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狼人と獄犬



マサアキは見てしまった。ベランダの柵に喰いついたその黒く凶々(まがまが)しい両掌を。それは人間の手ではない。かといって動物の手とも見えなかった。形そのものは人間のそれに近いが暗灰色の剛毛が密生していた。指先から生えているのは霊長類特有の扁爪ネイルではなく勾玉を埋め込んだような黒い鉤爪クロウであった。



「な、何だ? あれは・・・」



マサアキがそう思った次の瞬間、黒い怪鳥のような影がバサッと手摺てすりを越えてベランダの床に降り立った。どんな剛力の持ち主でも手摺てすりにぶら下がった状態から瞬時にそれを飛び越えることなど不可能だ。指先と手首の力だけで己の肉体を上方へ投げ上げることの出来る化け物じみた筋力の持ち主でもない限り・・・


羽毛がふわりと舞い落ちるかのように音もなくベランダに降り立ったのは白い半袖のカッターシャツを着た男子生徒だった。体格は中の上といったところだろうか。雲突くような巨体ではない。ボディビルダーのように鍛え上げられた筋肉の塊でもない。にもかかわらず窓ガラスの向こう側の空間に途方もない質量感がミチッと張りつめているような気がした。男子生徒は頭と肩の高さが全くブレない滑るような動きで教室の後方扉に近づくとその前に立った。


扉は犬伏が開けたままの状態で放置されていた。男子生徒はそこから教室の中にスゥッと入った。そのまま教室の最後部を横切り真ん中あたりでクルッと向きを変えると教室前方めがけて音もなく進む。まるでムーンウォークを逆再生したかのような異様な歩法だった。


その進路の途中には椅子に座った犬伏、床に跪かされた真鈴、その後ろのマサアキとジローが直線状に並んでいる。後ろ向きの犬伏、床を見つめる真鈴、彼女を押さえつけることに懸命のジローは侵入者の風のような接近に気が付いていなかった。


唯一それに気付いていたマサアキは総毛立った。侵入者の見た目はその身のこなし以上に異様かつ衝撃的であった。黒樫の丸太をつなぎ合わせたような強靭な筋骨、更に肘から下を暗灰色の剛毛に覆われた両腕、そしてその面貌は・・・・・



 『まさ・・か、満月町のダイダラボッチ! 助けを呼んだ相手とはコイツっすか!

クソォ、やっぱりこの女と繋がっていやがった。最悪じゃねえっすかぁ!』 




☆ ― ★ ― ☆ ― ★ ― ☆




犬伏 明雄はゆったりと椅子に腰かけて自分の前に跪いた少女をながめていた。小柄ながら均整の取れたプロポーション、しっとりとした色白の肌、適度に肉付きがよい肢体と愛らしい顔立ち。まさしく彼の好みのど真ん中を抉るような外見をしている。廊下側の後方扉近くの床に転がったままのもう一人のほうも引けを取らない美少女ではあるが自分の嗜好に合っているのは間違いなくこちらであった。


マサアキとジローに跪かされた少女の可憐な真っ白い膝小僧がスカートの裾から艶めかしく覗いている。今からこの少女の瑞々(みずみず)しい肉体を思うさま犯すのだと思うとドス黒い興奮がグツグツと煮立った油のように彼の胸の裡を激しく焼いた。

 ” 仰向けに押さえつけろ !” と言おうとしてマサアキの表情に奇妙な違和感を覚えた。マサアキの顔は恐怖に引きっていた。


何故だ? と思った次の瞬間それは起こった。自分の周りの景色が突然沈み始めたのだ。窓が 机が 椅子が流砂に飲み込まれるごとく沈んでいく。マサアキ、ジロー、そして少女二人も床とともに音もなく下へと吸い込まれていく。ゆっくりとしかし確実に彼を取り巻く世界がズブズブと沈み始めていた。



『な、何なんだ これは?・・・一体何が 何が起こっているんだ!』



驚き戸惑う彼の視界にやがて入ってきたものは頭上に大きく広がった白い壁・・教室の天井であった。ここで彼はやっと気がついた。周りが沈んだのではない、自分が浮かび上がったのだという事実に。これは誘導運動と呼ばれるもので自分の乗った電車が動き出したと思っていたら実は動いていたのは隣の電車だったという錯覚の一種であった。しかし天井の石膏ボードに接触した自分の頭が激しく引きずられる激痛は錯覚などではなかった。



「ぐっ! あっ痛ッ・・・ギィッッッ」



赤い頭髪が天井の石膏ボードをズリッズリッと擦る。その摩擦熱と圧力が生む耐え難い痛みから逃れようとして彼は椅子から転がり落ちるように床に飛び降りた。だが不完全な姿勢で着地したのは運悪く机の上だった。周りの椅子や机をガシャン、ガシャンとなぎ倒しながら床に転がった彼はどうにか身を起こすと周りを見回した。


でたらめに散らばった机と椅子、呆然と自分を見る二 人 の 舎 弟(ジローとマサアキ)と一人の少女まりん、離れた床に寝転がったままの女子生徒しゅり、教壇近くに放り出されたモップの柄。

そして最後に眼に映ったのは・・・・椅子を片手一本で頭上高く掲げた一人の男子生徒だった。



『 誰だ? どこから現れた? ア”ァン・・ひょっとしてさっきのふざけた現象は  コイツがやったのか?!』



犬伏は立ち上がって男子生徒に向き合った。じっと睨むように相手の顔を見つめる。男子生徒からは何の反応もない。それはこの男子が普通の生徒ではないことを示していた。地獄のふたの割れ目から吹きこぼれだす青白い鬼火のような彼の眼光を浴びて目をそらさない者はいない。名の通った不良グループのボスだろうが年季の入った筋モンだろうが強面のベテラン警官だろうが例外はなかった。


だがこの奇妙な侵入者は肌を焦がすようなようなその凄まじい眼光をそよ吹く風ほどにも感じていないようであった。 ” 気に入らねえ野郎だ ” と思った。

上背は自分より少し高い程度だがその姿形と雰囲気はどこか異様だ。虎を無理やりヤマネコの身体に押し込んだような不気味ないびつさが漂っていた。両腕の肘から下は細身の身体と不釣り合いな毛むくじゃらの剛腕が伸びている。



「 誰だ、てめえは?  それとその手はなんだ? 仮装コスチュームでもつけてや  がんのか? 」



その誰何すいかに対し男子生徒は差し上げた椅子を下ろして犬伏を見返した。まばらなメカクレの前髪から覗いているのは冷たい蒼灰色ブルーグレイの瞳だった。それは濃密な呪詛すら雲散するような鮮烈な精気を宿した眼であった。彼はその眼に見覚えがあった。



『こいつ確か以前、駅裏の路地で見かけた・・一体なんでここに? チッ、あん時と同じだ。なんもかも弾き返すような厭な眼をしてやがる。やっぱ、あん時に痛めつけときゃあよかったぜ。 仕方ねえ、今からやるかよ。』



彼が男子学生に向かって一歩踏み出そうとした時、誰かにぐっと引き戻された。マサアキが彼の腰に抱えついていた。



「犬伏さん、逃げましょう! じゃないとそろそろ人が来るかもしれないっす。ヤバイっすよ!」


「 逃げる? 逃げたところでこいつらがそろって訴えたら俺らはお終いだ。退学どころじゃすまねえ。鑑別所から年少送りは免れねえぞ。だからよ、女はって男は徹底的に痛めつける。本物の恐怖ってぇやつを骨の髄まで刻み込んでやるのさ。俺の言霊で縛ってな。ダメ押しに動画を撮ってバラ撒くぞってくびきをかけときゃ訴えたりは出来ねえよ。」


「今だったら不法侵入と傷害罪だけです。捕まっても未成年だし多分そう重い罪にはならないんじゃないっすか? それにこの場に残ってさえいなきゃ俺たちがやったって確実な証拠はないですよ。この界隈じゃ赤髪の不良なんて掃いて捨てるほどいるっすから。」


「マサアキ、お前俺の言葉聞いてなかったのかよ? ま、いいぜ。とりあえずこの糞むかつく野郎をブッチめてから考えるわ。ちょっと待ってな。」



ところがマサアキはもっと激しい力で必死に犬伏を引き戻そうとしてきた。まるで彼が男子生徒に殴りかかるのを恐れているかのようであった。



「マサアキ! てめぇ ふざけてんのか! その手を放しやがれ!」


「ダメっす。犬伏さん! コイツは・・コイツがあの満月町のダイダラボッチなんですよ!」


「満月町のダイダラボッチだぁ? そいつは確か2メートル近い大男だって話じゃなかったのか? コイツはどう見たって170センチ後半ぐらいの身長だぞ。だいたいその話自体が都市伝説みたいなもんだろうが。そんないい加減な作り話にビビッてどうすんだよ!」


「作り話なんかじゃないっす! 本当ッス! 俺、前に仲間がこいつにやられたとこを見てるんです。さっき犬伏さんを椅子ごと持ち上げて天井に押し当てながら引きずり回したのはコイツなんです! 椅子の脚一本を片手で握っただけでそれをやってのけたんすよ! こんな化け物、逃げるしかないっすよ!」



マサアキにそう言われて犬伏は再度、男子学生に眼をやった。無機質な表情と冷たい灰色の瞳からは何の感情も読み取れない。だがその彫像の如き表情がごくわずかに揺らいだ。口端がかすかに持ち上がって微小なうねりを形作ったのだ。


コイツ今・・笑いやがったのか? 

何気なく見ていたなら見逃しそうな表情の微細なほころび・・・だがそれは紛れもない嘲笑であった。ゴウッと息を吐くように彼は叫んだ。



「てめぇ! 何が可笑しいんだ!」



犬伏の激昂に呼応するように男子学生が声を発した。



「ヴッヂメル・・逃ゲル・・・? ドッヂも無理ダナ。 ヤッダ事の報い・ヲ・・チャンと受ゲ‥な・・イト 」



獣の唸り声のような千切れかかった人語が響いた。薄く積もったあざけりの下に怖い何かが深く潜んでいるような声であった。



「誰なんだ? お前は! 何のつもりで入って来やがった?!」


「俺ノ名ハ‥真神 巨狼(マカミ ゴロウ) ソコノ二人のクラ‥ズメートさ。悪イ魔法使いガら‥お姫様ヲ救イに来タ騎士・・ダゼ。 」



睨み合う二人の周囲で大気がギィンと音を立てて硬質化したような気がした。




☆ ― ★ ― ☆ ― ★ ― ☆




先に動いたのは犬伏だった。大きく両手を広げて掌をパァンと打ち合わせる。鋭い空気の破裂音が引き起こすコンマ数秒の意識のかく乱。そのごくわずかなタイムラグに乗じて影のように踏み込み強力な蹴りを巨狼ごろうの腹に叩き込んだ。だがその結果、 ” ガァッ ” という苦悶の唸り声を発して跳ね飛んだのも犬伏だった。


まるで分厚いコンクリートの壁を蹴ったような気がした。強烈な反動で身体が後ろにのけぞる。激痛がつま先から股関節までをズンと走り抜けた。重い衝撃に痺れた蹴り足を引きずりながら後ろ向きにたたらを踏んで必死に相手から離れた。



『か、かてぇ! それになんて重さだ。まるで岩じゃねえか!』



マカミ ゴロウと名乗った男子生徒はさっきと同じ位置に同じ姿勢で立っていた。自分の蹴りを喰らったことなど無かったような様子であった。だがまともに腹部を蹴られてなんのダメージも受けない奴などいない。まして認知の隙間をすり抜けて打ち込んだ攻撃だ。精神的にも多大なダメージがあったはずだった。どうにかして痛みをごまかしているに違いないと思った。


しかし犬伏の推測は外れていた。マカミ ゴロウは彼に向かってニィッと歯を見せて笑ったのだ。先ほどの針で引っ搔いたようなあるかなしかの嘲笑ではない。今度は明らかにそれとわかる嘲りを込めた挑発であった。犬伏ははらわたが煮えくり返るような怒りを歯を食いしばってこらえた。



『どうやらマサアキの話は本当みてえだ。まともにやりあったら数人がかりでも勝ち目はねえかもな。だがタイマン勝負で俺が負けることはありえねえ。どんなに力が強かろうが素早かろうが邪眼と言霊縛りで身体と心を動けなくすりゃあいいだけだ。』



そう考えた彼は慎重にじわりじわりと間を詰めた。言霊を飛ばすのに充分だと思われる位置に来た時、彼は巨狼ゴロウに向けて言霊縛りの術を発した。声帯から発生する空気の振動に練り込んだ念を乗せて相手に当てる。相手の外耳から鼓膜、内耳を経て脳へと伝えられた念は強力な暗示となって本人の意思を阻害し行動機能を奪う。これが言霊縛りの術の正体であった。



〈 動くな! 〉


〈 動くな! 〉


〈 動くな! 〉



いきなり三重掛けの縛りをかけた。といって縛りの強さが三倍になるわけではない。せいぜい二割から三割増しが限度であろう。縛りの時間を延ばすなら連続掛けはあまり意味がない。時間差を置いてかけたほうが効果的だ。わかってはいるがそうせずにはいられないほどに不吉な予感がする相手であった。


巨狼は前髪に隠れた灰色の眼を訝しそうに細めた。身体中の筋肉と腱が異様に強張っている。鼻面に皺を寄せて喉の奥から低い唸り声のような呻きが漏れ出していた。上唇がめくれあがって覗いた鋭い犬歯がギリッと音を立てた。突如、己の身に起こった不可解な麻痺に戸惑っているようであった。その様子を見た犬伏はクックックと面白そうに笑った。陰惨な笑い声だった。



「どうだ、驚いたか? これが悪い魔法使いの力ってやつだ。どんな力自慢の騎士様だろうと動けなきゃどうにもならねえわな。今からお姫様の目の前で徹底的にボコり抜いてやるからよ。ハッ、そのクソ硬い頑丈な身体がいつまで持つか楽しみだぜ。

てめえが床に這いつくばって泣きながら許しを請うまでやめねえからな。」



そう言い放ちざまに彼は巨狼めがけて突進した。1メートル手前で床を蹴って宙を飛んだ。そのまま慣性力と体重を乗せたパンチを相手の顔面目掛けて思いっ切りたたき込んだ・・筈だった。だが振り抜いた拳には何の感触もなかった。

突然、真っ黒い何かが視界を覆った。ドスン! という衝撃音とともに肉厚なゴムパッドのようなザラついた触感が彼の顔面を押し潰した。その後は短い浮遊感のみがあった。やがてトラックにはねられたような凄まじい衝撃が背中と後頭部に炸裂した。飛びかけた意識の片隅で彼は必死に自分自身に言霊を掛けた。



〈 目覚めろ! 〉


〈 目覚めろ! 〉


〈 目覚めろ! 〉



暗い闇の淵に沈みかけた意識が白い泡沫のように浮かび上がってくる。濁った闇が澄んだモノクロームの世界になりやがて色のついた視界が戻ってきた。背中と後頭部の鈍痛に耐えながらどうにか立ち上がって前を見る。そこには右掌を前に突き出した状態のゴロウが立っていた。


その距離約七メートル強・・・・・何故だ?

近距離から殴りかかったはずなのに何故こんな位置に俺はいるんだ? 

この背中に当たる硬い壁のようなものは何だ? ・・・ハァッ、黒板だと?

そしてゴロウの右掌を覆う蒼黒い肉球らしきものが目に入った時、彼は何が起こったのかを理解した。


ゴロウの顔めがけて打ち込んだ拳はあっさり躱された。そのままゴツい耐震動グローブのような掌で顔面を掴まれて前方に投げ戻された。いぬぶしの身体はカウンターを喰らったかのように宙を飛んで黒板に衝突した。教室の三分の二を優に超える距離を飛び越えて・・・・・ マジもんの化け物かよ・・


祖母から教えられた照魔鏡のわざ持ちとは生まれつきしゅに対して抵抗力の高い人間が稀にいるというレベルの話であった。だがコイツはしゅに対して抵抗力が高いどころの話ではない。自分の三重掛けの言霊を薄紙のごとく引き千切ってしまう人間がいるとは思ってもみなかった。



「おい、お前ら! 撤退だ、急げ!」



呆然としたマサアキとジローにそう怒鳴り声をかけて犬伏は教室の前方出口から廊下に飛び出した。一呼吸遅れて彼ら二人も弾かれたように教室を飛び出してその後を追った。犬伏が率いる " 地獄の猟犬(ヘルハウンド) " は小所帯の不良グループである。当然、何かトラブルがあっても頼りになる後ろ盾はない。おまけに周りは警察、地廻り、暴走族、他の不良グループとやっかいな敵ばかりだ。そんな中で毎日のように修羅場をかいくぐっていればおのずと危険に対する回避能力も研ぎ澄まされてくる。どうしようもないクズの不良共ながら退き際の素早さは見事なものがあった。



犬伏達が逃げ去った後の教室には白兎尾 真鈴、小比鹿 朱里、そして真神 巨狼の三人が残っていた。巨狼は床に膝を突いたままの真鈴に近づくと手を差し出した。剛毛も鉤爪も肉球も無いつるりとした滑らかな手だった。綺麗にそろえられた白く長い指が彼女の目の前に浮かんでいた。その手を掴んで立ち上がると真鈴は巨狼の眼を見詰めながら言った。



「ホントに来てくれたんだ・・・あたしのしもべになったんだ。」



少年は額に皺をよせ唇を尖らせた不服そうな顔で答えた。



「ハッ、そりゃあんだけしつこく呼ばれたら関係ねえ通りすがりの人間でもやって来るだろうよ!」


「え・・あ、いや そうだったかしら…ね? 」



中央校舎を飛び出してこの西校舎までソロモンの指輪の笛を吹き続けながら全力疾走していたことを思い出して真鈴の声は尻すぼみになった。



「そうだったかしらじゃねえよ。前にあの笛を吹いた時は澄んだ寂しそうな音色だと思ったけどな。ありゃ撤回するわ。ホイッスルみたいな甲高い超音波を延々と聞かされてみろ。脳が煮立ちそうだったわ。俺はコウモリかよ‥全く。

まぁ必死な状況らしい、てのはよくわかったけどな。」



そう、その時はただ必死だった。何故かごろうを呼ばないとと思った。



『 窮地に陥った時、指輪の吹き口を吹けば救いの手が来てくれる。 』


『 彼をあなたの僕にする。 』



という浦島 希海(うらしま のぞみ)の話を百パーセント信用していたわけではない。あの凶悪な赤髪の男に朱里が襲われるというような事態が本当に起きていると確信していたわけでさえなかった。だが現実にそれは起こっていて実際にごろうは助けに来てくれた。おかげで朱里は無事に・・・え、アッ! そうだ、朱里!


真鈴は慌てて親友しゅりのもとへと駆け寄った。朱里は床から半身を起こして宙空を見詰めていた。半分眠っているかのような虚ろな眼をしている。犬伏達による不同意性交未遂や言霊による身体の麻痺等のショックによって明識困難状態に陥っているのかもしれなかった。真鈴は彼女の両肩を揺すって話しかけた。



「朱里! 大丈夫? しっかりして。」


「・・・まり…ん?  真鈴! あ、あいつらは?」


「もうあいつらはいないわ。真神君が追い払ったよ。」


「真神君? 真神君がどうしてここに? 追い払ったって・・一体どうやって?」



犬伏の掛けた強力な言霊縛りのせいで寝返りどころか首をめぐらすことすらできなかったのであろう。この教室で先ほどまで起こっていたことを彼女は殆ど知らなかった。真鈴はハンカチで彼女の鼻血をそっとふき取り腫れあがった頬と切れた唇を優しく撫でた。そのまま立ち上がらそうとしたが痺れて萎えた朱里の脚は上手く立つことが出来なかった。


すると巨狼が手を伸ばして朱里の両肩をぎゅっと掴んだ。FRP製の人形マネキンであるかの如く彼女しゅりの身体を軽々と宙に廻し投げる。独楽コマのように回転しながら落ちてきた朱里のその両肩を再び空中でキャッチしてメリーゴーランドのように振り回しながらゆっくり降ろしていく。最後に遠心力の残滓で飛ばされないように彼女の手を握り腰に手を添えてトンッと着地させた。ジルバのアンダーアームスピンを見るかのような華麗なターンだった。


朱里はうっとりとした表情で彼の顔を見詰めていた。真鈴が巨狼の手から朱里を奪い取るように引き離した。二人の少女はどちらからともなくハグし合った。そしてしばらく泣いた。やがて泣き終えた二人が辺りを見回したとき少年の姿はどこにもなかった。でたらめにひっくり返った机と椅子が床一面に広がっているだけだった。



「これ・・・あたしたち二人で片付けろってこと?」


「そう・・みたいね。」


「フーン…どこが私のしもべなのよ? もう小一時間ほど思いっ切り指輪を吹いてやろうかしら!?」





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