神罰の執行人
チッ、暑いな、と犬伏 明雄は思った。ジットリとした汗が胸の上をツッーと滑り落ちる。ぬるくなった缶ビールをゴクッと飲み干すと時計を見た。
「ジローの奴、ビール買うのにどこまで行ったんだよ。もう30分にはなるぞ。角のコンビニ行きゃあ10分もかかんねえ筈だろ。」
「つまみかなんか選んでんじゃないすか? それにあそこのコンビニ、この頃外国人のバイトが入ったせいでレジとかやたら時間がかかるんすよ。」
「そんじゃ別のコンビニにでも行ったか? ほら、国道近くにもう一つあったろ。あそこに行ったんじゃねえのか?」
「いや、あそこだと片道15分はかかりますよ。歩きっすからねえ。缶ビールの入った重いレジ袋引っさげてトコトコ帰ってくるってのはないと思うっすけど。」
マサアキが煙草の煙りをくゆらせながらそう答えた。
" 地獄の猟犬 " のたまり場になっているこの場所は犬伏が生活の拠点として借りている一軒家だ。占い師をやっている祖母の知り合いが格安の家賃で貸してくれている物件だった。
「犬伏さん、実家あるのに何でこんな不便な場所の一軒家借りてんすか? 家から通ったほうが便利っしょ。そのほうが八葉高も近いし。」
「ハンッ あんな口うるさいバアサンがいる家なんざ誰が住むかよ。古くて狭いボロ家でもこっちのほうが気楽でいいんだよ・・・オイ、それよりジローに携帯掛けてみろよ。どこにいるのか確認しとけ。」
「それが・・あいつ今、スマホもってないんすよ。ほらこの間、シュリって女にモップの柄で腹をぶっ叩かれたとき胸ポケットから落としちまったらしいんです。」
それを聞いた犬伏の表情が険しく変わった。
「携帯を落として来ただぁ! バカ野郎! そりゃ決定的な物的証拠じゃねえか! そんな大事なことをなんで今まで黙っていやがった?!」
「ヒィッ・・す、すみません! けど俺がそれをジローから聞いたのが昨日の夕方だったんすよ。ちょっとヤバすぎて今まで言えなかったみたいっす。」
” だ、だけどっスよ ” とマサアキがおずおずと続ける。
「あれからもう二週間近く経ってますよ。本当なら警察か学校から呼び出しがあるはずっス。なのに事情聴取どころかなんの連絡すらないっていうのが不思議っすよ。ひょっとするとあいつら警察に訴えてないんじゃないっすかね? というより誰にも言ってないんじゃ?」
犬伏は黙ってしまった。確かにそれについては疑問を感じていたからだ。あの場において自分達は互いに名前で呼び合っていた。当然、犬伏、マサアキ、ジローという名前はあいつらの記憶に残っているはずだ。それにこの目立つ赤髪となれば警察の聞き込みだけですぐに身バレするだろう。どうしようもない詰みの状態であった。よってこの二週間近くの間はなるようになれとヤケクソで過ごしてきた。ところが何故か 《《その日》》 はやって来なかった。二人は互いに黙ったまま考え込んだ。
蒸し暑いジメッとした沈黙の途中で不意にマサアキがピクッと身を強張らせた。彼は派手なアロハシャツの胸ポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出した。ヴヴヴヴヴと振動するそれの画面を 誰だ?今頃・・・ と呟きながら覗き込む。
「えっ・・ジロー?」
彼は驚いたような声を出して画面を指でなぞった。しばらく画面を見詰めた後、困惑した口調で犬伏に言った。
「犬伏さん、ジローの奴がショートメール送ってきたっす。」
「アァン、ショートメールだとぉ? さっき携帯落としたって言ってたじゃねえか。 どうやって送ってこれたんだ?」
「うーん・・・ 新しい携帯買ったんじゃないすかねえ? あ、でも電話番号前のまんまだな。無くした時は電話番号変えないと後の防犯対策が大変だって聞いたっすけどね。」
「それにどうしてショートメールなんだ? 電話かけてくりゃ良いだろうが。」
「それがなんか酒店でトッポい連中に絡まれて逃げてる最中らしいっす。今、廃屋の庭に隠れているけどヤバくて声が出せない状況だって・・・・どうするっすか?」
「場所は分かんのか?」
「ジローがビール買いに行った酒店てのは赤城屋ですからね。あの辺りで廃屋つったら一応心当たりがあるっす。」
犬伏はチッと舌打ちした後でめんどくさそうに ” 行くぞ ” と言って立ち上がった。マサアキもそれについて立ち上がる。
「相手は何人ぐらいか分かんのか?」
「ジローのメールじゃ三人て話っす。」
「それぐらいなら他のメンバー呼ばなくても俺達だけでいけるな。もし多けりゃ俺の言霊縛りでどうとでもなんだろ・・・・・・ ‥‥‥‥ ‥‥ ‥‥」
「そ、そうっすよね・・・・・・・ ‥‥‥‥」
一瞬、先日のあの悪夢のような経験が二人の頭の中をよぎった。
『一体あの化け物は誰だったんだ? どうも記憶がはっきりしねぇ・・・』
『相手が何人いようがアイツとやり合うより1000倍マシっす。』
それぞれ心の中でそう呟いて外に出るとザクザクと砂利道を歩き出す。風のないジットリとした蒸し暑い夜だった。この辺りは人家もまばらで明かりも少ない。だが今夜は煌々と夜空に映える満月のお陰で足元は明るかった。長い影法師を引きずりながら二人は夜道を何かに追われるように急ぎ足で歩いて行った。
☆ ― ★ ― ☆ ― ★ ― ☆
長いアスファルト道路を歩いた後でまた砂利道にそれる。その道を三分ほど進んだ場所にその廃屋はあった。いつからなのか長期間剪定されていない木々と雑草で庭は荒れ放題になっている。建物はまだ崩れてはいないがすぐに人が住める状態ではなさそうであった。近所の子供達からお化け屋敷と呼ばれている類いの無人家だ。ジローを追い込んでいたという連中の姿は見えず家の周囲に人の気配はなかった。
壊されたのか壊れたのか門扉は傾き千切れかけて半分開いたままの状態だった。その向こうには玄関ポーチへと続く敷石が並んでいた。干からびた苔と土が混じり合ったものが層となってポーチを覆っている。その寂れたポーチに差し込む月明かりの下に何かかうずくまっていた。それはうつ伏せになった状態で身体を縮めた人間だった。
顔が反対側を向いているため誰かはわからない。がすぐそばに投げ出された白いビニール製のレジ袋がそれがジローであることを物語っていた。
「ジロー! どうした? やられたのか?」
マサアキはそう叫びながらすぐに駆け寄ってジローを抱き起した。うつ伏せだった顔が上を向いた時、マサアキはギョッとした表情になった。ジローの顔が血まみれだったからだ。左右のこめかみがざっくりと切れてそこから流れ出した血が鼻、口、顎を赤く染めていた。すでに一部は赤黒く変色して固まり始めていた。引き裂かれたような傷がこめかみに走っている。刃物による切創というより硬く尖った爪か何かで抉られた裂創であった。まるで顔をアイアンクローのように鷲掴みにしてそのまま下に引き摺り下ろしたような・・・・
その時であった。高い雲の彼方からユラユラと降り注ぐ月光が一瞬陰ったように暗くなったのは・・・
「ヒゥッ・・・・・・」
マサアキが息が詰まったようなうめき声を漏らした。ポーチの向こうの荒れ果てた庭の奥に黒い影が立っていた。それは壁のような巨大な影だった。二メートルを超えるかと思われるその影は明らかに人体とは違ったフォルムであった。手足が異常に長く肩幅が恐ろしく広い。その上に乗っかっている頭部は分厚く張り出したごつい肩幅にふさわしく兜を被っているのかと思えるほど巨大だった。
超特大サイズのパーカーを着こみフードを目深に被っているせいで顔は分からない。腰から下は同じく特大サイズのデニムジーンズがパンパンに膨れ上がった状態で絡みついていた。それでもまだボトムの末端は足首には届いていない。八分丈のズボンの裾から下はヤマアラシの棘のような剛毛で編まれたソックスがのぞいておりその先には化け物サイズのサンダルが履かれていた・・・・いや、よく見るとそれはソックスではなかった。足首から下に逆巻くように密生した濡羽色の荒々しい体毛そのものであった。それを見た瞬間、マサアキはこの異形の巨人が何者であるかを理解した。目の前の大男の出で立ちは数ヶ月前に自分が所属していた不良グループを数分で壊滅させたあの凶悪な怪物のそれと同一であった。
「お前は・・あん時のダイダラボッチ・・・ て、テメェ、真神 巨狼かぁ!」
それを聞いた怪巨人は ” ン?” という仕草で彼を見詰めた。
「ホォ~ ゴレハ・・驚イ・ダナ。俺ニ・・関スル記憶ヲ維持シデイルノ・・カ?」
コントラバスを途切れ途切れに弾いたような重低音の声がゴロゴロと響いた。
狼人化に伴うメタモルフォーゼによって口腔内の構造が変化したためか唸り声のような人語であった。
「ゾォレハ・・少々不味イ話ダ・な。」
次の瞬間、ヴォンッ! という大気の破裂音とともに黒い岩のような巨体がマサアキに迫った。そこにあったはずの空間を圧縮し削り取ったかのような早さだった。
クレーンアームにパーカーを着せたような右剛腕が伸びて彼の顎を刈り取るように引っ掛けると身体ごと宙高く持ち上げた。続いてマサアキの目の前に突き出されたのは巨狼の左腕の掌からまっすぐに伸びた毛むくじゃらの長大な小指であった。それは先端に鉤爪状の突起を備えた小型の鳶口を思わせる凶暴な姿をしていた。
巨狼はそれを無造作にマサアキの鼻腔にズブリと差し込んだ。マサアキの絶叫が響き渡った。
「イギィィィッ、ア"ア"ァ"ァ"ァ"ァ"ァァァーーーーー~~~~~~!」
鼻腔の内部粘膜をヤスリのような剛毛と爪に削り取られる凄まじい痛みが彼の副鼻腔の中を火柱のように駆け上がる。同時にマサアキの視界の中にバリバリと紫色の稲妻が奔った。それはやがて紫色の燐光を帯びた冷たい銀炎となって彼の記憶を焼き尽くした。たっぷりと十秒ほど経った後で巨狼は血塗れのヌラヌラと光る凶悪な小指をずるりと引き抜くとそのままマサアキの身体を宙に放り上げた。そして独楽のように回りながら落ちてきた彼の両耳の辺りを毛むくじゃらの巨大な両掌でパァンと挟み打った。
巨狼の掌とマサアキのこめかみの間で瞬時に圧縮された空気が彼の左右の耳孔にボォンと叩き込まれる。地面に落下してドサリと頽れたその耳孔から薄いピンク色の体液がじわりとこぼれだしていた。
「ソイ・ヅハ・光、 ゴイツハ・・音、 ソジテ・お前カラは・・・声ヲ奪ウ。」
一切の温かみを削ぎ落したような低い声が冷たく響いた。まるで刑の執行を宣告する刑吏の声そのものだった。犬伏の右手がズボンの後ろポケットにサッと伸びた。取り出したのはオレンジ色の棒状の物体。ポリアミド製のグリップから飛び出た金属製のでかいサムホールに親指をひっかける。一瞬で銀色に輝くハイカーボンスチールの刃が飛び出た。それは刃渡り10センチ、厚さ3ミリの重厚さを誇るビクトリノックス社製のフォールディングナイフであった。
それを使えばどんな社会的制裁が己の身に及ぶのかは分かっている。だが人体を紙細工の人形のように放り投げる身の丈二メートルの異形の化け物相手に手段を選ぶ余裕などなかった。
その時、巨狼の巌のような身体がするりと闇から抜け出すように前に出た。その巨体に似つかわしくない速くしなやかな動きだった。ヴォンと夜気を切り裂いて毛むくじゃらの剛腕が犬伏めがけて襲い掛かる。
ところが黒鉄のような五つの鉤爪は空を切った。間髪を置かず放たれたもう片方の腕による丸太の横殴りのような腕刀も外れた。三撃目はヒグマの後ろ足の如き巨大な足底による前蹴りであったが犬伏はそれも躱してのけた。極太の鐘突き棒の打突を思わせるその蹴りを躱しざまに彼は右腕をふるった。月光を撥ねた一条の銀閃が薄闇の中に弧を描いて奔る。巨狼の履いた特大サイズのサンダルの分厚いゴム底がすっぱりと切れて血しぶきが飛んだ。
「・・・・・ ! ・・・・・」
巨狼はいったん攻撃を止めると訝しそうに目を細めて犬伏を見た。まるで自分の攻撃がどこから来るのかをあらかじめ知っているかのような回避の動作だったからだ。特に素早くもなければ流れるような華麗な動きでもない。日常生活の動作を淡々と繰り返しているだけのような身ごなしだった。巨狼は知らないがそれはあの西校舎で小比鹿 朱里のモップの柄による打ち込みを躱したときと全く同じ動きであった。
「ソウカ・・俺ノ動ギ・ガ発スル念ヲ感ジデ……攻撃を躱シデイル・・ノカ?
ゾレトモ極近い未来予測ガ・・デキルノカ? アルイハ・ゾノ両方カ・・ドッヂニジテモ厄介ナ能力ダナ。」
「驚いたか? バアサンから教わった ”先見の術 ” てやつの応用だ。どんなフェイントをかけようがどんなに速いパンチや蹴りだろうが俺には関係ねえ。全部見切っちまえるんだからな。後はただ相手をボコるだけの話よ。だがおめえみたいな邪眼も効かねえ、身体も力も人間離れした怪物は話が別だ。だからあん時は逃げるしかなかった。逃げたところでもうおしまいだと覚悟していたがな。」
「・・・・・・・」
「ところがお前は俺らのことを警察に通報しなかった。何故か? それはそっちにも公になると困ることがあるってことじゃねえのか?
そのなりをみりゃあ大体分かるぜ。お前の正体が妖怪か、突然変異のUMAか、それとも宇宙人か知らねえがあんまり大っぴらには出来ねえだろうってな。だったら少々荒っぽい手を使っても構わねえってことだよなぁ。」
犬伏は手にしたナイフを月明かりに翳しながら残忍そうな薄笑いを頬に刷いて言った。
「コイツはよ、スイス製のハンティング Pro Mって名前の飛び出しナイフだ。大型で切れ味抜群、ちょっとした薪割りにも使えるってほど頑丈な代物だぜ。どんなにタフな奴でも身体中を切り刻まれちゃおしまいだろ。まぁ後が面倒だから殺しはしねえから安心しな。だが眼や耳の一つぐらいは覚悟しとくんだな。」




