(第009話)教師生活で最大の屈辱
リザベルさん……確か貴女、教育者がどうのこうの言ってましたよね?
それが同じ口で殺してくださいですか。っていうか皇帝もう死んでるし。
「オイ。女……舐めたこと抜かすんじゃねえぞ。タラオが俺に敵うわけが――」
「待て。話はまだ終わってない」
当てが外れたな。俺はもう昨日までのタラオ……じゃなくて多良木じゃない。
その証拠にホラ。もう立ち上がってる。頑張って腹筋した成果が早速出てるんだ。
よし。仕切り直しだ。
さっきはリザベルさんに対するあまりに失礼な態度に思わず逆上してしまったが、今度は冷静にいくぞ。
俺は指の関節を鳴らしながら、ゆっくりと皇帝に近付いた。
「田中。お前は知らないだろうが、昔は鉄拳制裁ってのがあってな」
そうだ。もう俺と皇帝の関係は教師と生徒じゃない。
それに、ここには大人だけを縛る不公平な法律もない。
つまり、純粋な戦闘力だけがものを言う世界……!
「ガキがオイタしたら、大人は……あがっ!」
言い終わらないうちに、皇帝の右が顔面に入った。
まずい。脳が揺れて、脚に力が入らない。
倒れ込んだ俺を、刺青だらけの顔が見下ろしてきた。
「タラオ。テメェ、忘れちまったか?」
やばい。めちゃくちゃ怖い。
爬虫類の目をした、他人を躊躇なく傷付けることができる男。俺は恐怖のあまり、息をするのも忘れてしまった。
「な……何の話だ?」
「ホラ。言うんだよ」
「だから、何の――」
今度は顔面を踏みつけられた。そういや、歯を折られたときもこれだったっけ。
「とぼけんじゃねえ! ごめんなさいですぅ、だよ!」
お……思い出した。
俺……担任してるクラス全員の前で土下座させられ、それを言わされたんだった。
七年間の教師生活で最大の屈辱を味わったその日。
俺はベッドの中で泣いた。夜通し泣き続けた。
そりゃあ、大の大人が子供に泣かされるなんて、情けないと思ったさ。
けど、どうしようもなかった。泣かないと心が壊れてしまう。泣くことだけが、俺ができる唯一の抵抗。
俺は泣いて泣いて、一晩中泣いて、自分を守ったんだ。
「ふ……ふざけるな! 誰がそんなこと……ぐほぉっ!」
今度はサッカーボールキックが腹に。もう駄目だ。ここからの逆転は無理。
「チッ。つまんねえな。じゃ、そっちの女に相手して――」
あ。消えた。
「タラオさん! 大丈夫ですか?」
「タラオじゃなくて多良木……」
「多良木さんって言いましたよ!」
嘘つけ。確かに聞こえたぞ。
「リザベルさん。皇帝は……」
「私が帰らせました。危険だったんで」
助かった……のか?
まあいい。とりあえず、そういうことにしておこう。
「危険……そう。あいつは普通じゃないんです」
「そのようですね。それと、多良木さんが物凄く弱いってことも分かりました」
くそう。そこまではっきり言われると腹立つな。
とはいえ……俺だって驚いてる。成人男性なのに、こんなに弱いなんて。
「あの動き……あいつ、格闘技か何かやってたんでしょうか?」
「検索のときに調べました。何もやってないみたいですね」
それもそうか。格闘技といえども習い事だ。
敬語が使えない皇帝なんかを受け入れる筈がない。
「じゃあ、何で俺のパンチは――」
「多良木さん、喧嘩したことないでしょ?」
「はい。まあ……平和主義者ですからね」
うぐっ。リザベルさんが俺を睨んできた。冗談のつもりで言ったのに。
「それじゃ当たりませんよ」
「ですよね」
「体格や筋力は多良木さんの方が上でも、喧嘩慣れしてる分、皇帝くんの方に分があるみたいです」
確かにそうだ。俺はこれまで、喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。
小学生のときはガキ大将の腕陀に、中学生のときはクラスの一軍男子たちに散々《さんざん》やられてきたが、それでも俺は微笑みを絶やさず、無抵抗を貫いてきた。
そう。インド独立の父、マハトマ・ガンディーのように。
しかしまさか、その行動が今になって仇になるとは。
どれだけ筋力を強くしても、当たらないんじゃ意味がない。
せめて本でも持ち込めれば、空手やボクシングのテクニックを学べるのだが……
「そ、そうだ!」
「どうしました?」
「ほら。呼び出せる人の中に、お年寄りがいるって言ってたじゃないですか!」
「ええ。いますね」
「その中に、ボクシングの元世界チャンピオンとかは……」
「あはははは! そんなに都合のいい話があるわけないでしょ?」
くそう。俺だって分かってるさ。馬鹿げた考えだって。
けど、俺が強くなるにはそれしかないんだ。
「お願いします! 探してみてください!」
「はあ。まったく、いるわけないのに……って! います!」
うおおおっ! なんたる幸運! 言ってみるもんだな!
「あ、けど、世界チャンピオンじゃなくて、日本チャンピオンですね」
なるほど。ということは日本人か。
いや。それはそれで都合がいい。こっちだって日本語しか話せないんだから。
「構わないですか?」
「もちろんですよ。何て人ですか?」
「えっと……矢吹正平さんという方です。知ってます?」
「いえ。ボクシングには詳しくなくて」
「それじゃ、とりあえずデータを読んでみますね」
リザベルさんは袖口から一枚の紙を出した。
どうやらあのローブは、プリンターの機能を搭載しているらしい。
「ふむふむ。元日本バンタム級チャンピオン。59戦48勝7敗4引き分け。現役時のリングネームはショー矢吹。六十七歳没」
おお。よく分からないけど、なんか良さそうだ。
「その……性格とかは書いてあります?」
「それは書いてないですけど、二回離婚されてますね。いったい何があったんでしょうか?」
「死因は?」
「酔っ払って川に転落。なんか多良木さんに似てますね! 気が合いそう!」
死因が似てるからって、気が合うものなのか?
それに似てるったって、落ちたってとこだけだろ。俺は酔ってなかったぞ。
「ところで多良木さん! これはすごい幸運ですよ! ご都合主義を疑われてしまうくらいの!」
「た……確かに」
「じゃ、呼びますか」
「ちょっと待ってください。心の準備が――」
「何言ってるんですか。思い立ったが吉日ですよ」
「俺、けっこう人見知りするんで……」
「出でよ! ショー矢吹!」
「だから早いって! しかもそれリングネーム!」