十三、絶体絶命のなかで
図書館で私に声をかけてきたのは、渡り廊下で隠されていたあの声の主だ。
それで私は彼に脅えたのではない。
私は彼に見覚えがあるし、知っていたのだ。
三年前に宗教回帰を唱えたクーデターを起こしたが、失敗して行方不明になった、あの恐ろしい軍部の大物、指名手配犯の、オットー・アエミリアだと!!
だって、八歳年上の兄と従兄が、私の部屋に手配書をベタベタ張って、絶対にこのおじさんから飴を貰っちゃいけないよって、私を揶揄って遊んだんだもの。
だから嫌でも覚えてしまった。
アイゼンシュタイン王国から失われた信仰心を取り戻し、王族ではなく神そのもの、王族が排斥した古来の神に祈って魔力を取り戻すべき、とアエミリアが唱えていたことも。
エルバインスト会。
本物の悪魔信仰の会、だった?
「ほう。小娘の癖に私をちゃんと知っているとは」
しまった。
ここは、どなたなの?と、私は小首を傾げるべきだった。
「お兄ちゃんず、恨むわよ!!」
心の声はちゃんと私の口から吐き出されていた。
そしてそれが良かったのか、アエミリアは目を真ん丸にして驚いた顔付を作って、私を威圧する圧が消えた。
逃げるなら今だわ。
私は、騙された!と叫びながら走り出そうとしたが、私の近くにいた人はアエミリアだけでなかったようだ。
「逃がすか。お前はヴェルナーのいい餌になる」
私を羽交い絞めにしてしまったのは、渡り廊下の金髪碧眼。
遠目では小太りなだけだったが、近くで見れば、思春期特有のクレーターになりかけたニキビだらけの赤ら顔だ。
息も臭いし。
それで私は必要以上に必死な声を上げていた。
「放して!!」
「そうだ、叫べ!!逃げたネズミ野郎が出てくるかもしれないからな!!」
「よくやった。ブルーノ。そいつは銀狐を呼ぶ良い餌でもある。決して逃すな」
「はい!!」
「放しなさい。この無礼者ども!!私をミルツ伯爵家の者だと知っての上のこれですか?家族がどうなってもよろしいの?」
子爵家出身のアエミリアは左目のはじをピクリと神経質そうに痙攣させ、私を締め上げる男はさらに私を捕まえる腕に力を込めた。
失言?
だって、兄様も従兄も、何かあったらまず伯爵家の名前を言えって私に教えたのよ。
でもってその後は、僕達が気兼ねなく潰すから心配ない?
「あ!!やっぱりお兄様達に騙されていた!!ぜんぜん抑止力じゃない」
「煩いな。お前もただの女だったんだな。氷姫なんて呼ばれて気取っていたが、普通にきゃあきゃあ騒ぐただの女じゃないか。ハハハ、怖すぎて気取ってなんかいられないか?」
「お黙りなさい!!あなたがこの学園の生徒である以上、絶対に名前を突き止めて、生きていることを後悔するぐらいの仕返しをしてみせます。それでも構わないならお続けなさいな」
「この!!」
男はさらに私を締め上げたが、私を締め上げようと腕を上げ過ぎた。
私は悪戯ばかりの兄達の洗礼を受けている。
「良いかな。力を弱めて相手の思うつぼに動くんだ。すると相手も力を弱める。人間の関節可動域は決まっているからね、相手もきつくなったら力が弱まるからと持ち替えようとする。人質が暴れ無くなった時が替え時だろうね」
お医者さんごっこを妹にする兄ではなく、警察官ごっこをする兄で良かった。
私は男の腕から、今だ!!という風にするっと抜け出す。
「うわ、嘘。このクソが!!」
急いで動かないと、また捕まえられちゃう!!
がつっ。
私は鈍い打撃音に逃げるどころか身を庇って丸まった。
でも、どこも痛くない?
でも、私は後ろから捕まえられて引き上げられた。
目の前のアエミリアは、良い見世物が見れたという顔だ。
何が、起きた?
私を立たせ直した腕は、私を羽交い絞めでは無いが、今度こそ私を逃さないように私の体に絡みついた。
私は逃げるどころか、私を抱く腕に自分の両手をそっと添える。
「こいつは俺のものだ。気安く触るんじゃないよ」
「ああ。君に免じて触らないさ」
「では、こいつは外に出してくれ」
「残念だな。私達が彼女に触れないのは、君が生きている間だけだ。そして、君が暴れないのであれば、私達は彼女に酷い事はしないよ?」
「――ごめんなさい」
「アディ」
「ごめんなさい。私のせいであなたを危険にしてしまった!!独りよがりをいい加減にしろってあなたが手紙に書きたくなるわけだわ!!」
「ちょっと待って。俺はそういう意味で書いたんじゃなくて。おいちょっと。君の読解力はどうなってるの?俺の手紙をちゃんと読んでのそれなのか?」
「読んだわよ!!あなたこそ文章構成力がどうなのよ!!君のひとりよがりの行動には辟易している。いい加減にしてくれないかって。それしか書いていない手紙をどうやって他に理解するの?」
「ちょっと待って、ちょっと待って」
「何を待ってよ!!それでべルティーナに手紙を見せたの!!そしたらあなたが命懸けで何かしているって言うから、だから、邪魔をしようかって。あなたが死んじゃうよりも、あなたに嫌われて続けても、あなたが生きていてくれた方が私は嬉しいから、だから、でも、こんな邪魔をしたかったわけじゃない!!」
私を抱く腕は私をさらに抱きしめ、自分の胸板に私を押しつけた。
私の頭の右側に、ヴェルナーの顔がくっついた。
そして彼は囁いた。
揶揄うどころか、初めて聞いたような優しい声で。
「とりあえず、君はここにいる。俺達はそれで良いってことにしよう」