1 事故現場の幽霊
男がこちらを見ていた。長袖の黒いTシャツに、ジーンズをはいている。歳の頃は十八か十九か。免許を取って間もないといったくらいだろう。
行き交う車の間から、こちらに視線を送っている。
車の往来の激しい道である。特に朝や夕方は、多くの車が次々に走っていく。こうしている間にも、結構な数の車が目の前を通り過ぎていった。陽は傾いて、西の空は鮮やかな茜色に染まっていた。白いガードレールにも茜色が映りこんでいて、美しかった。
そのガードレールのところに男は佇んでいた。無表情に、ただひたすらこちらを見ている。男の立っているガードレールの脇には、花がいくつも供えられていた。
男はなぜそこに自分がいるのか、わかっていない。きっと自分の身に起きたことが理解できていないのだろう。
僕はこんなとき、どうしたらいいのかわからなくなる。男はきっと誰も気づいてくれないなか、唯一自分の存在を認めてくれる僕に、救いを求めているのだと思う。けれど、どうすることが救いとなるのだろう。死んだことを理解させてあげることが、救いとなるのだろうか。もうここに、彼の居場所はないんだと教えることで、彼は救われるのだろうか。
男はなおも車道を挟んだ向かい側にいる僕に、じっと訴えるような眼差しを送っている。
――自分はどうしてここにいるんだ。なんのために。
そんな男の念のようなものが感じられた。だが、僕にもそんなことはわからない。
信号が青に変わり、僕は自転車を押しながら横断歩道を渡った。そして、その男に近づいていった。
事故があったのは、つい最近のことだった。そのとき僕自身はその場には居合わせなかったが、かなり大きな事故だったらしい。乗用車のフロントガラスは大きくひび割れ、その反対車線のほうには、横倒しになったバイクと血まみれになった男が倒れていた。そう近所の人が話していた。
「あなたは死んだんですよ」
僕は自転車のスタンドを立てると、静かにそう言った。男は首を傾げた。やはり理解できずにいるようだ。
「事故だったんです。くわしい状況は知りませんが、車と激しく衝突して、あなたはまもなく亡くなった」
男は他人のことのように、それを聞いていた。否、聞こえてさえいたのかどうか。
「僕にはなにもできません。ただ言えるのは、あなたの居場所はもうここではないと言うことだけです」
僕はその場でしゃがみ込み、供せられている花の前で手を合わせた。弔うなんて大仰なことではない。ただそうするより他に、自分にできることなどなかった。
ただ視えるだけなのだ。視えたからといって、なにかができるわけでもない。死者を救うなんてできるはずもない。そういうのは、きっと偉いお坊さんや神父さんの仕事だ。
僕にできることはただ、残酷な事実を伝えることくらい。死の事実を伝えるくらいなら、黙っていたほうがいいのではないか。なにも知らないままでいたほうが、幸せなのではないかと考えたこともある。けれど、死者は僕に訴えかけるのだ。
――教えてくれ。どうして自分はここにいるのか、と。
僕は立ちあがると自転車に乗り込み、すぐにその場を去った。
男はまだそこに居続けるだろう。自分の死を理解し、向き合い、受け入れる。そう簡単にできることではない。きっと、あんなふうに突然死んでしまったのならなおさら。
僕は自転車のハンドルを、ぐっと握りしめた。
こんな力なら、ないほうがよかった。どうせなら、もっと違う力が欲しかった。誰かの役に立てるような、そんな力が。
帰宅すると、母さんにも声をかけずに、足早に二階の自分の部屋へとあがっていった。日が暮れ、部屋はすでに闇の中だったが、電灯をつけることすらせず、僕は自分のベッドに倒れ込んだ。
なんだか疲れてしまった。このまま眠ってしまいたかった。しかし目を閉じると、再びあの男の視線が脳裏に蘇ってきた。なにかを訴えるようなあの眼差し。
やめてくれ。
僕になにかを求めないでくれ。
大声で叫びだしたかった。たまらない。どこか遠くへ逃げ出してしまいたかった。あの道を通らなければよかったと、つくづく後悔した。事故があったことを知っていたのに。あの場所に霊が戻ってくるかもしれないことを、わかっていたはずなのに。
幽霊が怖いわけではない。物心つく前から、身近にそれはいたのだ。ただ、ああして不幸な亡くなり方をしてしまった霊は、扱いが難しい。正しい導きがないと、ときに悪霊になったりもする。この世に未練を残し、この世に恨みを残して死んでいった人たち。
――まだ生きていたかった。
切りつける刃のように、そんな感情がぶつかってくる。それは痛いほどによくわかるのだ。誰だって、最初から望んで死にたいなどと思わない。生きるために生まれてきたのだから。生命をまっとうするために、この世に生まれてきたのだから。
けれど、自分にはどうすることもできないのだ。救えるものなら救いたい。事故をなかったことにしてあげたい。しかしそれは不可能なのだ。起こってしまったことは変えられない。受け入れるより他に方法はないのだ。
枕に顔を埋めて目を閉じていると、ふいに沙耶ちゃんの顔が浮かんできた。はっとして、
目を大きく見開いた。
今自分はなにを考えた? 不可能だ。それは不可能なのだ。
起こってしまったことは変えられないのだから。
けれど、これから起こることがわかっているなら? それが予知できるというのなら、それを防ぐことだってできるのではないか?
しかし、すぐに思い直す。予知したことを防いでしまったら、それは予知ではなくなるのではないか。それにそのとき防げたとしても、再びその状況が起こらないとも限らない。何度もその状況が繰り返されてしまうかもしれない。その度にそれを防がなくてはならなくなる。
けれど、それでも。
不幸な運命を止める方法があるのなら。
階下から母さんの呼ぶ声が聞こえてきた。そうだ。まだ着替えてもいなかった。
のろのろと身を起こし、立ちあがる。壁にある電灯のスイッチをつけると、電灯が一瞬瞬いた。そのとき再び母さんが僕を呼んだ。
「帰ってるよー」
僕はドアを少し開けて、そう階下に呼びかけた。ドアを閉じると、制服のボタンをはずしながら僕は考えていた。
明日、沙耶ちゃんに話してみよう。
無駄かもしれない。不可能なことなのかもしれない。けれど、できることがあるのなら。誰かの不幸を止めることができるのであれば。
僕はそう、決心していた。