(第011話)ショー矢吹のボクシング講座
きっかり五分後だったかどうか分からない。この部屋には時計がないから。
けど、矢吹さんはちゃんと出てきた。
「な、何が起こったんじゃ……」
「矢吹さん。分からないことだらけで不安でしょうが、俺の話を聞いてもらえますか?」
とりあえず、俺はこれまでのことを話した。
まず、俺も矢吹さんも既に死んでいる。ここは天国でも地獄でもない、何だかよく分からない白い部屋で、俺ははっきりとした理由もなくここに連れてこられた。
で、教師だった頃からの宿敵、田中皇帝を倒すため、早急に強くならなければならなくなったわけだが、俺一人でできることといえば筋トレくらいのもの。
運動はからきしだし、格闘技の経験もない。
だから矢吹さんに来てもらった。矢吹さんがこの部屋にいられるのは一日二時間だけだが、その二時間で、俺をみっちり指導してほしい。
伏せたのは皇帝がまだ十七歳であること。そして、リザベルさんが今ここにいない本当の理由。
「ふむ。お嬢さんは腹痛とな?」
「ええ。何だか調子が悪いみたいで」
「月の物かね?」
非モテ童貞の俺でも知っている。
女性はそういうことを言われると凄く怒るということを。
「それは分かりませんが……早速ですけど、教えていただけますか?」
「よかろう。ではまず、構えてみよ」
「構え?」
「ほら。こうやるんじゃよ」
ああ。いわゆるファイティングポーズってやつか。
「こうですか?」
「脇が空いておる。それでは鋭いパンチは打てん」
おお。何かきちんとしてる。
「防御が七割、攻撃が三割。それがワシの考えるボクシングじゃ。必然的に、練習のほとんどは地味でつまらないものになる」
凄い。いい感じだ。昔のボクシングは殴り合いの延長みたいなものかと思ってたけど、さすがは元日本チャンピオン。きちんとしたボクシング理論があるみたいだ。
「退屈な練習になるが、まずは防御を徹底的に体に叩き込む。それでよいな?」
「はい! お願いします!」
それから俺は、みっちりと防御テクニックを教わった。
矢吹さんから教わることは、これこそまさに目から鱗。
ボクシングは腕を使って戦うものだと思ってたが、相手の攻撃を避け、強くて鋭いパンチを放つには、膝の屈伸や腰の捻り……腕よりも下半身の使い方が重要だったのだ。
「お前さん、なかなか筋がいいのう」
「ホントですか? けど、運動は昔から苦手で――」
「それは関係ない。大事なのは基本の反復。地味な練習にどれだけ真摯に向き合えるかだ」
矢吹さん……何かカッコいいぜ。
「俺……矢吹さんが帰った後も、一人で練習を続けます」
「うむ。その意気……お前さん、やはりあの異人の娘に惚れておるな?」
異人の娘?
「それって、リザベルさんのことですか?」
「決まっとる。あの髪、日本人ではないのだろう?」
もちろん。というか、地球の者でもない。
「惚れてるかどうか……自分でも分かりません。けど、大切な人だと思ってます」
リザベルさんがいないと発狂しますからね。
「若いのう。まったく、羨ましいわい」
「はは……そんないいものじゃないですよ」
矢吹さんは腕を組み、小さく笑った。
「ところで、接吻はしたのか?」
「せっぷん?」
「若い者にはキスと言った方が分かりやすいかの?」
「え……あ、いや! 俺とリザベルさんはホントにそんな関係じゃ――」
「思い出すわい。最初の妻との初めての夜。あのときはワシも童貞でな。我が愚息、良いところをみせようと張り切り過ぎて、つい暴発してしまいおったんじゃよ」
「は……はあ」
愚息って、アレのことだよな。
「お前さんは、ワシと同じ失敗はせんようにな。今夜こそはと思った日は、事前に厠で一、二回抜いて、心を落ち着かせて臨むのじゃ。そうすればお前さんの愛息は心穏やかに使命を果たし――」
あ。消えた。
そういえばタイマー設定してあるんだった。
「本日のスケベボクシング、終了! で、どうでした?」
そして、矢吹さんと入れ替わりにリザベルさん登場。
「リザベルさん。もう今日は来ない筈だったんじゃ?」
「そういう言い方はないでしょう? 心配してたんですから」
「はあ。すいません」
「で、どうだったんですか? ショー矢吹のボクシング講座」
「それが……めちゃくちゃ丁寧に、凄く分かりやすく教えてくれましたよ」
「おお! 良かったじゃないですか!」
「そのことで、リザベルさんにお礼が言いたくて」
「お礼? 私にですか?」
「矢吹さんと会わせてくれたことですよ。ホントに助かりました」
そう。俺は今日、矢吹さんにとても大切なことを教わった。
大事なのは基本の反復。地味でつまらないことを腐らずにやること。
簡単に聞こえるかもしれないけど、以前の俺はまったくできてなかった。
「それじゃ、今日教わったこと、見てもらえますか?」
俺は教わったテクニックの数々を体に染み込ませるため、そしてリザベルさんを安心させるため、黙々《もくもく》と今日の練習を再現した。
まだパンチの打ち方は教えてもらってないが、そんなことはまったく気にならない。
確信してるんだ。あの人についていけば、絶対に強くなれるって。
「多良木さん。何だか嬉しそうですね」
「嬉しいというか、凄くワクワクしてるんです。次は皇帝なんかに負けませんよ」




