帰還
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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無言のまま、剣を構え合う二人。
時間は、ほんの数分も経っていないはずだった。
それなのに、その硬直は、まるで何十分も続いているかのような錯覚を周囲に与えていた。
誰も動かない。
誰も、息をすることさえ躊躇っている。
フレアは、二人を交互に見つめていた。
剣先の微かな揺らぎ、呼吸の間、肩の位置――
視線は冷静にそれらを追っている。だが胸の奥では、かつて森で獣と相対した瞬間と同じ、静かな高揚が、確かに脈打っていた。
フィオナはいつの間にか両手を胸の前で重ね、口元に添えている。
指先が白くなるほど、力がこもっていた。
フォルドは、動かないネレクの背中をじっと見つめていた。
何か言葉を投げようと、唇がわずかに開き、そしてまた閉じる。
その時だった。
ぶぅん――
小さな羽音が、場違いなほど軽く空気を切る。
一匹の小蝿が、志願者たちの隙間を縫うように飛び、ふらりと軌道を変えると――
隣で観戦していたミックの鼻先に、ちょこん、と止まった。
「……ふぁ……?」
間の抜けた声が、かすかに漏れる。
ミックの鼻腔がひくりと広がり、意図せず空気が一気に喉へ流れ込む。
堪えようとしたのは、ほんの一瞬だけだった。
「はぁっくしょんッ!!」
乾いたくしゃみの音が、張り詰めた広場に響き渡る。
刹那。
「――っ!」
シンの靴底が、土を蹴った。
低く、鋭い踏み込み。
音は小さい。だが、それで十分だった。
シュッ――
視線が追いつく前に、黒い影が前へ滑る。
静止していた空気が、一気に裂けた。
ヒュッ、と遅れて風が鳴り、
黒銀の刃が一直線に、ネレクの懐へと迫る。
キィン――!!
甲高い金属音が炸裂し、火花が散る。
ネレクは反射的に剣を振り上げ、その一撃を受け止める。
ガキッ。
衝撃が腕に伝わる前に、
シンの剣は、するりと滑った。
今度は真正面からではない。
「な――」
ネレクの剣先がわずかに外へ流れる。
その隙間に、シンの体が滑り込む。
近い。
息が触れる距離。
ネレクの瞳が見開かれた。
シンの剣が、下から掬い上げるように軌道を変える。
「くっ!」
ネレクは咄嗟に腰を引き、後ろへ跳ぶ。
刃は衣服の端をかすめ、布が裂ける音がした。
ざっ、と砂を踏む音。
シンはさらに剣の角度を変え、斜め上から斬り込む。
ネレクの息が喉の奥で割れ、刃がそれを外へ逸らす。
キンッ。
間を置かずに、二撃、三撃。
「くっ!」
ネレクは下がらない。
踏みとどまり、すべてを正面から受ける。
ガキィン!
キィン!
金属音が連なり、
衝撃が腕を震わせる。
息が、少しだけ荒くなる。
ネレクは歯を食いしばり、咄嗟に剣へ力を込め、掬い上げるようにしてシンの刃を鍔で捉えた。
次の瞬間、全身の重みを乗せて弾き返す。
ガキィィィン!!
シンの視線が一瞬だけ動き、半歩、後ろへ下がる。
間合いが、再び開く。
張り詰めていた広場に、遅れて息が戻る。
観ていた志願者たちが、ようやく肩を落とした。
「は、速……」
誰かの呟きが、空気に溶ける。
フレアは、無意識に拳を握りしめていた。
その視線は、シンの足運びから一瞬も離れない。
フィオナも、小さく息を吸う。
その時――
門前に設置された壇上で、ユリウスは手元のメモ帳から、ふっと筆を離した。
広場を見下ろす視線を上げ、隣に立つグレイブへ、低く問いかける。
「あの少年……知っていますか?」
グレイブは振り返らない。
ただ、剣戟の余韻が残る広場の中央を見据えたまま、答えた。
「ああ……ヴァルターの弟子、シンだろう。
あいつも参加していたのか……」
短い沈黙。
「ウィズの夜から、この三年。
消息を絶っていたが……」
ユリウスは、わずかに眉を寄せる。
「彼もまた、十六歳。
満を持して記録官に志願した……ということでしょうか?」
「ああ」
グレイブは低く息を吐く。
「あいつは、記録官になりたがっていた。
孤児がヴァルターに拾われ、塔に身を置くようになってから、いつも書庫に籠もっては勉学に励み、
訓練生が去った後の訓練所で、ひとり剣を振っていた」
言葉が、少しだけ重くなる。
「だが……」
「だが……?」
「ヴァルターと同じく、
あの夜の惨劇を、目の前で見た」
グレイブの視線が、わずかに伏せられる。
「塔は書庫を封鎖し、学者たちを追い出し、灯喰いの出現を抑えるため、灯の配分も厳しくした。
あいつもまた、居場所を失った一人だった」
一拍。
「……まだ十三の、子どもだぞ」
ユリウスは、しばし黙り込む。
やがて、静かに言った。
「なるほど……。
つまり今、彼はその苦渋を背負ってでも、この塔への再帰を選んだ――ということですか……」
言葉が落ち、二人はそろって隣を見た。
ヴァルターは視線を上げようともしない。
広場で交わされる剣の気配にも、周囲のざわめきにも頓着せず、
ただ目の前の事象を、淡々と手元のメモ帳へ書き記し続けている。
筆先が紙を擦る、乾いた音だけが、規則正しく響く。
そこにあるのは感想でも評価でもない。
記録――ただ、それだけだった。
「ネレク、向こうはちょびっとだけ速いが、
剣はひょろひょろじゃねえか!
さっさとたたんじまえ!」
フォルドの声が、場違いなほど大きく広場に響いた。
ネレクは、額を伝う雫を手の甲で払い、
何も言わずに剣を構え直す。
深く息を吸い――
ゆっくりと吐く。
呼吸を整え、視線を据える。
見ているのは、ただ一人。
目の前のシンだけだった。
「……ふん」
ネレクは、わざと大きく息を吐いた。
肩の力を落とし、剣を、すっ、わずかに横へ振る。
その動きに呼応するように、
シンの視線が、ほんの一瞬だけ揺れる。
次の瞬間――
ザッ!!
ネレクが踏み込んだ。
踏み込みは鋭く、地を叩くたび、土が揺れ、乾いた砂埃が舞い上がる。
初撃は、大きく振らない。
距離を殺し、逃げ場を削るように、
刃を、ぐっ、と前へ押し出す。
キィィィン――。
金属が擦れる高い音。
シンは剣の腹でそれを受け、
手首を返して力を流す。
刃が噛み合い、わずかに弾けた。
ネレクは止まらない。
さらに一歩、前へ。
逃げ道を塞ぐように、圧をかける。
シンは下がる。
一歩。
半歩。
身体を低く落とし、刃を外へ払って距離をずらす。
だが――
その隙を、ネレクは逃さない。
ネレクの剣が、横へ。
間を置かず、縦へ。
さらに、軌道を反転させ、逆方向へ振り抜く。
一撃。
二撃。
三撃。
シンは身体を捻り、
そのすべてを、紙一重でかわしていく。
だがネレクは、焦らない。
力を込めすぎず、剣先で空間を制し、
ただ一つ――
足を止めさせることだけを考える。
刃は、確実に距離を奪っていた。
少しずつ。
だが、確実に。
ザリ……。
ネレクの踏み込みに合わせ、
シンの足が、わずかに遅れた。
砂を踏む音が、重くなる。
ネレクは、呼吸を乱さない。
追い込んだ感触だけを、静かに確かめる。
剣先を振らず、押し出す。
逃げ場を潰し、体勢を崩させるための一歩。
その瞬間だった。
シンの足が、ふっと流れた。
ザッ――。
砂を噛む音。
身体がぐらりと後方に傾き、重心が外れる。
――崩れた。
今度は、はっきりとそう見えた。
観ていた者の誰かが、息を呑む。
「……!」
ネレクの目が、わずかに見開かれた。
判断は、一瞬。
迷いはない。
間合いは詰まっている。
体勢を立て直す時間は、ない。
ネレクは剣を振り上げる。
ブンッ――!
シンの身体が後ろへ倒れ、
肩が地に触れ、土が跳ねた。
「今だ、行け!ネレクッ!!」
フォルドの声が、遠くで弾ける。
ネレクには聞こえない。
視界にあるのは、倒れ伏したシンの姿だけ。
呼吸は整っている。
間合いは、完全に自分のものだ。
――捉えた。
振り下ろそうとした、その瞬間。
ひやり、とした感触が、喉元を撫でた。
――止まる。
ネレクの身体が、凍りつく。
視線だけが、ゆっくりと下へ落ちる。
そこにあったのは、
自分の喉元に、ぴたりと突きつけられた黒銀の刃。
「……な……」
声にならない息が、漏れる。
シンは倒れたはずだった。
視線は、外れていない。
――いや。
倒れた瞬間、
シンは左手を地面につけていた。
掌が砂を噛み、
ギュッ、と反動を溜める。
半身を返し、
地を蹴り、
身体を低く滑らせるように起こす。
その間も、ネレクは見ていた。
見ていたはずだった。
だが――
速すぎた。
スッ、と視界の端に、黒銀の刃が滑り込む。
シンは、すでにそこにいた。
腰は低く落ち、片膝が地面につく。
重心は完全には戻っていない。
だが、刃先だけは、寸分の狂いもなく、
ネレクの喉元を捉えていた。
剣先は、まっすぐ。
微動だにしない。
「そこまで!」
記録官の声が響く。
ネレクは、ゆっくりと剣を下ろした。
シンは刃を引き、喉元の冷気が離れる。
「この勝負、勝者――シン!」
記録官の声が、広場に響いた。
一拍、遅れて――
ざわっ、と空気が揺れる。
「……え?」
「今の、どうなった……?」
「倒れたよな……?」
囁きが、あちこちで弾ける。
誰もが見ていたはずなのに、
誰もが、決定的な瞬間を言葉にできない。
ネレクは、剣を下ろしたまま、刃が触れていた位置を、無意識に指でなぞる。
「……ちっ」
フォルドが、歯噛みする。
「なんだよ……今の……!」
声を荒げかけて、途中で言葉を切った。
ネレクの背中が、
それ以上の言葉を、拒んでいたからだ。
ネレクは、ゆっくりと顔を上げる。
シンは、もうこちらを見ていない。
剣を収め、背を向け、
何事もなかったかのように、円の外へ歩いていく。
その足取りは、静かで、一定で、
勝者の誇示も、敗者への侮りもなかった。
ネレクは、ゆっくりと剣を鞘に収めた。
カチャリ。
その音が、
自分の中で何かが終わった合図のように、静かに響いた。
ざわめきの中、
フィオナは、胸の前で組んでいた手を、そっと下ろした。
「……終わった……」
声は、小さかった。
だが、
胸の奥が、まだ強く脈打っている。
フレアは、拳を握ったまま、動かなかった。
視線は、最後までシンを追っている。
――あれは、剣の勝負じゃない。
――距離と、判断と、覚悟の差。
森で獣を仕留める時と、同じだ。
一瞬の“隙”は、
作られたものか、
与えられたものか。
見誤った方が、死ぬ。
「シン……」
小さく名を呼び、フレアは、ほんのわずかに息を吐いた。
「ちょっと、かっこいい人ですね……」
フィオナは、そう言ってから、はっとしたように口元を押さえた。
自分でも驚いたらしく、視線が泳ぐ。
「い、いえ、その……戦い方が……」
言い訳は小さく、途中でしぼんだ。
フレアは、赤くなったフィオナの横顔をちらりと見て、ふっと口の端を緩める。
「ああ、ね」
視線をシンの背中へ戻す。
「おもしろいのが、混ざってるなぁ……。
ネレクは本気だった。あれは、あなたの“本当の実力”……?」
門前の壇上で、
ヴァルターが、手元のメモ帳に筆を走らせている。
カリ、カリ、カリ……
その隣で、
「……見事だな」
グレイブは、短く息を吐いた。
それは感嘆というより、長く胸に溜めていたものを、ようやく外へ出したような吐息だった。
視線は、まだ広場の中央――
剣を収め、背を向けて去っていくシンの背中に向けられている。
「孤児が救われ……」
ユリウスは言葉を選ぶように、一拍置く。
「十三で、惨劇を目の当たりにし……」
口の端が、わずかに歪む。
「それでも――正義を守る側として、帰ってきた……ということですね」
ユリウスは、視線を伏せた。
「……それでも」
ユリウスの言葉に、グレイブが被せるように顔を上げる。
低く、だが迷いのない声。
「私は、お前の息子に賭けるがな?」
目を細め、歯を剥き出してユリウスに、どこか楽しげに笑いかける。
それを受け、ユリウスの口元も、ふっと緩む。
「面白い賭けになりそうですね……」
二人は視線を交わし、
ほとんど同時に、にやりと笑みを浮かべた。
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