水無瀬村-(9)
一夜明け、私は目を覚ましました。どうやら熱もしっかりと下がったようです。カーテンから差し込む朝陽。とても素晴らしい朝です。不調のない体で朝日が拝める、私は幸福を噛み締めました。
時計を見ると7時になろうとしています。いつもであれば時間的に朝御飯も食べる事が出来るはずです。ああ、楽しみですね。健康的な御飯は人生を豊かにしてくれる気がします。私は起き上がって布団を畳んで部屋の隅まで移動させます。
私は手早く私服に着替える事にします。荷物からシンプルな白いブラウスにワインレッドのスカートを取り出しました。あ、ソックスも履きますよ。その後、あれこれと準備をして完成です。鏡を見てニッコリと笑うと鏡の中の私も同じように笑います。
さて、と小さく呟いて気合を入れます。朝御飯に真摯に向き合うために。その前にヨルに声をかけていきましょう。私は扉を開けて、ヨルが泊まっている部屋の扉をノックしました。何度か叩いても返事がありません…まだ寝ているのでしょうか?仕方ないと私は「ヨル。元気になったので先に朝御飯を食べてきますねー」と扉越しに声を掛けて離れる事にしました。本当は一緒に行きたかったですが。
部屋の前を後にして廊下を歩いているとすでに食堂からお味噌汁のいい匂いがします。その匂いに私のお腹が刺激されました。
少し早足になった私は飛び込むように食堂に入ります。ちょうど志乃さんが厨房から顔を出したところでした。私の顔を見て驚いた表情でしたが、すぐに笑顔になり「おはようございます」と言い合いました。
「熱が下がったようで良かったです」志乃さんは体調が戻った事を喜んでくれました。とても幸せな話です。
「昨夜はご迷惑をお掛けしました」私は深々と頭を下げます。
「良いんですよ。雨さんが良い顔になったんですから」志乃さんはにっこりと笑ってくれます。
「雨さん。もう朝御飯の準備は出来ていますので、お席にお座りになっていてください」私は頷くと座布団の上に座りました。志乃さんは頭を下げて厨房の方へ下がると朝御飯をトレイに載せて運んできてくれました。
トレイには真っ白で粒の立ったお米に川魚と山菜の天ぷら、同じく山菜がたっぷりの小鉢とお味噌汁が載っています。今日もとても美味しそうです。私は手を合わせて、いただきますと言った後に本日の朝御飯に挑みました。
「雨か…?」私が食べ終える頃、ヨルが食堂に現れた第一声がこれでした。私の顔を忘れてしまったのでしょうか…?ヨルの眉間にしわが寄っています。
「ヨル、どうしました?…大丈夫ですか?」私から声を掛けるとしわが更に深くなりました。
「……誰だ、お前」鋭い警戒と共に私から距離を取ります。ヨルはとても怒って見えます。何か機嫌を損ねるような事をしてしまったのか不安になりました。
「私ですよ、雨ですよ?」不安が声に出てしまったのか僅かに震えてしまいました。私は立ち上がり、そっとヨルに近づいて手を伸ばします。手が触れそうになった時、ヨルに手首を掴まれました。
「……本当に雨なのか?」真剣な目で私に問います。
「事件の時、あなたを見つけた雨ですよ。妄想家で探偵の」優しい声をかけて頷くと手首を掴む力が緩まりました。疑いは晴れたのでしょうか?
「…すまない、雨」どうやら信じてくれたようです。
「一体、どうしたんですか?私の事を忘れてしまったのですか?」掴まれた手首を摩りながら、少し咎めるような口調になってしまいました。ヨルは目を細めると首を横に振りました。
「いや、そうじゃないんだが……雨が纏う雰囲気が昨日と……」濁すようなヨルの言葉に私は続きを促します。
「怒らないでくれよ?…さっき雨が目に入った時、一瞬だけ別人に見えたんだ、あの臭いも微かに漂っていた」別人?それにあの臭いとは、まさか「…あの神社の時の臭いですか?」私の問いにヨルは頷きます。
「ああ、だから雨ではないと疑ってしまった…」昨日の今日で異変が。何かに近づいているのでしょうか。それとも誰かからの警告…?
「俺が帰った後に何か変わった事はなかったか…?」私が深く思考に沈もうとした時、心配するようにそう聞かれました。私はヨルの顔を見て答えます。
「ええ、ヨルが帰った後は電気を消して、すぐに布団に戻りましたよ?あ、でも夢を見ましたよ」大切な事を忘れていました。
「夢…?もしかして…」
「はい、村の人達が見ていると言う夢ですよ!あの夢はとても素晴らしいものでした!夢の中で静かに湖を見つめているだけなのに、全てが満たされていると感じました!ヨルも絶対に見るべきですよ!幽玄で静かで何処までも美しいものでしたから!これが幸せなんだと思い知らされますよ!」私は目を輝かせて夢の魅力を喋ります。夢の事を思い出すと全身に幸福感が満ちていきます。
「お、おい…」私の姿を見てヨルは戸惑っているようでした。どうしてわかってもらえないんでしょう?なるほど、まだまだ伝え足りないと言う事ですね!私はより熱心に喋り始めました。ふと厨房の方を見ると志乃さんが私を見てニコニコと笑っています。志乃さんには私の熱意が伝わっているようです。またヨルの顔を見て口を開こうとした時、ヨルはまた私の腕を掴んで強引に食堂の外に引っ張っていきます。
「ちょ、っと、ヨル。どうしたんですか!?」突然のヨルの行動にびっくりして声を上げます。ヨルは振り向かないまま、私を連れて宿の外に向けて歩いていきます。抵抗しようにもヨルの力に勝てるわけもなく、半ば引きずられるようでした。
「…ヨル!良い加減にしてください!」弾くようにヨルの手を引き離せたのは宿を出てからでした。
「説明してください!」私は回り込んでヨルの顔を見ます。目に留まった顔は、酷く後悔しているような顔でした。
「雨、もう帰るぞ。これ以上は危険だ」どうしてそんな事を言うのでしょう?ようやく、⬛︎⬛︎になれると言うのに。「もう限界だ。雨が夢まで見てしまった。言っただろ?次に何かあったら強制的に連れ戻す、と」ヨルは辛そうな目で私を見ます。
「どうしてですか?夢は悪いものではなかったですよ?」おかしなヨルですね。私の話をちゃんと聞いていたのでしょうか?
「そんなわけないだろう!そんな目を…いつ死んでも良いみたいな顔していて、悪いものじゃないないわけがないだろうが!」私の言葉を遮るようにヨルが言いました。確かに夢の事を思い出すとそのまま溶けて消えてしまいたい程、心地良い気分になります。今日も見れるでしょうか…?今から寝てもいいかもしれません。
「ん?ヨル、あれは何でしょうか」宿から10メートル程離れた道向かい位置しているお家の前に何やら村の人達が集まっています。私は好奇心をくすぐられて近づいていきました。皆さん家の中に向かって拝んでいますね。
「おい!帰るぞ!」ヨルが焦った声を出して後を追いかけてきます。
「ありがたいねぇ…」「本当になぁ…」近くに寄るにつれて何を喋っているか聞き取れました。
「おい、雨。聞いてるのか!」追いついたヨルに答えようと振り向いた時に「お、あんた達。水神様の夢さ、探偵さんじゃあないかね」とお婆さんがこちらに気が付いて話かけてきました。
「あんた達も御見送りに来たんかね?」お婆さんが言うと他の方達も口々に「見送ってあげんしゃい」「寄っていくといいよぉ」「ありがたい事だからなぁ」と中に入るように言いました。
「御見送りって何の事でしょうね…?」私はぼそぼそとヨルにだけ話しかけます。私は見てみたいと目で訴えます。ヨルは不服そうな顔でしたが「…見たらすぐ帰るからな」と許してくれました。
私達は頷き合うと、ニコニコと笑うお婆さん達が指さす家の中に入っていきました。