1 届けられた想いと忘れていた涙
合宿が終わり、部活もしばらく休みに入っていた。お盆に入り、世間も夏休み一色といった感じだった。
夏休みの宿題をやろうと図書館に行った帰り、自転車であの交差点を通りかかった。すると驚いたことに、いつの間にか渡辺正隆の霊がいなくなっていた。
赤信号で止まったまま、ぼーっと渡辺正隆のいた場所を見つめていると、ちょうどそこに正隆の母親が通りかかるのが見えた。青信号になり、僕は急いで横断歩道を渡ると、彼女に
「こんにちは」と声をかけた。
「あら、あなたはあのときの」
正隆の母親は、僕のことを覚えてくれていた。僕の出現に少し驚いていたようだったが、すぐに笑顔になって話し出した。
「そうだ。あなたには感謝しておきたかったんです。あの日、あなたが言ってくれたでしょう?」
急にそう言われて、なんのことだかわからなかった。なにか言っただろうか。
「ほら。正隆はあの日、なにか忘れ物を取りに戻ろうとしてたんじゃないかって」
ああ。そう言われれば、そんなことを言ったかもしれない。しかしそれがなぜ感謝されるのだろう。
「その言葉が気になって、正隆の部屋を探してみたら、見つかったんですよ。正隆が忘れていったもの」
「なんだったんですか? その忘れ物って」
「入院していた彼女への、誕生日プレゼントだったみたい」
「誕生日プレゼント」
そうか。そんな大事なものを忘れてしまったのなら、慌てて戻ろうとしてしまったのも頷ける。しかし、それは哀しい事故へと繋がってしまうのだけれど。
ふと見ると、正隆の母親の目は赤くなっていた。
「この前、正隆とお付き合いしていた女性に連絡して、ようやく会うことができました。それで、最期に正隆が渡せなかった誕生日プレゼントを渡して……。彼女、その場でプレゼントの中身をつけてくれたんですよ。可愛らしいリボンの飾りのついたネックレスだった。彼女、ネックレスをつけて、嬉しそうに笑ってくれたわ。この現場にもそのまま手を合わせに来てくれたんです」
正隆はそれを見て、どんなにか喜んだに違いない。それでようやく彼も、自らの死を受け入れることができたのだろう。
「本当にいい娘さんだった。正隆が生きてさえいてくれたら、どんなにか……」
正隆の母親は言葉を詰まらせた。もう、その願いは叶うことはない。事故に遭わなければ、きっとあったであろう幸せな未来。それを思うと、もうなにも言う言葉が見つからなかった。
「……ごめんなさいね。あなたにこんなことを言っても仕方がないことなのにね」
「……いいえ」
事故現場に二人で手を合わせて、正隆の母親とはそこで別れた。自転車を漕ぎながら、僕は不思議な気分に襲われていた。
僕のひと言で、正隆の最期の望みが叶えられた。だからこそ、彼はあそこから旅立つことができたのだろう。行くべきところへと行くことができたのだろう。
僕は、少しだけでも役に立てたということなのだろうか。僕でもできることがあったということなのだろうか。
蒸し暑い夕方の住宅街の道には、この暑さにも関わらず、小学生くらいの子供たちが走り回っていた。あまり見かけない顔の子供の姿もある。お盆休みで、親戚の家に集まってきているのかもしれない。
家にたどり着き、自転車を駐車スペースの端に駐めた。そして、ゆっくりと玄関へと向かった。僕は一歩一歩進みながら、そのことについて考えていた。
――僕は逃げていた。ずっとそれを考えることから逃げていたのだ。
時を止めてしまったのは、他でもない僕だ。それを動かさなければいけない。
ずっと目を背けていたことに、僕は今、ようやく向き合う決心がつきそうだった。
正隆は、行くべきところへと旅立つことができた。きっと最期は幸せな気持ちになれたのではないだろうか。
玄関ドアの取っ手を握ろうとして、気づいた。
ぽたぽたと、雫が足元のタイルを濡らしていた。目から溢れるように、涙がこぼれ落ちていた。僕はそれをぬぐうことすらせず、その場でただひたすらに泣いた。
そうだった。僕はこんなふうに泣くことすら、ずっと忘れていたのかもしれない。




