2 幸せな朝
木の枝葉の間に、朝陽が柔らかく差し込んでいた。そんな木漏れ日を浴びながら、校門から校舎へと続く並木道を、多くの生徒たちがざわめきとともに歩いている。僕もそんな生徒たちの中にまぎれるような形となって、同じ方向を歩いていた。
名門校に通う生徒たちは、やはりそれなりに育ちのよさを感じさせる人物が多かった。事実、秋庭学園の生徒というだけで、外では驚きや尊敬の目で見られることがある。ここは、そんな選ばれた生徒たちの通う学校なのだ。
そして、自分もそのなかの一人だということが、なんだか信じられなかった。たまに本当にここにいてもいいのかと、歩きながら思うことがある。
そんなときは、足元の石畳の端の地面に目をやる。するとそこに、小さなアリの行列が、校舎の方向へと向かっているのを見つけることができる。それを見ると、不安なたよりない気持ちが、少しだけ落ち着くのだった。
「おはよー。小太郎ちゃん!」
アリの行列を目で追いながら歩いていると、後ろから涼やかな声が聞こえてきた。朝からかなりの幸運。振り向くと、輝くような笑顔の沙耶ちゃんがこちらに近づいてきていた。
「おはよう。沙耶ちゃん」
「さっきから声かけてたのに、全然気づいてくれないんだもん。走ってきちゃったよ」
「え。そうだったんだ。ごめん」
「いいよ。ちょっと離れてたから仕方ないしね」
沙耶ちゃんはそう言いながらも、にこにこと笑みを絶やさない。いつにも増してご機嫌なようだ。
「沙耶ちゃん、今日なんか機嫌いいね。どうしたの?」
「どうしたって、ほら。昨日放課後見に行ったじゃない」
「ああ、剣道。で、なんでそれで機嫌がよくなるの?」
「えへへ。わたし決めちゃったんだ」
「なにを?」
「わたし剣道部に入る」
沙耶ちゃんから発せられた台詞は、思いもかけないものだった。あまりに意外だったので、次の言葉がなかなか出てこなかった。
「沙耶ちゃんが剣道を?」
「そうだよ。変かな?」
「変ってわけじゃないけど……」
「前からやってみたかったんだよね。昨日見学してたらどうしてもやりたくなっちゃって」
「へえ」
「小太郎ちゃんも入るんだよね。剣道部」
「え、いやその、それはまだ……」
「でも体験入部はするでしょ?」
「えーと、その……」
口ごもる僕に、キラキラと期待に満ちた眼差しを送ってくる沙耶ちゃん。その無垢な瞳を前にして、頷くより仕方なかった。
「やったぁ。せっかくだから美周くんにも訊いてみよ! 二人の対決も見てみたいし」
沙耶ちゃんは、今にも飛びあがりそうになって喜んだ。本当に嬉しそうなので、僕もつられて笑みを浮かべた。これはもう、覚悟を決めるしかなさそうだ。
「……剣道か。またやることになるとは思わなかったな」
「なんで? 小太郎ちゃん、中学のときもやってたんだよね」
「ああ、うん。でももうやめるつもりだったから」
ふいに感傷的な気分になった。中学時代のことを思い出す。
「なにかあったの?」
「いや、別に。ただ本当に剣道やるのは中学までって思ってたから」
僕はどんな顔をすればいいのかわからず、ぎこちなく笑った。
「そっか。……小太郎ちゃん、嫌だったらいいんだよ。わたしにつきあわなくても」
「嫌ってわけじゃないよ。それに沙耶ちゃんが剣道部に入るっていうなら、僕もちゃんと考えてみるよ」
「そう。よかった。同じ部員同士になれたらわたしも嬉しいんだけど」
沙耶ちゃんはそう言って、無邪気に笑った。それを見て、どきりと心臓が脈打った。その嬉しいというのは、どういう意味で言っているのだろうか。
そんなことを話しているうちに、昇降口に着いていた。自分の靴箱に靴を入れながら、隣で同じようにしている沙耶ちゃんに、僕は言葉をかけた。
「あの、沙耶ちゃん。今日の昼休み、時間……あるかな?」
「うん。大丈夫だよ」
「ちょっと話したいことがあるんだ」
沙耶ちゃんと視線がぶつかった。こうして並んでいると、あまり背丈が変わらないことに気づかされる。それに気づいて、思わず僕は自ら視線を逸らしてしまった。
きっと端から見たら、おかしなものなのだろう。背の低い自分に、沙耶ちゃんは釣り合わない。そんなふうに映るに違いない。悔しさと恥ずかしさとが混ざったような気持ちになり、僕は上靴に履き替えると、足早に教室へと向かった。
「あ、小太郎ちゃん待ってよ!」
後ろから慌てて走ってくる足音を聞いて、はっとして立ち止まった。振り向くと、沙耶ちゃんが頬を膨らませて立っていた。
「もうっ。急に先に行っちゃうんだから」
「ごめん……」
僕はしばらくの間、じっと沙耶ちゃんを見つめていた。そんな視線に気づいた沙耶ちゃんは、はたと両手を頬に当てた。
「なに? なんか顔についてるわたし? やだ、ちょっと鏡!」
沙耶ちゃんが鞄の中をごそごそかき回しだしたので、僕は慌てて言った。
「あ、違うよ! 全然キレイだから!」
そう口を突いて出た言葉に、思わず顔が熱くなった。言われた沙耶ちゃんも、少し恥ずかしそうに顔を俯けていた。
「な、なに言ってるんだろ。えっと、その」
「ありがと。嬉しい」
沙耶ちゃんは顔をあげると、満面に笑みを浮かべてそう言った。僕はますます顔が熱くなり、まともに沙耶ちゃんの顔を見ることができなかった。
「けど、なんでさっきわたしの顔じっと見てたの?」
「いやその」
なんと言うべきか言葉に詰まる。しかし、結局いい言葉が見つからなかった。
「なんでもないよ」
そう言うと、僕は歩みを進めた。沙耶ちゃんもそれに続く。
「小太郎ちゃんずるい。なにか隠してる。それともやっぱりなにか顔についてたの?」
「なんにもついてないよ。本当だって」
とても言えなかった。言ったらあまりの恥ずかしさに、ますます顔が合わせられなくなりそうだった。
言えるわけがない。――沙耶ちゃんの怒った顔が可愛くて、見とれていただなんて。




