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雲ひとつない夜だった。
星の瞬きなんて、最後に見たのはいつだっただろう。肉眼で見えるのは、数えられるほどの僅かな星々。ただ、都会ではこれでも見えているほうなんだろうな、と結衣は思う。
すれ違う人もいなければ、通り過ぎる車の数も少ない。
風呂から上がり、寝間着に着替えた後、急いで家を飛び出してきた。寝間着で外を歩くなんて、女子大生の結衣には屈辱的だった。ジェラートピケでもなければ、ピーチジョンでもない、くたびれたTシャツとステテコだ。
出来れば、このまま誰ともすれ違いませんように。
結衣の足取りは速くなった。
「いらっしゃいませ」
コンビニの放つ光が、結衣の寝間着を闇から引きづり出した。
「あのー、すみません」
「はい」
眼鏡を掛けた婦人は、よく接客してくれる店員だった。
お母さんと同じくらいの年齢で、愛想もよく、朝に買い物をすると必ず「行ってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれる。
駅前のコンビニより、駅に行く途中にあるこのコンビニに寄ることが多かった。
「殺虫剤……なんてないですよね?」
「殺虫剤ですか?うーん、そうねぇ、うちはないけど」婦人の困った顔は初めて見た。
「そうですよねぇ」
「ウエルシアさんは?あそこなら絶対あると思うけど」
「それがもう閉店時間を過ぎてしまいまして」
「あちゃー、そうよね。もう十一時過ぎてるもんね」
「はぁ……」
携帯電話も持たず、鍵も掛けずに家を出てきてしまった。このままあの家に帰ることは出来ない。
「ゴキブリでも出たの?」
婦人の優しい笑顔に、結衣は突然、泣きそうになった。
「そうなんです。私、一人暮らしで……」
十八で実家を離れ、一人暮らしを始めて今日という日まで、一人暮らしが不安だとか心細い、なんて一度も思ったことがなかった。
一人暮らしは、夜中にアイスを買いにコンビニに行くのも自由だし、朝帰りしても誰にも怒られることはない。部屋が多少散らかっていても構わないし、休みの日には誰にも起こされずにずっと寝ていられる。
何の問題もなかった。夏の夜に虫さえ出なければ。
「若いお嬢さんの一人暮らしは大変よね」宥めるように言うと、婦人は結衣の背後に視線をやる。「どうぞ」
背後に人が並んでいたのに気付かなかった。
「す、すみません」
一歩横にずれた。このままここにいてもどうしようもないのだけれど。
若い男は、婦人に紙を渡した。婦人は慣れた手付きで、バーコードを使って読み取った。
「確認よろしければ画面タッチお願いします」
男の指先が画面を押した。
手はその人を現す、とある者は言う。またある者は、背中はその人を現すと言う。
結衣は、男の指先から手を、手から背中を見る。
細く長い指、大きな手、少し猫背の背中。その全てから、彼が男であると感じさせた。
「341円のお返しです」
男は、お釣りをそのままズボンのポケットに入れた。
「ねぇ、そうだ。お兄さん、この子の家に行って虫退治してあげてくれない?」
「え?」顔を上げると、振り返った男と目が合った。
「家にね、虫が出ちゃったんですって。でもほら、うち殺虫剤置いてなくって」
「いや、でも悪いですし……」
「もうウエルシアさんも閉まっちゃった時間でしょう。可哀想に、一人暮らしなんですって」
ご婦人、それ以上は言ってくれるな、と心の中で叫んだ。もちろん婦人には届きはしない。
見ず知らずの男を家に招くなんて、婦人は同じ女として意味が分かっていないのだろうか。まして、夜は刻々と更けている。
「大丈夫です、なんとかします。ご迷惑をおかけ出来ませんから」
幸いなことに、男は迷惑そうな顔をしていた。
「僕でよければ、退治しますよ」
鼓動が一瞬止まったかと思った。
「いや、でも……」
「あらー、よかったよかった。このお兄さんなら大丈夫。安心して平気だからね」
婦人の声が1オクターブ高くなった。すっかり喜んだ婦人は、一仕事やり終えた顔をしていた。
「では、行きましょう」
「え、え、」
「ありがとうございましたー」
男が足早に出口に向かったので、結衣もつられて店を後にした。
目に残った婦人は、今まで見たことないくらい素敵な笑顔で手を振っていた。
店から出ると、夜の静けさがそこにはあった。バチバチと音がするので、見上げるとコンビニの入り口の上にブルーの蛍光灯が数本あり、虫がぶつかっては音を立てて床に散っていた。