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電灯  作者: 三日月 夕
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3/5

「このアパート?」

「そうです、一階のあそこ」

 アパートの部屋から光が溢れている。四角い黒い入れ物から疎らに溢れる光は、何かの巣のようだった。

 結衣はドアの前で立ち止まった。

「あの、実は部屋、すんごい汚いです。ゴキブリが出て、慌てて飛び出してきた状態で、本当に人様に見せられるような部屋じゃないんです」

 男は笑った。

「大丈夫。遊びに来た訳じゃないですから。ゴキブリが出るような部屋って最初から分かってます」

「ひ、ひどい!」

 ドアノブを引く。勿論、鍵は開いたままだった。

「お邪魔します」

「やつは居間の壁にいました」

 さっきの遭遇がまだ鮮明に記憶に残っている。二本の触感を誇らしげに動かし、我がもの顔で壁を登ってきた。その音ですら忌々しく耳に残っている。

「電気はつけていなかったんですね」

 狭い台所を男が先に行き、結衣は隠れるように後ろについた。

「いえ、小さいのを付けていて、多分そのままになっているかと」

 男は居間へのドアを開ける。部屋は暗く、小さな蛍光灯が壁を照らしていた。僅か6畳ほどの床と壁は一面、新聞紙が張られ、床には絵の具が散在し、壁には男の背より大きなキャンバスが立てかけられていた。

「すごい」

「ティッシュは後ろのテーブルの上にあります。私、こっちにいるので、あ、やつはその壁をこう、下から上に移動してたんで、近くにいると思います。すみません、ドア閉めますね」

 早口で言い終えると同時にドアを閉めた。

「では電気つけさせてもらいます」

「はい」

 ドアの窓と、ドアと床の隙間から明るい光が入ってきた。

「大きいですかー?」

「大きいです。すごく、すごく大きかったです」

 いないなぁ、と言いながら、男が部屋の中をゴソゴソと探す音が聞こえた。

 結衣は祈るように手を重ね合わせる。その手は小さく震えている。

 大丈夫、彼は安心して平気な人。ゴキブリくらい、簡単に殺してくれる。大丈夫。ゴキブリなんて所詮小さな虫にすぎないのよ。怖くなんかないわ。もう至近距離で遭遇したんだから。もう私はドアのこっち側にいるんだから。大丈夫、大丈夫。

「あ、いた。これか」

 小さな物音がした。本を閉じるような、階段を上るような音だった。

「殺しましたよー。どうすればいいですか? トイレに流していいですか?」

「え、本当に? ちょっと待って。トイレに流して。待って待って、本当に殺した?」

「ドア開けますね」

 男の手には幾重にも重なって芍薬の花のようになったティッシュがあった。

「え、そこにいるの? 待って、待って、怖い怖い怖い。ちゃんとブチってした? ブチってしないとトイレに流しても這い出してきちゃうんだよ」

 近寄らないで、と手の平を男に見せながら後退りする。

「ブチってしたよ。見る?」

 結衣は高速で首を横に振る。

「流しますね。トイレここ?」

 男はトイレのドアを開け、同時に水が流れる音が聞こえた。

 その音を聞いて、肩の高さがぐんと下がった。それでもまだ、鼓動は早く、手の震えは収まらない。

「手、洗わせてもらいます」

「うん、洗って洗って。うんと綺麗にして、お願い」

 男は台所の流しに立ち、男の手がハンドソープに包まれていく。

 この手がゴキブリを殺し、この手が私を守ったのか。

 結衣は男の手に触れ、キスをしたいと思った。

 キスをされた手は、そのまま結衣を押し倒し、結衣の身体を愛撫する。結衣の身体に男が入ってくる。結衣の身体はそれを歓迎する。一つになった結衣と男の身体から、カナブンの卵が産まれる。大量のカナブンの子どもが小さな羽根を羽ばたき、部屋中に舞い飛ぶ。二人の汗が混じり、息が切れ、カナブンの子ども達は空へ飛び立っていく。

 結衣は考えるのを止めた。

 結衣が欲しいのは、男の手だった。今夜、一夜限りの関係を持ちたい訳ではない。

 この男が欲しい、と強く思った。必要のない時は引き出しにしまっていて、必要な時に取り出せるような。この男を自分の物して、ずっと持っていられたら。

「ねぇ」手をタオルで拭きながら男が言った。「絵を見せてもらっても?」





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