ろで、ミックが――笑いかけていた口を、ゆっくり閉じた。
唇の端が引きつったまま動かない。
ネレクは腕を組んだまま、
顎の筋をきつくさせ、目を逸らした。
囁きが消え、剣戟の音も、向こうから聞こえてはいるのに、ここだけ別の場所のように静くまる。
フォルドはそれを気にする様子もなく笑った。
「はは……死角は突いてやらねぇ」
低い声が、土に落ちる。
「謝れよ。女なんだからさ、その顔に傷つくの、もったいねぇだろ?」
靴底が、また上がる。
今度は、ゆっくり。見せつけるように。
「ほら、言えよ」
――ドッ!
「跪いて、謝れ!!」
誰かが息を呑む音すら、やけに大きく聞こえる。
フレアは一歩、前へ出かける。
だが、怒鳴り声が広場に響いた瞬間――
フィオナの指が連結棍の“継ぎ目”に触れた。
押し込む。
引く。
滑らせる。
ギリ、と金具が鳴り、縮んで身軽になった棍が、低く走った。
ゴッ。
フォルドの足首が払われ、体勢が崩れる。
「っ!?」
踏ん張りを失い、フォルドの体が尻から崩れる。
「うげっ!」
フィオナはその隙に、転がるように距離を取り、
ゆっくりと、立ち上がる。
カチ、カチ。
肩は落ち、背中は丸い。
手は震え、足が笑っている。
服は土まみれ。
もう誰の目にも、ぼろぼろだった。
「フィオナ……」
フレアは、小さく呟いた。
ただ、唇を噛み、視線を逸らさずに見つめている。
離れた場所で、シンが微かに顔を上げた。
フォルドも立ち直る。
顔から笑みが消え、苛立ちがむき出しになる。
「……調子乗るなよ」
剣先が、フィオナへ向く。
「もう終わりだ!」
声が広場に響く。
「勝てるわけねぇだろ!
わかったら跪け!」
二人を見つめる周囲の声が鎮まる。
「謝れ!」
フィオナは、棍を握り直した。
膝が笑い、視界が揺れる。
それでも――
フィオナは、ゆっくりと目を閉じた。
暗闇が降りる。
広場の喧騒が、少しだけ遠のく。
――寒い夜。
――灯のない部屋。
――寄り添って眠る、小さな背中。
唇が、かすかに動く。
「……リョウ……」
声は、ほとんど息だった。
「……エリー……ミリア……ルッソ……アシュレイ」
一人ずつ。
確かめるように。
祈るでもなく、願うでもなく。
ただ、名前を呼ぶ。
「……大丈夫だから……。お姉ちゃんがんばるから……」
小刻みに震える小さな背中たち。
それでも生きようとする体温。
母と同じように抱きしめて、言い聞かせた言葉が、今度は自分の内側で響く。
フィオナは、静かに目を開けた。
視線は、揺れていない。
跪かない。
何も言わない。
ただ、立っている。
フォルドの顔が、歪んだ。
さっきまで女を見下していた目が、今は“立っている相手”を見ている。
その事実に気づいた瞬間、唇が強く引き結ばれた。
『灯の断章 外伝 〜赤い髪のフレア〜』を読んでいただき、ありがとうございます。
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