2 打ち込み稽古
「賢治。このあとラーメンでも食べにいかないか?」
「ああ、行くか。腹が減って死にそうだ」
佐々木先輩と大野先輩はそんなことを言いながら、制服に着替えていた。賢治というのは佐々木先輩の下の名前だ。二人ともシャワーを済ませてすっきりとしている。部活が終了し、三年の先輩は先に着替えを済ませてさっさと帰っていってしまっていた。今男子剣道部の部室にいるのは、一年の僕と、二年の三人の先輩たちだけだった。
「槇村はどうする? たまには一緒に来ないか」
「俺はやめとく。寮のおばちゃんの愛情メシが待ってるからさ」
佐々木先輩の誘いに、槇村先輩はそう答えた。まだ道着を着ている槇村先輩からは、濃い汗のにおいが漂っている。
「そうか。じゃあ、またそのうちな」
「じゃあな」
佐々木先輩と大野先輩は、そう言い残して部室から去っていった。
「あいつら、仲いいよな」
端のほうで道具の片付けをしていた僕に、槇村先輩がそう話しかけてきた。先輩の中で、槇村先輩は一番親しみやすい人物だ。僕にもこうしてよく話しかけてくれる。
「そうみたいですね」
「家も近いみたいで、結構昔からの知り合いみたいだぜ。小学校のガキのころからだっていうから、本当に気心の知れた兄弟みたいな感じでさ。そういうの、俺としてはちょっと羨ましいよ」
それはまるで、かつての僕と和哉のようだと思った。幼馴染みであり、同じように剣道を続けている。しかしもう、今となってはそんな関係には戻れないのだということを僕は思い出し、胸のうちに暗い澱が沈んでいくのがわかった。
「しかし、佐々木のやつは強くなったよ。俺も中等部から剣道やってんだけど、あいつがあんなに力つけてくるとは思わなかったもんな。次期部長だって話だぜ」
「佐々木先輩が次の部長なんですか。でも、似合ってますよね。確かに実力もありますし」
「あいつ倒すの結構大変なんだぜ。篠宮も今度相手をしてもらうといい。いい稽古になるから」
そう言う槇村先輩も、かなりの実力者だ。佐々木先輩とはいつもいい試合をしている。
「それよか、問題はお前らの代だよ。ただでさえ人数少ないのに、今年の新入部員は結局男女ともに一人ずつだもんな。誰か入ってこないかねー」
槇村先輩がシャワーを浴びに行くと、部室には僕以外誰もいなくなってしまった。急に静かになった部室は、いつもより広く感じた。
剣道場に戻ると、沙耶ちゃんが先にモップをかけていた。部活を終えてからの、剣道場の掃除の時間。今日のように先輩たちが早めに帰ってしまうと、沙耶ちゃんと二人きりになるときがある。稽古で疲れたあとだが、こういうときはとても嬉しい。
「今日も疲れたねー」
モップをかけながら沙耶ちゃんが言う。しかしその表情は、言葉とは裏腹に充実していた。
「なんか楽しそうだね。沙耶ちゃん」
「うん。まだ全然だけど、一応わたしも剣道部でやれてるんだなーって」
「これからもっと上達するよ。沙耶ちゃん足さばきとかうまくなってきたし」
「本当? ありがとう」
初心者の沙耶ちゃんは、まっさらな状態で変にくせなどがないぶん、基本に忠実な剣道の形を吸収している。きっと一年後には、良い剣道家になっているだろう。
「逆に教えるほうも基本を見直せるから、いい勉強になってるんじゃないかな?」
「そうなんだ? あ、小太郎ちゃん。掃除終わったらちょっと稽古につきあってほしいんだけど、いいかな?」
「ああ、いいよ。それじゃあ打ち込み稽古しようか」
沙耶ちゃんは前向きだ。とにかく必死に剣道を自分のものにしようと頑張っている。
掃除を終え、はずしていた防具を装着する。沙耶ちゃんも同様に防具を身につけ、僕の前に立った。
竹刀を構え、一足一刀の距離で相対する。
こんなふうに沙耶ちゃんと剣道をする日が来るなんて、少し前までは考えもしなかった。面金の間から見える沙耶ちゃんの顔は、普段と違っていた。戦いに臨む者の目をしている。竹刀の先にいるのは戦う相手だ。その相手が僕だということが、なんだか不思議で仕方なかった。
打ち込み稽古とは、上級者が隙を作り、下級者がそれに応じた技をかけていくことである。この場合は僕が隙を作り、沙耶ちゃんが打突を繰り出していく。
「ヤアアーッッ」
沙耶ちゃんの竹刀が僕の面の前のほうを打つ。二人きりの剣道場に声と竹刀の音が響き渡る。
「ちょっと踏み込みが甘いね。もう少し入ってこないと」
沙耶ちゃんは繰り返し面を繰り出す。何度か良い面が入ってきた。
沙耶ちゃんを見ていると、自分の昔の姿を見ているようだ。小学生のころ、ただうまくなりたくて必死に剣道をやっていた。上達して褒められるのが嬉しくて仕方なかった。ただ剣道をするのが楽しかった。
今の自分はどうだろう。こんなふうに純粋に剣道を楽しめているだろうか。
沙耶ちゃんの竹刀には迷いがない。それがなんだかとても羨ましかった。




