(第036話)さようならリザベルさん
このまま、いつまでもリザベルさんの膝枕で眠っていたいところだが、そういうわけにはいかないんだろうな。
俺は立ち上がり、気を失っている矢吹さんを除いた2人に言った。
「長いことお世話になりました!」
反射的に頭を下げそうになるのをぐっと堪え、会心のコマネチを決める。
よし。コルネリア流の挨拶、だいぶ板に付いてきて――
「多良木よ。前から思っておったんじゃが……お主、何をやっとるんじゃ?」
「え?」
「多良木さん。ごめんなさい。実はその挨拶、ドッキリだったんですよ」
「ええっ?」
……何……だと……?
「何やら面白い動きをしておると思って、わらわも合わせておったんじゃが」
「もっと早く気付くかなって思ってたんですけど、最後の日になっちゃいましたね」
……何……だと……?
「……くく……んぶふぅっ!」
「冗談じゃよ」
……何……だと……?
「リザベル。笑うのが早すぎじゃ」
「ごめんなさい! けど、さっきの多良木さんの表情……死神代行の人にそっくりで……ぶふっ!」
さっきのって、今も同じ表情してるんですが……
「最後の挨拶は地球星流でやると決めておったんじゃよ。お主に敬意を示そうと思っての」
そうだったのか。ていうか、あんなの即興で合わせるのは、その手のプロでもない限り不可能な筈。じゃあ2人は、いつの間にネタ合わせしてたんだ?
いや。それ以前に、いつ仲直りしたのかも謎だ。10日前、ラムダさんが日本語を話すようになってからというもの、2人が会話をしているところを見ていないんだが……
「で、でもラムダさん。地球星流の挨拶は侮蔑になるんじゃ……?」
「わらわとお主でやる分には構わんじゃろ」
「それと、お二人はいつ仲直りしたんですか?」
「え? 仲直りも何も、私とラムダさんは最初から喧嘩してませんけど?」
「うそぉ!」
い、いや。そんな筈ないだろ?
だってあの日以来、2人は俺を巡って仁義なき女の戦いを――
「喧嘩してたら、ラムダさんを毎日呼び出したりするわけないじゃないですか」
「た……確かに」
うう。恥ずかしい。俺の取り合いで喧嘩になってると思ってた。
童貞の分際で、何たる自意識過剰。
「では、そろそろ時間かの」
ラムダさんがリザベルさんに目で合図を送った。
「そうですね……」
リザベルさんは一瞬迷ったような顔をしたが、気持ちを切り替えるように小さく溜息をつくと、袖口から例の冊子を取り出し、パラパラとめくり始めた。
「ちょっと待ってください!」
「わっ! 急にどうしたんですか?」
リザベルさんの魔法(=決断)は早いんだ。このまま放っておくと、気付いたらもうそこは異世界、何てことになりかねない。
「あの……異世界に行ったら、もうリザベルさんに会えないんでしょうか?」
「それは……」
リザベルさんは冊子を閉じると、俯いて呟いた。
「その通りです。私と多良木さんの時間が交わることは、もうありません」
「ですよね……」
俺は俯かず、逆に天井を見上げた。
そうしないと、涙を堪えきれないと思ったからだ。
「多良木よ。リザベルを愛しているなら、これ以上困らせるでない」
「お……仰る通りです」
ラムダさんがいつになく優しい。
いや。よく考えたら、この人は1年前に出会ったその日から……ではなく、その日だけを例外として、ずっと俺に優しくしてくれた。
「これまで出会ったすべての人に、恥ずかしくない生き方をするのじゃぞ」
「は……はい。俺……最強の……お、女戦士の……弟子ですから……」
顔を上げている意味は既になくなっていた。涙が頬を伝わり、ボロボロと零れ落ちていく。
「多良木さん……」
「リザベルさん……矢吹さんに……伝えてください……」
これ以上顔を上げていると鼻がきつい。俺は顔を下ろし、リザベルさんを見た。
予想通りというか、リザベルさんも泣いている。
「世界……チャンピオンには……なれなかった……けど……ショ、ショー矢吹は……偉大な……ボクサーだと……お、思ってます……」
「はい。必ず、伝えますね」
それからすぐ、ラムダさんが大きな欠伸をして、俺が毎日使っていたベッドに潜り込んだ。
「それでは、わらわはしばし……そうじゃな。10分ほど眠る。2人とも、起こしてはならぬぞ」
そう言い残して、ラムダさんは俺たちに背を向けた。
「さ、最後に、リザベルさん」
「はい」
袖で涙を拭った。
別れの言葉は考えているけど、最後まで言える自信がない。
「俺……ここに来るまで、楽しいことなんか何もなくて……」
生徒から罵倒され、主任や教頭から叱責され、遅くまで残業し、疲れた体を引き摺りながらコンビニで弁当を買って帰宅。
「最初に死んだって聞いたとき、別にいいやって思って……」
夕食はいつも、東雲遥香のポスターが貼ってある壁の向かいに座って食べる。そうすれば寂しさがいくらか紛れるからだ。
「けど今は、とても辛いです……」
食べ終わったら明日の授業の準備をして、それから動画サイトでお楽しみタイム。東雲遥香に似た女優を探し当てた日はラッキーだと大喜びする。
「皆さんと過ごした日々……」
電気を消してベッドに潜り込み、朝が来ないように祈る。世界がずっと夜だったら、どんなによかっただろう。朝が来るのが楽しみだったのは、小学生だった頃までだ。
「俺の、一生の宝物です」
ここでは、朝が来るのが待ちきれなかった。目を開ければリザベルさんがいる。何よりも大切な、何物にも代え難い時間。
「た……多良木伸彦は、リザベルさんを心の底から愛しています」
ようやく言えた。けど、やり切ったという充実感はほとんどない。
やっぱり、ますます悲しくなっただけだ。
「すいません。最後は笑顔でって思ってたんですが……」
「私もそう思ってたんですけど、やっぱり無理みたいですね」
リザベルさんはくすくす笑いながら、涙を流しながら、俺に近付いてきた。
「多良木さん……」
「はい」
「伝えたいことはたくさんあるんですけど、それよりも……やり直しがしたいです」
「やり直し、ですか? 何の?」
「目を……閉じてください」
「はい。あの……ところで何の……」
あ。
あ。
あ。
あ。
そっか。やり直しって……
そういえばファーストキスは……なんか事故みたいな感じだったもんな。
「リ、リザベルさん……」
「今回はうっかりでも、ふしだらでもないですよ」
「わ、分かってます! ていうか、リザベルさんがふしだらだなんて思ったこと、1回もないですって!」
「うっかりは?」
「しょっちゅう思ってます」
リザベルさんはローブの袖口からハリセンを取り出し……(以下略)
「なんか、久しぶりな気がします」
「私もです」
「それでは、本当にさよならですね」
「はい」
「リザベルさん。いつまでもお元気で」
「多良木さんこそ。できるだけ長生きして、充実した人生を送ってくださいね」
「さようならリザベルさん」
「さようなら多良木さん」
それから、リザベルさんは詠唱を始め、俺は再び目を閉じた。
次に目を開けたとき、映っているのはたぶん……見たこともない世界。
そう。異世界の風景が広がっている筈だ。




