他主占有
「落ち着いたかしら」
本田さんがペットボトル片手に話しかけてきた。お茶を飲んでいたはずがいつのまにかミネラルウォーターにかわっている。よく水分補給をする人だ。まあ、あれだけペラペラと口を動かしていれば、のどが渇くのも当然かもしれない。
「はい、もう大丈夫です」
メモをポケットにしまい返答する。
「じゃあ、さっきの続きからいくわね」
本田さんは多少話の筋がずれてもわかりやすいところから順々に説明していくという話し方をする。聞いている側としてはわかりやすいが、後からメモを見返したときに、一目で全体像がつかみづらい。だから、それをもういちど整理しなおす作業が必要になる。その整理しなおした順で説明すると、ここからの話は、つまり以下のようなことだった。
本田さんは六王橋に自殺しにきた人に自分の人生観を語っている。人生は誰に与えられたものでもなく、そして自分自身にその所有権があって、処分以外の管理は自由にできる、との考えを伝えることで、一部の人間の自殺を止めることができる。救うことができる。少なくとも彼女はそう信じている。
なぜか。まず六王橋に自殺しに来る人間は、自分には生きている価値がないとか、他人から必要とされないから自分の存在意義が感じられないとか、そういう理由で来るものが多い。心に闇を抱えた、そんな人間である。借金まみれとか、色恋沙汰とかでやってくることはまずない。彼らはここの不気味な雰囲気の手助けなどなくとも、死んでゆける。
さて、自分の価値に悩み死のうとする人間は、総じて自分の人生を自分自身が所有しているという観点を欠いている。他人から認められて初めて生きていてよくなるような錯覚にとらわれている。これは全く所有ではない。他人から腕時計を預かってくれと言われて初めて腕時計を身に着けられるような、そんな感覚。本田さんは彼らをこの錯覚から解放しようとしているのだ。
ところが神を信望する者にはこの考えは最後のところで響かない。救えない。人生が与えられたものだという考えを捨てられないからだ。
他人から認められなくても、自分の所有物なのだから人生を生き続けていてよい、というところまでは理解してくれる。だが彼らは、自分の生き方は、人生を与えてくれた神の意思に反する、だから、自分が生きていていいはずはない、と考えてしまう。
こうなると、彼女にできるのは、彼らが信望する任意の神の御加護を祈ることくらいなのだ。最後の瞬間の苦痛をできるだけ和らげてくださいますようにと。