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電灯  作者: 三日月 夕
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 火照った頬に、夜の空気がひんやり触れた。

「ここ、交差点までずっと真っ直ぐです」

 男のポケットの小銭のぶつかる音が、歩くリズムに合わせて聞こえる。

 本当に、うちに来るつもりなのだろうか。

 婦人の言葉を思い出す。このお兄さんなら大丈夫。安心して平気だから。婦人は何を根拠に言ったのか。公共料金の支払いだけで身分が証明されたのだろうか。

 隣を歩く男は、若い女性に安心を与えるような愛想も笑顔も持ち合わせてはいない。

「なんだか、すみません。こんな時間に……」

 交差点に差し掛かり、信号待ちの沈黙に耐えきれなくなった。

「いえ」

「ご自宅はお近くなんですか?」

「まぁ」

「お時間、大丈夫でしたか?」

「はぁ」

 一度もこちらの顔を見ない男に、結衣は呆れて息が漏れた。

 私だって好き好んで貴方にお願いした訳じゃないのに。

 信号が青になり、再び歩き始めると男が口を開いた。

「あのコンビニ、」

「はい?」

「僕の他にも客がいたの見ましたか?」

「いえ……」

 コンビニに着くと、すぐに店員と話したため、店内はあまり見なかった。記憶では、コンビニの店内はお客さんは少なく、閑散としていた。

「男が一人いました。雑誌コーナーでエロ本を立ち読みした、太った眼鏡の若い男が」

「そうでしたか」それがなにか。

「もし、店員が僕ではなく、彼にお願いしていたら貴方はどうしていたでしょうか」

 男は何を言い出すのか。結衣は男から視線を外し、気付かれない程度に少しだけ距離を開けた。

「きっと断っていた、違いますか」

「さぁ……。よく分かりません」

「面白いですね」

「何がですか」

「人間の思考は」

 眠さと疲労と、予定外の出来事に男の声が重なり、結衣は堰を切ったように話しだす。

「私が人を見た目で判断していると仰りたいんですか? ご存知でしょうが、私が直接貴方にお願いした訳でもないし、店内にいる男性から選び抜いた訳でもないんです。そもそも私は店員さんと、」

 次第に早口になっていく結衣を、男の言葉が制した。

「分かっています」

 男の足が止まり、その目は真っ直ぐに結衣の目を見つめた。結衣は男の目に映る自分の姿を見た。

 息が荒くなっているのに気付く。

「人を見た目で判断することは大事ですよ。見た目から分かる情報で、危険の回避を判断しなくてはいけない」

 黒い瞳。綺麗な丸い、少し茶色が混じった黒だった。

「ただ、たまに分からなくなります」

「何がですか」

「器って何なんでしょうかね」

 男が何を言ってるのか、結衣はこの時、分からなかった。

「不快にさせたのなら謝ります」

「謝るなんて、別に……」

 横の車道を車が走り抜けていった。車の運転手から見たら、きっと私達は恋人同士で、部屋着でコンビニに行った帰り道に些細なことで痴話喧嘩して、こんなところで二人で立ち止まって、結局仲直りして家に帰る、そんな風に見えるのかもしれない。

 結衣は再び歩き出した。

「結衣です」

「え?」

「石垣結衣と言います、私の名前」

「ああ」そう、と、まるでどうでもいいと言っているような返事だった。

 なぜ聞かれてもいないのに、名前を名乗ったのか不思議だった。仲直りのつもりだったのかもしれない。

「僕はかなぶんです」

「かなぶん?金文さん?」変わった苗字だな、と思う。

「いえ、カナブンです。虫の」

「虫の……カナブン?」

「はい」

 突然、蝉の鳴き声が止んだ。ずっと聞こえていたそれは、耳の細胞の、ニューロンとかシナプスにすっかりこびりついてしまっていて、身体の奥にだけ蝉の鳴き声は響いているようだった。

「覚えていないと思いますが、以前、貴方が助けてくださったカナブンです」

「なんの事でしょうか」

「地面でひっくり返ってしまい、力が尽き果て、もう僕は死ぬのだと思った時、貴方が戻してくださった。貴方は僕の命の恩人なんです」

 ひっくり返った虫を、近くにあった葉っぱを被せ、元に戻してやった。カナブンだかカメムシだか、何の虫だったか覚えていない。いや、本当のところ、虫の名前なんて分からない。あれは先月のことだったか。

 どうして男がその事を。

「僕は、貴方に御礼がしたかった。だから今夜のことは迷惑だなんて思わないで下さい」

「えっと……」

 男の笑みは、どこか余裕を感じさせる笑い方だった。

 ああ、そうか。計られているのか、私、と結衣は思う。


 あれはいつの事だったか。新宿に用があり、一人で歩いていると、「落としましたよ」と声がしたので振り返った。伸びた髪を脱色し、ヘアワックスで時間をかけてセットした、若くて頭の弱そうな男が、ハンカチを差し出していた。ただ、そのアニメのキャラクターのハンカチは結衣の物ではなかった。戸惑ったまま、「えっと……違います、すみません」と会釈してその場を去ると、また後ろで声がした。「つまんねー女」


「すみません、私、そういうの面白い返しが出来なくて」

 つまんない女。自分に向かって言い放つ。

「面白い返しも何も、本当のことですから。信じてもらうのも無理な話ですが」

 男の下を向く顔は寂しそうだった。

 本当かどうか分からないけれど、いや、恐らく嘘だけど、男にとっては信じて欲しい話なのだと思う。

「では、信じます」

「では、って」男は笑った。「ありがとう」

 なんだ、こんな風に笑えるんじゃない。

「あ、ここ曲がったらすぐです」

 大通りから一歩細い道に入ると、いつの間にか聞こえ出した蝉の声が大きくなった。

 男は急に立ち止まり、結衣を見下ろすように言った。

「ねぇ、ところで家に出た虫ってゴキブリ?それともーー」

 男の黒い瞳が、結衣の瞳を捕らえる。結衣はそれを振り払うかのように答えた。

「ゴキブリです!」




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