1 幽霊男の素性
日が長くなったな。
自転車を走らせながら、僕はそんなことを思った。部活を終えて、おりた駅から家まで向かう時間。以前なら、この時間はもっと辺りは薄暗かった。けれど、いつの間にか日が落ちるのが遅くなり、この時間に夕暮れを迎えるようになっていた。
しかし夕暮れどきとはいえ、まだまだ蒸し暑い。湿った空気がじんわりと体にまとわりついてくる。
球技大会、定期テスト、部活の試合など、いろいろあった一学期ももうすぐ終わろうとしていた。もう少しで夏休みがやってくる。
横断歩道の向こうでは、男がいつものようにこちらを見つめていた。信号が青になったところで横断歩道を渡り、男のそばへと近づく。ガードレールの柱のところには、今でも絶えることなく花が手向けられていた。
いつものように自転車を駐めると、僕はその場でしゃがみ込み、男の前で手を合わせた。男の望みを叶えることができないせめてもの代わりに、時間のあるときはこうすることにしていた。
気休めにもならないことをしているのはわかっていた。それがただの自己満足であることも。しかし、男がここに居続け、僕になにかを訴えかけている以上は、無視するわけにもいかなかった。
男の眼差しは暗く、哀しげだった。ただこんな状況でも救いとなっているのは、男の気配に怒りの感情がないことだ。もし怒りにとらわれた霊だったら、こんなふうに静かにはしていないだろう。激情に任せ、近づいた者に悪さをしてしまうだろう。
立ちあがり、僕が自転車に再び乗ろうとしたそのとき、後ろから誰かに声をかけられた。まさか男の霊がしゃべったのかと振り向くと、そこには女性が立っていた。もちろん生きた人間の女性である。
「あの、突然すみません。少しいいですか?」
「あ、はい。なんでしょうか」
歳は四十代くらいだろうか。品のある女性だった。
「よくここで手を合わせていかれますよね」
「ああ……はい」
なんとなく察した。見られていたのだ。
「わたし、ここで亡くなった息子の母親なんです」
やはり、そうではないかと思った。まずいことになってしまった。まるで関係のない僕がこんなことをしていることを、不審に思ったに違いない。
「あの、息子のご友人の方でしょうか?」
なんと答えるべきか。ここは否定して変に疑られるよりは、肯定してしまったほうがいいかもしれない。
「あ……はい」
迷いつつ、僕はそう返事をした。嘘をついてしまった罪悪感が、ちくりと胸を刺す。
「そうでしたか。息子と仲良くしてくださってありがとうございました」
男の母親だという女性は、そう言って深々と頭をさげた。そんなことをされて、焦ってしまった。仲良くしたことなど一度もないのに、申し訳なかった。
「あの、そんな頭なんかさげないでください」
「いえ、嬉しいんです。息子のことを思ってくださる方がいることが」
女性はそう言って、かすかに笑った。
「あの……彼はあの日、どこに行くつもりだったんでしょう?」
僕はこの際、男のことについて聞いてみることにした。またいつこの女性に出くわすとも限らない。男の素性くらいは知っておいたほうがいいだろう。とりあえず名前がわからないため、この場は『彼』と呼ぶことにした。
「あの日、マサタカは病院に行く途中だったんです」
「病院?」
男の下の名前はマサタカというらしい。しかし病院へ行く途中だったとはどういうことだろう。なにか怪我や病気でもしていたのだろうか。
「高校時代からつきあっていた女の子の、お見舞いに行くところだったみたいです。階段から落ちて足の骨を折ったとかで、入院していたようで。今は退院して自宅に戻ってらっしゃるそうだけど、その方も事故のことでとてもショックを受けてしまったみたいで……」
それはつらいことだろう。自分のお見舞いへ来ようとしていた恋人が、突然帰らぬ人となってしまったのだ。
「お葬式にも松葉杖で来てくれてたみたいなんですけど、わたしも気が動転していてその方とはろくにまだ話もできていないんです。落ち着いたらマサタカのことありがとうって言おうと思っているんですけど」
強い人だ。息子が亡くなって自分も相当つらいだろうに、その女の子の心配までしている。でも、もしかしたら、そうして他の人のことを考えることで、自分の気を紛らわせているのかもしれない。
「よかったら、うちで線香もあげていってください。マサタカも喜びますから」
どうする? 男のことを知るならこれはチャンスかもしれない。しかし、あまりやたらに近づくのも危険だ。
「すぐそこの家ですから」
かなり迷ったが、手を合わせてすぐに帰るつもりで、マサタカの母親についていった。




