肉と記憶を喰らう牙
怒りと恐怖がない交ぜになった感情に混乱したタカシは他に為す術もなく三回目の拳を繰り出した。やはり拳は外れた。だが今度は右腕を引き戻す事が出来なかった。更に手首部分に強烈な痛みがあった。少年が大きく口を開けて彼の右手首を咥え込んでいた。そしてそのまま大きく首を回し振った。同時に強力無比な腕がタカシのズボンのベルトを掴んで持ち上げ振り回した。
強大な咬合力に遠心力が上乗せされた獰猛な犬歯が彼の右手首の筋肉と腱を引き裂いて喰いこみ橈骨と尺骨に穴を穿った。鋭い歯先がバリッ、ゴリッと骨を齧る恐ろしい苦痛にタカシは絶叫した。
「ギィアァエェェェェェ――――――ッ!」
そのまま彼の身体は宙を舞い石灯籠にぶつかった。硬い石肌に背中から叩き付けられて弓なりに反りかえったタカシの口から「ゴヒュッ!」という肺が潰れたような吐息が漏れた。そしてズルリと地面に崩れ落ちたまま動かなくなった。白目を剥き口から赤く濁った吐瀉物が溢れている。そればかりか右手首が半分ほど千切れかけていた。マサヒロがケンゴに向かって叫んだ。
「ケンゴさん、気ィつけてください! こいつ刃物を持ってますぜ!」
だが月明かりの中に立つ少年の手には何も握られてはいない。その少年が口の中から赤黒いものを地面にペッと吐き捨てた。それが何かを視認した時、ケンゴは胸の奥にゾッとした物を感じた。それは血に塗れた暗紫色のTシャツの生地と肉片が絡み合ったものであった。
『刃物なんかじゃねえ。タカシの手はこいつが自分の歯で噛み千切ったんだ・・・このガキ、マジの化物か!? 』
ケンゴはこの後どうすべきかを迷った。タカシは元柔道部員だった。地区大会で個人三位になったこともある猛者だ。マサヒロと二人で起こした窃盗事件がばれて二人一緒に高校を退学になった後、自分と知り合い三人で行動するようになった。腕力がめっぽう強くて喧嘩で組打ちになったら負け知らずの男だ。そのタカシが木偶人形のように投げ飛ばされて失神している。
彼は人間の身体が投げられて宙を飛ぶなどという事が実際にあり得るとは思ってもいなかった。ましてや腕を噛み千切るなど人間の咬む力で出来るものだろうか? いや例え可能であったとしてもそれを為す精神性は既に人間の物ではない気がした。
今までの話からして少年はこの辺りの界隈に土地勘は無いらしい。マサヒロと一緒にこの場をダッシュで離れれば後を追っては来れない筈だ。タカシについては後で警察と消防に匿名の通報を一本入れておけばどうにかしてくれるだろう。
女達とは互いの利益の為に連んでいるだけだ。俺達は遊ぶための金欲しさに、あいつらは金と性的欲求を満たすために・・・
精霊鉱を加工した指輪や腕輪、グローブなどの触媒デバイスを使って熱や電流、圧力を自在に操る念能と呼ばれる力。そんな得体の知れない力を持った連中など危なっかしくて近づく気にならない。ある意味、少年とそう変わらない存在だ。どうなろうが知った事ではない。
『ここは…逃げの一手ってやつだな。』
だがケンゴの選択は直ぐに一蹴されてしまった。マサヒロが怒号を上げ乍ら少年に襲いかかったからだ。相手が刃物を持っていないと判断したマサヒロは低く構えた姿勢から猛然と突進した。ラグビーで鍛え上げた己の肉体に絶対的自信を持つ彼にとってそれは当然の行動だった。身長180センチ、体重90キロを超える圧倒的な質量を乗せて右肩と肘を打点とした強烈なショルダーアタックを少年目掛けて叩き込んだ。
だが・・跳ね飛ばされたのはマサヒロの方だった。
彼がぶつかったのはまさに巨大な分厚い石壁であった。マサヒロが感じた理不尽な感触はタカシが味わったそれを上回る物だった。彼が少年に叩き込んだ衝撃エネルギーは全て反作用となって彼自身の身体に跳ね返った。マサヒロの身体は大きく後方に跳ね飛ばされて境内の地面をゴロゴロと転がった。意識が真っ白になって直ぐ暗くなった。
『俺は・・何をしている? 何故……転がっているんだ?』
数秒間飛んでいた意識がゆっくりと戻ってくる。鼻の奥にきな臭い匂いと激しい痛みがあった。右肩もズンと痺れたような痛みがあって手が動かない。
衝突した際、少年の硬い岩のような額と肘が鉄槌の様にめり込んでマサヒロの鼻骨と鎖骨をへし折っていた。脳震盪で突っ伏した状態の彼の首裏周りのシャツを少年の左手がガッチリと掴む。そしてそのまま一気に自分の頭上までグイッと引き上げた。ダランと宙吊りになったマサヒロの巨体がブラブラと揺れる。小型の重機を思わせる圧倒的なパワーだった。
少年は空いた右手でマサヒロの腰の辺りの衣服をギュッと握ると彼の身体を大きく振り回し始めた。90キロを超えるマサヒロの身体がまるで空のスーツケースの如く旋回してやがて空中に向かって放り投げられた。大きな放物線を描いて彼が落下したのは春日造りと謂われる拝殿の正面頭上に突き出た平たい屋根の上だった。
御旅所の小振りな造りとは言え三メートル近い高さを持ったそこに大男一人を軽々と放り上げたその膂力は人間業ではなかった。ドォンという響きを立てて階隠しと呼ばれる庇部分に落ちたマサヒロは苦しそうに呻きながら寝転がったまま動けないようであった。
ケンゴは驚愕で眼を見開いた。少年の身体が一瞬大きくなったかのように錯覚したからだ。いや錯覚などではない。マサヒロとぶつかった瞬間、少年の身体は一回り以上大きくなった。身長がグンと伸びて体幹がメキッと膨れ上がり腕や足腰はミシッと太くなって鉄の棒を呑み込んだような硬質な質感に変わった。猛獣の子供が一挙に逞しい成獣に成長したかのような変化であった。少年の着ている服が限界まで引き伸ばされてビリビリと音を立てているのが聞こえるような気がした。恐怖に震える膝を無理やり押さえつけると彼は鳥居の向こうへと逃げ出した。
少年が周りを見回した時、既にケンゴの姿はそこになかった。仲間を見捨てて逃走した後だった。少年は彼が立っていた辺りに近寄ると数回、鼻をスンスンと鳴らした後で独り言のように呟いた。
「他の二人とは違う匂いがある……これが逃げた奴の匂いか。これ何とかって言う違法ドラッグの香りが混じっているぞ。ヤバい事やってんなぁ。
まぁ店の事にについては噂レベルしか知らないみたいだし追いかけても意味ないな。放っておくか・・・」
彼はそのまま鳥居に向かって歩きながらブツブツ呟いた。
「これちょっとヤバいよな。今までの中で一番不味いかも? 満月だってこと、忘れちまってたわ。二人も大怪我させちまったし・・・
月齢による神血活性値の上昇を意識的に調整するっての面倒で未だ上手く出来ねえんだよなぁ。服も方々が破れちまったし狼人化しかけたことが義母さんや義姉さんにばれたりしたらマジでどうしようもないぞ。」
鼻面にしわを寄せた犬のような表情で少年は鳥居に近づいた。そこで固まったように立っている不良女達をチラリと横目で見ながら無言で鳥居を潜ろうとした時、女たちの一人が彼を呼び止めた。
「ねえ、あんた、名前は何て言うの?」
訊ねたのは沙織と呼ばれていたショートカットの女だった。少年はまばらにかぶさる前髪の下から蒼灰色の眼で彼女を射抜くように見た。そしてぽつりと答えた。
「……ゴロー。」
「そう・・ゴローって言うんだ。 覚えとく。でもさ、あんたを引っかけようとした女なんかに名前を教えちゃっていいの?」
「別に構わない。どうせすぐに忘れる。あんたらも男達もな。俺に会った事は覚えていても名前も顔も声もすぐ思い出せなくなるさ。」
「え、なにそれ? どういう事?」
「じゃあな。」
くるりと踵を返すとゴローは石製の小さな鳥居と階段を抜けて路地裏の闇の中に紛れて見えなくなった。
「電撃やらなかったんだ。わざわざ声を掛けたからてっきりやるのかと思ったよ。」
美佳が近づいて来てそう言った。沙織は両手の掌を30センチ程空けて向かい合わせにして構えた。左右の中指と薬指に嵌めた四つの銀色の指輪から突然青白い火花が蜘蛛の巣のように迸って繋がった。
バリッ、バリバリッ、ジジ…ジジジ
と生理的な不快感を覚える放電音を発しながら幾重にも分かれた触手のような閃光が境内の地面を青白く照らし出す。やがて火花は消え沙織は左右の掌をパンと打ち合わせた。境内には元の薄闇と静けさが戻った。
「あの男子にこんなものは効かない気がしてさ。あれはあたしレベルの念能じゃどうにもならない相手だよ。あのブルーグレイの眼で見詰められた時、そう思ったんだ。」
「確かにそんな気がするね。何もせずに見逃してくれたことがラッキーだったかもしんない。下手にチョッカイかけていたら怖い事になっていたよ、多分。」
「怒ってた感じじゃなかったしね。今度、街中であった時に声を掛けたらひょっとしてお近づきに慣れるかもしんないじゃん。力づくとかじゃなくてさ。」
「それで名前を訊ねたってわけ?」
「そうよ。今度会った時に○○○って呼び掛けて・・・・・・あれ?
えーと、確か✕✕✕じゃないし・・・△△△でもなかったよね。 へ、なんで? あれ、なんで名前が出て来ないんだろ?」
さっき聞いたばかりの彼の名前が出て来ない。聞いたことは覚えているのだがそれがどんな名前だったかどうしても思い出せない。マサシじゃないしカズヤでもない。オサム、シゲル、ヒロユキも違う。トシオ、ヒロシ、ケンイチ、シュウジ、タカヒロ、ジロウ・・・みんな違う。いや‥‥もう違っているのかどうかすらよく分からない。狼狽した沙織は堪らず美佳に訊いた。
「あの男子の名前が思い出せない‥‥美佳、あんたも聞いたでしょ、あの男子の名前・・・何だったけ?」
「もう、何ふざけたこと言ってんの。まだボケるには50年早いよ。さっき聞いたばかりじゃん。彼の名前は・・・・・・・・・・あれ?! どうして?・・」
名前だけではない。少年の声や容姿、交わした会話までが朧げであやふやな記憶でしかなくなっていた。どんなに印象的な夢でも目が覚めてしばらくすると中味を忘れて思い出せなくなるのとよく似た状態であった。
夢を完全に記憶しているようになると現実とそうでない事が区別しにくくなってしまい生活に支障が出る恐れがある。それを避けるためにレム睡眠中においてMCH神経と呼ばれる特殊な神経が海馬に働きかけて夢の記憶を消去しているらしいのだがそれと同じ反応が起きているのかもしれなかった。
しかし沙織や美佳があの少年に会った事は事実であり夢などではない。よってMCH神経による記憶消去システムが働く必要は無い。となると外部からの介入による記憶の消去という事になるが果たしてそのような事があり得るだろうか?
後で分かった事だが沙織と美佳以外の人間、タカシやマサヒロまでも含んだ全員が同じ状態に陥っていた。唯一、遁走したケンゴについては分からないがおそらく同じ状況であろうと思われた。
タカシとマサヒロは匿名の通報によって保護され入院した。その後、神社拝殿への不法侵入と複数の恐喝罪で逮捕となった。二人の怪我の原因ついては現在も解明されないままだ。現場に残された肉片とロンTの切れ端から検出された唾液は人間以外の動物、恐らくイヌ科の物と鑑定された。タカシの手首の咬傷についてはシェパード,秋田犬、ドーベルマン、土佐犬等の大型犬種によるものと推定された。事件当時、そうした犬種の目撃や逃亡に関する情報は報告されていなかったが歓楽街のど真ん中に熊や猪などの大型野生動物が出現する可能性の低さを考えるとそういう線で落ち着いた。
マサヒロについては鎖骨を骨折した状態でどうやって屋根の上に登ったのか分からないままであった。本人の証言によれば第三者によって拝殿の上へと投げ上げられたという事だが90キロを超える巨漢を屋根の上に投げ上げるなど数人がかりでも不可能であることからまともに取り上げられなかった。
タカシもマサヒロも今回の事件の内容について同一人物の仕業であると証言したがその人物の年齢、顔、身長、体重等の容姿に関する記憶が殆ど不明瞭であるため捜査の仕様が無かった。唯一確認が取れたのは性別が男であるらしいという事だけだった。
然しそれも二人の言う人物が本当に存在したとしたらの話であり実際には意味のない事実関係でしかなかった。
こうしてこの不可解な事件は終息した。不良女達は拝殿に侵入したわけでも誰かに危害を加えたわけでもないため(今回に限って言えばだが)厳重注意を受けただけで済んだ。ケンゴは何処に雲隠れしたのか行方不明のままだ。見つかれば露見した余罪で逮捕されることになる筈である。
☆ ― ★ ― ☆ ― ★ ― ☆
あの神社の出来事からひと月ほどが過ぎた。あれから沙織や美佳とかの不良女達を見かけることはなかった。例え会ったとしても向こうが彼に気付くことはないだろう。今ゴローはこの町で高校生としての日常を送っている。
選ばれた者だけが訪れる事が出来るという占いの店 パンドラの匣 はまだ見つかっていない。
亜人科 獣人属 狼人種という摩訶不思議な素性を隠し社会に溶け込んで生活するのは窮屈ではあったが念願の独り暮らしはそれ以上に新鮮な感覚に満ちていた。ただその新鮮で気楽な生活がもうすぐ一人の天然なクラスメートによって大きく変貌する事を彼はまだ知らなかった。