しわ
いつか来るって聞かされていたタイムリミットは、眠っている間に通り過ぎてた。一本の線。破られたゴールテープ。止まれない戻れない。上り坂の、終わり。
線。いいえ、
しわ。
しわができた。
検索したら「ゴルゴライン」という恐ろしい名前がついていて、少し泣いちゃった。
嘘。半分意図して、泣いた。生きているだけで溜まっていく心の澱をすすぐために、定期的に涙を流すことにしている。ストレスホルモンの排泄。人前で泣くのが屈辱なのは、あれが死ぬほど不本意な「おもらし」だからだと思う。私は涙を武器にしたことも、そうできると思ったこともない。
父さん母さんありがとう、先生皆お元気で。
ずっと留年してたけど
今日、私は、女の子を卒業します。
楽しかった、スイーツビュッフェ!
いちおうやってみた、リムジン女子会!
皆で行った、千葉!滋賀!佐賀!
いつも心は自我肥大!
とうとうもらえなかった、レディディオール。
いつか連れて行ってほしかった、リッツカールトン。
さようなら、さようなら。白馬の王子様。ありもしない幸せ。
今日、私は、女の子を卒業します。
セーラー服はとっくに脱いで、燃えるゴミの日に出しちゃった。
売ったら幾らになっただろ。女子アナになったクラスメイトの写真付けて。
ジェラピケ、小馬鹿にしてたけど着とけばよかったかな。髪巻いて、薄化粧なんかして。ハタチなんか何着たって可愛いよ。
愉快な脳内卒業式を繰り広げて現実逃避しながらペンギン印のビルに駆け込む。
買い物かごにレチノール入りの高級アイクリームを突っ込んで、ついでに気になる酒を全て放り込む。金ならある。師走というのに予定もなくて、夜勤残業休日出勤を一手に引き受けた私の財布に死角はない。
「しわ記念日」で「卒業式」。やってやろうじゃないか、お嬢ちゃんにはできない楽しみを。色とりどりの地ビール黒ビール海外産フルーツビール、陽キャが騒ぐためだけにあるケミカルな小瓶全種、どろりとジャムみたいな果実の沈むおやつ果実酒、クサいの向こう側にウマいがあるトラディショナルな日本酒、安心安定のストロングなゼロ、しゅわしゅわ感が楽しいパステルカラーの缶マッコリ全種類、ミニサイズのシャンパン、ロゼ、赤、オレンジ、え、ブルー?買っちゃう。粒がごろごろ残ったどぶろく極甘口、問答無用で買い。自力で籠が持ち上がるか確かめつつ、つまみを選びながら、昔見た映画を思い出す。主人公の少年が、初めて得た大金でお菓子を大人買いするシーン。
「ぜーんぶ、ちょうだい!」
少年の目が光る。
生まれて初めての自由が、輝いている。
絶対に飲み切れない、だがそれでいい、それがいい。飲み切れない美酒でたった一人のテーブルを飾り立てたい。私の私による私のための自分本位なパーティーがしたい。私が私を幸せにする夜が欲しい。
帰宅。遠隔操作でエアコンを付けておいたほかほかの部屋。オフィシャルな私を脱ぐ。脱皮、と心の中で呟く。会社員の抜け殻を洗濯機にダンクシュートし即シャワー、身体が冷える前にいそいそと毛布素材の部屋着に着替える。
サイドテーブルに購入した酒を並べていく。
ケミカルにカラフルな酒たちは古い眼鏡越しにフワフワぼやけて、頭悪めのきらきらしさに、なんとなくワクワクする。酒のエレクトリカルパレードやぁ と突如脳内に現れた食レポ芸人を追いやる。
ベッドに滑り込んでたった一人の乾杯。暗転!!!
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嘘みたいにスッキリと目が覚める。
スマホを確認する。
……午前4時過ぎ。
大人になるたび、飲み始めてから寝入るまでの時間が短くなって、最近はいつでも寝られる環境が整っていると1、2杯でいい子のご就寝をしてしまう。
昨日もあれだけ勇んで買い物したくせに、かなりいい子にしていたようで笑ってしまう。
飲み切れなかった酒を冷蔵庫にしまい、おつまみのゴミを捨てる。
激辛七味で和えた塩辛。チーズの三種盛り。
高級ぬか漬けのビニール袋は思いのほかずしりと重い。いちおう袋を揉んで確認するが、漬物はすでに食べ尽くしてあった。
太ったハムスター1匹分くらいの重さの、高級ぬか。
698円、たす、消費税、引く、野菜の値段……
頭が勝手に計算を始める。
……ジップロックあったかな。
運よく余っていたジップロックに高級ぬかを移す。
冷蔵庫の隅でかろうじて生きていたかわいそうな野菜たちを差し込んでみる。ついでに余らせていたクリームチーズも、隙間に埋めていく。
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ルッキズム死ねと思いながら、それでも「年れいの出やすい目元に」と書かれたクリームを塗る。30代からは自由で楽しいという雑誌の中の女優に欺瞞を感じつつ半ば無理矢理安心しながら、いいかんじの男に「かわいい」扱いされると結局ホイホイ浮足立ってしまうと思う。
きっとそのまま、生きていくのだと思う。
中指立てきれない私のままで、生きていくのだと思う。
朝起きる。
顔を洗う。
アイクリームを塗る。
念入りに手を洗って、ぬか床に手を突っ込む。
あれから、ぬかを買って、足した。
太ったハムスターほどのぬか床は、今は仔猫くらいになった。
ぬかの菌も増やしてあげた。
ぬかを美味しくする菌を持つ食べ物を調べて、混ぜ込むのだ。餌をあげるみたいだと思った。ぬか床は何でも食べた。
キムチの汁も、ヤクルトも、ラブレ菌のサプリメントも混ぜた。
新しい餌をあげる度、ぬかは新鮮に、美味しくなった。
ぬか床は生きている。ほんのりと温かい。菌が息づいている。
下から掘り起こすように混ぜる。空気で菌を起こしてあげる。
ぺたり、ぺたり、ぬちゃり。
塩分と、ぬかの香ばしいような匂いがふうわりと立ち上る。
菌が起きてきた。
おはよう、と、小さく声に出す。
ひとり、である。
もうすぐ、30歳になる。