勧誘の女
座っていたのは女性。年は40手前くらいだろうか。
「こういうの、興味ないかしら」
女性は何やらビラのようなものを突き出してきた。そこには「六王橋いのちの会」の文字。自殺をとめるカウンセラー集団かなにかだろうか。こういうのには、かかわらないほうがいい。
「すみません、いそいでいるので」
「死ぬ前に話を聞くくらい、いいじゃないの」
「なんのことでしょうか」
「こんな時間にここに来る人は、自殺目的にきまっているわ」
「止めようというんですか」
「自殺をやめなさいなんて言うつもりはありません。お話をきいてもらうだけ」
こういうのには、かかわらないほうがいいけれど、こういうのと言い合いをするのはもっとやめたほうがいい。話を聞くだけで満足するのなら、死ぬ前のすこしの時間くらいわけてやってもいいかもしれない。
「わかりました。聞くだけなら」
「ありがとう。なにか飲むかしら」
といって女性はひざ元のカバンをあさり始めた。僕は結構ですよと言ったのだが、彼女は麦茶のペットボトルを手渡してきた。ありがとうございますといって一応うけとり、口をつけた。何かくやしいけれど、走った後の体は、冷たい液体が入ってくるのを喜んでいる。
「あの、ところで、お話ってなんでしょう」
しまった。ついこちらから話しかけてしまった。
「私は本田といいます。やっていることは...そうね、宗教勧誘みたいなものかしら」
女性は少し姿勢をなおして答えた。外灯にぼんやり照らされた女性の顔は、しわは少々目立つけれど、美しいといってさしつかえないという感じ。目はまっすぐ、迷いなくこちらを見ている。まさに宗教をやっている女という感じ。
「宗教ですか...」
その言葉をきいて、数か月前に催された大学の講演を思い出した。カルトに注意、とかそういう内容だったと思う。カルトは、居場所を求めている人間の心の隙につけこんで、生活を支配してくる。抜けたくなっても、抜けられなくなる。だから、そういうのにハマる前に、悩みは友達に相談すること。というようなことを、教わった記憶がある。友達のいない人間はどうすればいいんでしょう、わら。
「あなたは、神様って信じるかしら」
女性はお決まりのフレーズをぶつけてきた。
「まあ、いないことも、ないんじゃないですか」
当たり障りのない返答をする。いないと即答しても、どうせこの手の人間は人類の誕生がどうだとかを持ち出して、神は存在するという方向に話をもっていくに決まっているのだ。
「どうして、そう思うの」
「いやまあ、なんていうんだろ。すべてをゼロからつくりだした、人知を超えた存在がいると仮定しないと、いろいろ説明がつかないんじゃないですかね」
先ほどの返答と齟齬がないように、どこかで聞いたような論理を頭からひっぱりだす。
「じゃああなたはその存在に、きちんと感謝をしているのかしら」
「はい?」
「あなたを創造してくれた存在に、感謝を」
イライラしてきた。入信しろとはっきり言えばいいのに。おそらく、正しい感謝の仕方を教えますとかなんとか言って、金を巻き上げようという魂胆だろう。真夜中に顔の悪くない女に一人で勧誘させているのは、色香を使った戦略だろうか。
心に決めた自殺を、うすぎたない人間に邪魔されたというイラつき。これを解消しないまま死ぬのはどうも気に食わない。この女にぶつけてやろう。
僕は息をすいこんだ。