序章
男は路地裏に潜り込み手近な壁を背にすると、糸の切れた人形のようにどっとその場に崩れ落ちた。しかし、目だけは油断なく左右を見回すと、やっと警戒を解いて一つ息を吐いた。
もはやボロ布と区別のつかない服から醜い傷が覗いている。さらに右の肩口には何かで抉られたような跡が付いていた。
男は息を整えると、空を見上げた。憎たらしいほどの晴天だ。だがその晴天をしても彼の周囲を照らすことはできない。
(なぜ……)
こんなところにいる。
なぜ生きている。どのみちこんなところに俺の居場所はない。月という主役を失った夜空の星はどうなるのか。
少なくとも主役がいたころと同じようにはいかない。
あそこに残るべきだった。"月"と運命を共にすべきだった。
それならこんな苦しみを味わうことはない。最後まで信じてくれた彼……。そして……。
と、その時意識を現実に戻した。何かが聞こえる。足音が聞こえてくる。追手だろう。近い。だいぶ詰められている。普段なら気が付く距離だ。
「とうとう俺も堕ちたか」
自嘲気味につぶやくと右手を腰の刀にかけようとして顔をしかめた。傷を思い出して慌てて左手で短剣を取り出す。そしてのろのろと立ち上がると壁に体を預けるように立ち上がる。
焦点がはっきりしない。視界がぶれる。
だめだ。
これではまとも反応もできない。もうここで終わりだ。いや、終わっていい。
むしろ終わらせてくれ。そうだ、俺はこれを望んでいたんじゃないか。どうせこの世にもう価値なんてない。もういいじゃないか。あそこから離れられただけで俺はもう十分だ。
足音がひどくじれったく感じる。どうせお前らだろ。早く来てくれ。早く楽にしてくれ。俺は逃げない。もうそんな余力もない。
やがて人影が現れた。二つだ。しかしそれは彼の予想とは大きく異なっていた。
子供のような小さいものと、男のもののようなのが一つずつ――彼を追いかけてきた者たちではない。
「お父様! ここに傷だらけの人が! 早く助けないと」
その小さな人影が駆けてくる。
(子供……?)
何故子供がこんなところに? 男は思わず逃げ出そうとしたが、そんな気力は既にない。その子供を最後に男の記憶はしばらく途切れることになった。




