パンドラの匣
真鈴の後ろでドアがガチャリと閉まる音がした。赤髪の手下達に追い込まれてドアの中に飛び込んだ彼女の周りを包むのは漆黒の闇だった。それは物理的な粘度を持っているかの如きねっとりした濃い闇であった。潰れて放棄された廃店の内部で真鈴は呆然と立ちすくんでいた。その時その闇の中から
「いらっしゃいませ。」
と声が聞こえた。それは高くもなく低くもなく若くもなければ年老いてもいない、それでいて透き通るように涼し気な女性の声であった。
たちまち立ち込めた黒い闇が朝日を浴びた夜霧のように雲散霧消していった。暗闇が消えた後に残ったのは四方を白い壁に囲まれた何もない伽藍洞の部屋とその中央に立つ一人の女性だった。中肉中背でゆったりとした紫紺のガウンもしくはローブのような服を着ていた。
左右に分けた前髪をそれぞれに編み込んで後方に回しそこでまとめて背中の中ほどまで垂らしている。古代ギリシャの女神を思わせる三つ編みのハーフアップループと言った感じの髪形だった。
年齢は40歳前後だろうか? ふっくらとした顔立ちの目元には多少小じわがあるものの却ってそれが落ち着いた上品な美しさを感じさせる女性であった。
「あら? 随分と可愛らしいお客様ね。」
彼女はそう言って真鈴に微笑みかけた。真鈴は慌てて気まずそうに答えた。
「い、いえ、あの・・違うんです。あたし、お客さんじゃなくてその・・変な奴らに追いかけられて、それで逃げるところが無くてここに飛び込んでしまって・・・」
そこまで言って彼女はハッとした。ドアは閉まったがロックは掛けていなかった。あいつらが今にもドンとドアを蹴破って入って来るような恐怖を感じて思わず後ろを振り返った。
「えっ・・」
彼女が通り抜けて来たはずのドアが消えていた。そこにあるのは一枚岩のような真っ白な壁だけであった。まるで秀逸な手品を見せられたかのような状況に戸惑う真鈴の気持ちを読んだかの如く女性は静かな声で告げた。
「心配しなくても誰も貴女を追いかけては来ないわ。ここは選ばれた人しか入店できない店だから。 さ、こちらへいらっしゃい。」
そう言って女性は奥側の壁に向かうと真鈴を手招きした。彼女は眼の前の白い壁に手を伸ばして指をかけるとスッと横に引いた。壁の一部にしか見えなかったそれは恐ろしく精巧に作られた片引戸であったらしい。鋭利な刃物で切り取られたように音もなく口を開けたその戸口の向こうにはこじんまりとした小さな部屋があった。真鈴は女性に連れられた形でその部屋に入った。
その部屋は窓が無い事を除いてごく普通の部屋であった。壁、天井、フローリング等のデザインや材質は何処にでもあるもので特に変わった様子はない。部屋に設置された照明や机、椅子などもありふれたものだった。
女性は机の前に置かれた椅子に腰かけると真鈴に反対側に置かれた椅子に座るよう手と眼の動きで促した。真鈴が促されるまま椅子に座ったところで彼女は穏やかな声で訊ねて来た。
「それで貴女は何が知りたいのかしら? 可愛いお嬢さん。」
「エ・・何がって言われても・・・あたし、間違って飛び込んできちゃったので。あ、あのここは何のお店なんですか?」
「この店の名前は【 パンドラの匣 】、そして私は店主の浦島 希海。ここは人生に行き詰って道に迷った人や失った大切なものを探している人が集う場所なの。
そうした人たちに進むべき道や場所を分かる範囲で指し示してあげるのが私の仕事。
そうね・・何のお店かと言えば希望を売るお店ということになるかしら。運命と未来という名前のね。
勿論商売だからそれに見合った対価は頂くわ。高いか安いかはその人の受け取り方次第という事になるでしょうね。」
「でも・・私は」
「いいえ、追われて飛び込んだにせよこの店に来たという事は貴方は何か探している人か物があるはずだわ。それも一時的な感情ではなくいつも心の中に抱え込んだ状態でね。もしよければお話を聞かせていたただくけれど・・どうしますか?」
浦島 希海と名乗った女性は木漏れ日のような柔らかい眼差しで真鈴を見詰めながらそう訊いた。真鈴は彼女の眼を見た時、恐怖でささくれていた感情がゆっくりと癒されて溶けていくような気がした。
それはザラザラした石ころだらけの荒れ地がしっとりとした柔らかい土の大地に還っていくような感覚だった。彼女は小さく頷くとおずおずと口を開いた。
「あ、あのあたし・・今あまりお金を持ち合わせていないんですけど?」
「じゃあいくら持っているのかしら? 帰りのバス代や電車賃を引いた金額を教えてくれる?」
帰りは電車と徒歩だから定期券を使えば新たな費用はいらない。そこで彼女は持っている金額をありのまま伝えた。
「あの・・3500円ぐらいなんですけど?」
今日は部活が休みの事もあって商店街で買い物をするつもりがあったから普段より多めに持ってきていた。いつもなら千円札一枚と小銭が少しと言ったところだ。しかしながらこの店の報酬の相場というのがどのくらいのものであるのかが分からない。
理解できた感じでは占い師業のような物ではないかという気がする。その手の店であるならば報酬金額は一桁違うのではないかと真鈴は不安になった。
「わかったわ。それでOKよ。」
彼女の懸念を一掃するかのように浦島 希海はあっさりとそう答えた。そして続けて訊いた。
「それで貴女の知りたいことは何かしら? お嬢さん。 あ、その前に貴方のお名前を教えてくれる?」
「あたし、白兎尾 真鈴と言います。白い兎のシッポに真の鈴と書きます。竜胆学院高校の一年生です。」
「あら、見た目だけじゃなくて名前も可愛らしいのね。竜胆学院高校という事はお勉強の方も優秀という事ね。素晴らしいわ。それで白兎尾さん、貴女の知りたい事ってどんな事かしら?」
「あの私・・隣席の男子の事が知りたいんです。」
「隣席の男子? その子は貴女の想い人なのかしら?」
「え? ち、ちがっ・・あ、あのそういう意味じゃなくて彼の正体を確かめたくって、それで・・・・」
彼女は慌てて左手を左右にバタバタと振ると希海の問い掛けを否定した。それを見た希海は手の甲を口に当ててクツクツと笑いながら言った。
「あら、ごめんなさい。てっきりそうかなと‥違うのね。じゃ、そう言う事にしておきましょう、フフッ。 でもその男の子の正体が知りたいって・・その子がまるで人以外の何かみたいに聞こえるけど?」
そこで真鈴は巨狼について一通りの事を全て話した。身長や体付き、顔の造作、目が蒼灰色である事に始まって二メートルを超える塀を軽々と跳び越える人間離れした身体能力やクラスメートの記憶をおぼろげに薄めてしまう怪しげな精神干渉についてまで詳細に語った。
ただし自分が毎朝、机に突っ伏して眠る彼の寝顔を見るのを心待ちにしていることなどは除いてだが。
「それでその男子を尾行して駅裏に来たところを悪い連中に目を付けられて追いかけられた、という事なのね。」
「はい。そうです。」
「そう、よくわかったわ。それじゃ手を出して頂戴。うん、どちらか一方の手でいいわよ。」
希海は彼女の手を両手で優しく包み込むように握った。柔らかく温かい手だった。途端、握られた手の先から涼しい風のような何かがスーッと流れ込んでくる。それはやがてはっきりとしたうねりとなって真鈴の身体を駆け巡り始めた。
「その男子と出会った時から今日までの事を思い出しながら意識を集中して。ゆっくりでいいから出来るだけ詳しくハッキリと記憶をたどるの。」
頭の中を、胸の内を、そして体の隅々をスゥー スゥーと風が吹き抜けていく。あり得る筈のないその感覚に真鈴は戸惑った。そして戸惑いながらも巨狼に出会ってから今日までの三ヶ月足らずの記憶を頭の中でゆっくりとなぞり始めた。
それはひどく長い間であったような気もするし随分と短い時間であったようにも感じられた。やがて女性店主の声が唄うように聞こえた。
「はい、良く分かったわ。これで充分よ、お疲れ様。」
いつの間にか希海の手は彼女の手から離れていた。同時に身体の中を風が吹き抜けるようなあの不思議な感覚も消えていた。希海はしばらく瞑想でもしているかのように目を瞑ったままジッとしていたがやがて立ち上がると部屋を出ていった。
その後五分ぐらいすると戻ってきて真鈴の前に座るとこう言った。
「貴女の霊魂と精神接触させてもらったわ。」
「私の霊魂と・・精神接触・・・?」
「人の身体の中には現代の科学的な検査でも読み取れない様々な情報が存在するの。血肉に溶け込んで一体となったそれらは言い換えれば魂の記憶情報と言えるものね。さっきは貴女の身体の中にある念や霊気からその情報を読み取らせてもらったの。
あ、でも貴女の脳の中にある記憶とはまた別のものだから心配しなくても大丈夫。
具体的な名前や場所と言った個人情報は読み取ったりできないから・・・・
貴女が強く思い描いた念を自分の念と同調させて感覚的に共有しただけよ。」
浦島 希海は真鈴の眼を見ながら安心させるようにニッコリと微笑んだ。
「それで視えた事を言うとね。白兎尾さんには二つの災厄が近づいているわ。周囲の人間に危険をもたらす歪みを持った存在よ。一つは貴女を追い詰めた赤い髪の男子。あれには気を付けなさい。相当に禍々しい存在だわ。下手に関わると貴女の人生が狂ってしまう程のね。
でも本当に危険なのはもう一つのほう。それが貴女の隣席の男の子。赤髪の男子のような禍々しさはないけど歪みそのものは比べ物にならないほど大きくて強力だわ。稀に見るほどの異常な存在と言えるかもしれない。」
「真神君が・・大きな災厄?」
真鈴は思わずそう呟いた。その小さな呟きを聞き取った希海が怪訝な面持ちで彼女に訊ねた。
「マカミ・・それがその子の苗字? へぇ・・・まさかとは思うけど。 ねぇ、それどんな字で名前は何というのかしら?」
「彼の名はマカミ ゴロウと言います。真実の真に神様の神、ゴロウは巨大の巨に狼とかいてゴロウと読みます。合わせて真神 巨狼です。」
それを聞いた希海は声を出さずに口先だけで ”ふぅーん” と呟いた。
「どうやらそのまさかかもしれないわね。やはり大口真神の一族の末裔に連なる者ってことかしら?」
「何なんですか? その大口真神って。」
「ああ、それは気にしなくていいわ。ただその真神って男の子は貴女の感じている通りおそらく普通の人ではないかもしれない。貴女の身体の中に微かに残っていた念の残滓に世にも稀な因子が混ざっていたわ。恐らくその子のものでしょうけど・・・
そう大昔なら魔性の者と呼ばれたような存在よ。」
「魔性の者! もののけ とか あやかし とかなんとかいう奴らのことですか?」
「そう呼ばれたこともあったかもしれないわね。現代では存在が正式には確認されていないほど希少な人類の亜種って分類になるんでしょうけど。
ただ真神って子は迂闊に近づくには危険すぎる存在だわ。あまりに大きな歪みは別の歪みを呼ぶことがあるの。赤い髪の男子も彼に引き寄せられた災厄の一部と言えるかもしれない。彼に近づけばそうした危険も増えて来るでしょうね。それでもあなたはまだ彼の事が知りたい?」
真鈴はしばらく考えた後、はっきりと頷いた。
「はい。真神君の事が知りたいです。」
彼女の返事を聞いた希海はクスッと笑うと自分にしか聞きとれないような小さな声で言った。
「なるほどね。恋は盲目、盲目蛇に怖じず、ということわざはどうやら二つとも本当みたい。」
「え、何か言いました?」
「ううん、何でもないわ。気にしないで。」
そう言うと彼女は立ち上がって部屋の隅に向かいそこに置かれたロッカー棚の引き出しの一つから何かを取り出して戻って来た。そして椅子に座ると持ってきたそれをトンと机の上に置いた。それは色褪せた黄金色の指輪だった。石座の上に丸く平べったい円盤状の金属版が埋め込まれている。その銀色の表面には五芒星の紋章と呪文のような文字の羅列が刻まれていた。変わっているのはその金属板の縁に小さな吹き口のような突起が付いている事だった。
「これを貴女にあげるわ。窮地に陥った時はその吹き口を吹きなさい。救いの手が来てくれる筈だから。」
「救いの手が来るってどういう? でこれは一体?」
女性店主はニッコリと微笑んで答えた。
「これはソロモンの指輪。彼を貴女の僕にするための秘宝よ。」