自殺
例えばあなたが、家を持っているとする。その所有権は、いつどんなとき失われるだろうか。まず、家が火事か何かで滅失すれば失われる。ただそれ以外にも、家を売却したり、贈与したりといった、処分行為をしたときにも失われるだろう。
人生はどうか。「生きる権利」は。その権利が失われるのは、いつか。死という、生命の滅失とともにしか、ありえないのである。人生を誰かに売却するとか、贈与するとかいうことは、できない。だから、生きる権利を放棄したいと考える者は、生命の滅失をめざすほかないのである。恐怖という感情と戦いながら…
突然、嫌になった。夢も目標もなく生命を維持し続けるのが。居場所がない。必要とされていない。生きる意味がわからない。それだけで、自らの生命を終わらせる決意をするには十分だった。
深夜、アパートの自室をしずかに出る。遺書はのこしていない。ただ波風を立てないでこの世からいなくなりたかった。
夜の住宅街はひっそりとして静かだ。けれどそれは、僕の最後の決意を邪魔する者が誰もいないことを暗示しているようで、どこか心地よかった。どこで死のうかと考えながら、僕は歩みを進めた。といってもはじめから決まっていたようなものだけど。
怖い…
ふっと沸き起こる妙な感情。
怖い…怖い…怖い怖い怖い!!
死のうと決意したのは、僕の心のぜんぶじゃない。心のすみっこのほんの一部分が、この期に及んで、恐怖という感情を盾に、心の多数決を覆そうと試みている。
そんな声には耳を傾けてたまるかと、僕は一気に走り出した。肉体を動かすことに集中すれば恐怖など消えると思ったのだ。だのに一向に消えない。恐怖を忘れるために意識的に走っているはずだったのに、途中からは恐怖に追われて逃走しているような気にまでなってきた。
うわああああああ!!!!!
静かな住宅街に雄叫びが響く。大声を出せば恐怖はかき消されるのではと期待を寄せながら、僕は喚き、走り続けた。
六王橋についた。ここは自殺の名所として知られており、毎年10人弱が身を投げるとか。僕もなんとなくここを選ぼうと思っていた。ここまでずっと走ってきたため、息が上がっている。呼吸を整えながら歩道を歩き出した。
橋は自殺の名所との評価にふさわしいくらい、不気味な雰囲気を醸し出している。街灯は消えかけで、柵には破れかけの自殺防止ポスター。鉄骨に塗られたピンク色のペンキはところどころはげかかっている。
橋のちょうど中央のあたりに、休憩スペースのようなものがあった。歩道が一部外側にでっぱっていて、ベンチが2つほど設置されている。ちょっと腰掛けて、最後の決意を固めようかと歩みを進めた瞬間、
「ちょっとお兄さん」
ベンチには先客がいたようである。