王子と下僕
それを聞いた巨狼はゆっくりとした動きで犬伏の前に進むとドンッ!と地面を踏んだ。足裏を大型ナイフの鋭利な刃でサンダルごとザックリと切られたとは思えない動作だった。犬伏は冷たく冴えた光を放つナイフを眼前に構えた姿勢で対峙した。巨狼の山の如き巨体から水蒸気のような何かがユラユラと立ち昇っているのが視える。それがこの怪物の肉体の中に凝縮された強大な念気が外へ漏れ出した姿であることを彼は知っていた。
巨狼の右肩辺りから青白い火柱のようなものが立ち上がりくねくねと揺らめきながら犬伏めがけて伸びてくる。形すら定まらぬ千切れ雲の如き蒼炎、それは数舜後には現実の攻撃となって襲い掛かってくる未来の予知視だった。しかし彼は人の腕を模したその青白き炎を
≪ 違う。弱い! ≫
と見切った。これは陽動であって真の攻撃ではない。その予知通りに不定形の蒼炎の中から現れたのは目を瞑っていても躱せるような緩い鉤突きであった。ならば真の攻撃は・・・・
突然巨狼の巨大な頭部から青白い豪炎が立ち昇った。それがフードの中から青い炎を纏った大蛇のように伸びて犬伏に迫ってきた。その顔を見た犬伏は凍り付いた。その顔は人の物ではなく獣のそれであった。
「お、狼!」
犬伏の目前に狼人化現象の最終形態を発現した巨狼の顔が大きく口を開けて向かって来ていた。黒銀色の獣毛に覆われた長い口吻と強大な剣歯が彼に届く寸前で バクンッ! と閉じられ同時にすべてが金色の光粒となって消えた。
犬伏は戦慄した。拳や肘でなく膝や足さえ使わない攻撃、およその人間が取りえないであろう 咬み付き という原始的な攻撃など対処したことがなかったからだ。だがそれはコンマ数秒先の未来から間違いなくやって来る ” 死の顎 ” に他ならなかった。
彼は必死に斜め右後ろに飛びのいた。と今までいた場所に 轟っと夜気を引き裂いて巨大な毛むくじゃらの影が突っ込んできた。犬伏は頭部と思しきその影に向かってナイフをしゃにむに振り抜いた。細い銀色の光芒が奔って蒼灰色の瞳を斜めに切り裂いたのが一瞬だけ確認できた。
≪ 勝った! ≫
と思った。敵の眼と足を片方ずつ奪った。どんな屈強な相手でも痛みと精神的ショックで立ってはいられないはずだ。後は地面にうずくまった人狼の化け物を半死半生になるまで甚振ってやるだけだ!
しかし・・・圧倒的な質量をもった毛むくじゃらの肉体はそびえる壁のようにそこに立っていた。足にも眼にもなんの異常も見当たらない。たった今切り裂いたはずの眼は左右ともに揃っていた。鋭く吊り上がった棗型の眼、その周りを隈取の如く彩る漆黒の短毛、そしてあらゆる邪をはじき返すような冷えた蒼灰色の瞳。
「なんだと! ど、どういうことだ?」
狼狽する犬伏に巨狼が言った。
「未来予知ナド必要ナ‥イサ。先ニ教エトイテヤロウ。俺が狙ウノ・ハお前ノ腹ダ。今カラ コノ右手デ・・オ前ノ腹・・ヲ打ヅカラナ。」
たちまち巨狼の巨大な右拳から霞のような青白い炎が螺旋を描くように犬伏の腹部に向かって伸び始める。皮肉なことに己の先見の術が巨狼の予告が嘘ではないことを証明していた。汗にジットリと濡れた右掌を素早く拭いてナイフを構え直した次の瞬間、ドスンッ! という短く鈍い衝撃音があがった。水を吸い込んだ真綿に石をぶつけたようなくぐもった音であった。暗色の肉球に覆われた巨狼の掌が犬伏の腹部を打ち抜いていた。
犬伏の身体が宙を飛んだ。腹から胸へと強烈な痛みが駆け上って来る。燃える棘だらけの木の棒を腹の中に突っ込まれたような凄まじい苦痛であった。冷たく固い庭土の上をねずみ花火のように転がり回りながら彼は激しく自問した。
≪ 見えていたんだぞ! なのになんで・・なんで躱せないぃぃぃぃ?! だ、誰かぁ このクソみたいな痛みを止めてくれえぇぇぇぇ! ≫
ねずみ花火の如き回転アクロバットはやがて火が消え落ちたように止まった。背中を丸めボロ切れのようになって地面にうずくまった彼のそばの庭土を巨狼の巨大な足がズゥンと踏んだ。
「己‥ノ反射神経ノ限界ガ・・分ガッタ‥カイ?
ソノ ”先見の術 ” トヤラハ素人同士ノ喧嘩ナラ敵知ラズノ技ダロウナ。ダガ相手ガプロの格闘家ダッタラマズ通用シナイゼ。反射速度ノ‥レベルガ違イスギル。
モシ銃デ撃タレ・・タラ弾ガ飛ンデクル位置‥ヤ軌跡・ガ予知デキタトシ‥テモ躱スコトハデキナイノト同ジダ。」
巨狼は瞬間的ならば亜音速の約十分の一に近い速度で手足を動かすことが出来る。満月期であれば三分の一に近い速さが出せる。人間には肉体の構造上、絶対不可能な速さであり仮に出せたとしても限界を遥かに超えた極度の負荷によって筋肉や腱や骨は裂け、千切れ、砕けてボロボロになってしまうだろう。狼人族の持つ超生物的な肉体強度と再生力があればこそ可能な能力であった。
「・・!」
犬伏の頭にブチッブチッという音と激痛が走った。と同時に視界が大きく変わる。雑草に覆われた黒い地面と荒れ果てた庭の風景がいつの間にか獣毛に覆われた巨大な狼のような顔を上から見下ろすような映像に変わっていた。巨狼が自分の赤髪を掴んで宙高く差し上げているのだと気づいたのは頭皮が剝がれそうな凄まじい激痛に悲鳴を上げながら何度も身をよじった後だった。
頭髪を握った巨狼の腕を必死につかみ爪を立てて搔き毟るが荒々しい剛毛の生えた黒松の幹のようなごつい腕はびくともしない。やがて巨狼は凶暴な鉤爪の生えた人差し指と思しきものを犬伏の鼻先に突き出すと言った。
「最初ニ言ッタ通リオ前カラ声ヲ奪ウ。罪ノナイ女子2人ニアレダケノコトヲヤッタ報イハキッチリ受ケテモラウゼ。」
鋭い鉤爪が犬伏の喉仏の上部にスッと食い込んだ。外科医の操るメスのような慎重な動きの後で何かがコリッと音を立てたような気がした。不意に頭皮の強烈な痛みが消失した。巨狼が毛髪を握っていた鋼鉄のような指を開いていた。
バラリ、バラリと舞い落ちる血の付いた毛髪と一緒に犬伏の身体はドサッと地面に落ちた。喉から流れ落ちる熱い液体の感触を感じながら彼は気が遠くなっていった。
☆ ― ★ ― ☆ ― ★ ― ☆
じっとりと汗ばむような土曜日の午後、駅外れの小さな喫茶店で竜胆学院の二人の女生徒が向かい合って座っていた。一人は色白の小柄な少女、体つきはムッチリとスラリのちょうど中間値。小動物を思わせるクリッとした眼にツンと尖った可愛い鼻、細いながらも立体感のあるプニッとしたベビーピンクの唇、艶やかなラビットツインの黒髪がフワフワと揺れている。
もう一人はギュッと引き締まった筋肉質な身体にスラリと伸びた長い手足、そしてピチピチした小麦色の肌を持った女子であった。扁桃形のキリッとした鋭い眼ながらの涼しげな眼差し。軽くウェーブさせたベリーショートとボブショートの中間ぐらいの長さの漆黒の黒髪。ボーイッシュとガーリッシュの混じり合った不思議な魅力を感じさせるハンサムガールである。
「朱里、 もう体の方は大丈夫なの?」
「うん、もう心配ないよ。ありがと、真鈴。」
二人の少女は小比鹿 朱里と白兎尾 真鈴だった。
あの事件があってから数日間、朱里は学校を休んだ。他校の見知らぬ男子生徒達に殴られたうえ、未遂に終わりはしたが強姦寸前までの暴行を受けたわけだからそれは当たり前だったろう。狙われた自分よりも多大な被害を受けた親友に対して痛切な申し訳なさを感じた真鈴は何度も電話やメールをしたが「大丈夫だから」という短い返信が来るばかりであった。
真鈴がついに家を訪問しようと思い始めた頃、朱里は登校してきた。学校にはインフルエンザに罹患したと報告していたらしい。顔の腫れや傷もほとんどそれとわからないほどになっていた。両親に対しどのような説明をして納得させたのかはわからないが警察にも通報していないという。
「訴えることで更にひどい風評被害を受けることがあるからって・・・・・」
確かに警察に訴えればあの三人は高校を退学になることは間違いない。更に法的にも社会的にも重い処罰を受けるだろう。だが朱里の方も無傷では済まない。あの娘は不良どもに不埒なことをされたらしいと噂になることは避けられまい。どんなに未遂であったと叫んだところで人の口というものは面白おかしくより刺激的な方向にと流れていくものだ。
「でもそのままだとまたあいつらから狙われるかもしれないよ。」
そしてそれは朱里だけの問題ではない。むしろ真鈴自身が一番危ない状況であった。
「多分、あの連中はしばらく動けないでしょ。それに・・・ 《彼》 が家に訪ねてきてあいつらが来ることはないからもう大丈夫だって・・・」
「ヘッ、彼? 彼って・・誰の事?」
「うーん・・・・それがね? あんまりよく覚えてないの。」
「ハァ? 何それ‥‥どういうこと?」
真鈴の追及に朱里は両掌を上に向け肩まで上げてシュラッグすると言った。
「だってホントに覚えてないのよ。不思議だけど・・ ほら、昼間はパパもママも仕事に出かけていて妹は学校に行ってるでしょ。誰もいないときに絶対玄関ドアを開けるなんて危険なことしないはずなんだけど。
でも誰かと話したことは覚えているの。よく知った人だったのかしら? 男の人によく知った相手なんていないんだけど・・・・」
「夢と現実を勘違いしているんじゃないの?」
「私も最初はそう思ったわ。でもふと見ると玄関に綺麗にラッピングされた菓子折りが置かれてあって・・なんか怖くて触れなくて。で恐る恐る開けてみたら駅前の南風堂のショートケーキだったの。だから夢なんかじゃないわ。」
「でも名前も容姿も声も覚えていないと?」
「うん、覚えているのはケーキがすごく美味しかったっていうことだけ。」
「食べたんかい!・・・・まあ、いいわ。 で、その人とどんな話をしたの?」
「私を襲ったやつらにはもう二度と悪さができないくらいの厳しい神罰を加えたからって。 だから安心して学校に出てきたらいいって言ってたわ。」
「神罰? 神罰って何をしたのかしら?」
「さぁ・・・見え(ぃ)ぬ、聞こえ(ぃ)ぬ、言え(ぃ)ぬ とか言っていたけど何のことかよくわからないわ。」
朱里と真鈴をその毒牙にかけようとした地獄の猟犬の三人は巨狼の下した神罰によってそれぞれ視力、聴力、発声の機能が常人の半分以下に落ちてしまったことを彼女たちは知らなかった。
「じゃあ朱里はあの西校舎で私たちを助けてくれた男子のことも覚えてないのね?」
すると朱里はちょっと戸惑ったような表情を浮かべた。あの時、床に倒れ込んで起き上がる気力すら無くしていた自分の両肩を優しく掴んだしなやかなそれでいて力強い両腕。自分を空中に放り上げ、つむじ風の中の木の葉のごとく舞わせた後、社交ダンスのラストターンのような優雅な着地をさせてくれた人。まるで澄んだブルーグレイの月光を浴びながら宇宙遊泳をしていたかのようなあの不思議な浮遊感覚。
ああ、私の王子様・・・・
「覚えてる。名前も顔も声すら深い霧の中だけど存在だけは忘れていないわ。」
「へぇー・・・ そうなんだ‥‥‥」
「真鈴は覚えているの? もしそうだったらどんな人だったのか教えてよ。」
「エ・・い、いや私もよく覚えていなくて・・・多分ウチの学校の誰かだろうとは思うんだけど見たことのない人だったわ。だから学年もクラスも知らないし・・」
彼女は思わず嘘をついた。彼女たちを地獄の猟犬から救ってくれたのはまぎれもなく真神 巨狼だし朱里の家に訪ねてきた人物というのもまず彼で間違いないだろう。だがそれを朱里に伝えてしまって良いものかどうかとっさに判断がつかなかった。
『 朱里は助けてくれたのが真神君だということはやっぱり忘れているのね。例の記憶消去の異能が働いたんだわ。でももしその事実を彼女が知ったら・・一体どうなるのかしら? 』
真鈴は店の窓の外を眺めている少女の横顔をそっと見た。何かを一心に想っているかのようなうっとりとした表情であった。それを見た真鈴の心の中に複雑な感情が巻き起こった。彼女はその感情に引きずられるままに親友に話しかけた。
「ねえ、朱里。話は変わるけど貴女、真神君のことをどう思う?」
「真神君・・? なんで今そこに彼の名前が出てくるの?」
「べ、別に理由なんかないわよ。ホ、ホラこの間、彼のことが事が好みのタイプだとか言ってたじゃない? だからどうなのかなーと思って・・・」
「ハァッ! あたしがいつそんなこと言ったのよ? あんな ”無口で不愛想な変人” に興味なんかないって言ったじゃない!」
「いや、それってまんま貴女の言った ”地味で武骨で偏屈でもいいから” っていう条件にピッタリなんですけど?」
「それは・・たまたま表現が一致しただけよ。意味する方向性が全く違うし。」
真鈴は ” ふぅん ” と頷くと続けて訊いた。
「じゃあさ、もし私たちを助けてくれた人や朱里の家に来た人がじつは真神君だったとしたら・・どう?」
「エッ・・何を言ってるの? 知らない人だったって真鈴が言ったんじゃない!」
「だ・か・ら・ もしも! もしもの話よ。
大体、そこまで印象に残っている人のことを何にも覚えていないなんてこと自体が普通じゃないでしょ。もしかしたら催眠術か暗示で精神的な干渉を受けた可能性だってあるかもよ? だったらひょっとしてあり得るかもしれないじゃない。」
朱里は エェー と不満そうな声を上げながら ” そんなまさか、真神君が・・まかみくんが・・マカミクンガ…………王子様トカ ” とブツブツ呟いていたがやがてボソッと言った。
「あり得ないわ・・・・!」
そして二人の少女は互いにどちらからともなく小さく頷き合ったが心の中ではそれぞれ別のことを考えていた。
『 そんなことあり得ないわ! でも・・もしそうだったら・・・
うーん、真神君かぁ。…………チョットダケ あり カモ? 』
『 そんなことあり得ないわよねえ~、朱里。だってあいつは私の僕だもん! 』




