鏡の月 二
濁った暗褐色の影が蠢いた。
辛うじて人型をとってはいるが、ソレは腐臭がしそうなほど朽ちて見える。
嫌悪感を露にして、女は異形の顔のあたりを睨みつけた。対峙しているその顔に恐怖の色はない。
自身が優位に立っていると考えているのか。異形の唇とおぼしき裂け目から、下卑た嗤い声と瘴気が漏れた。
感覚の鋭敏な者ならば、異質な空気にすでに逃げ出しているか、失神するかしているだろう。しかし、向かいあっている女の表情は少しも変わっていない。
痺れをきかせて先に沈黙を破ったのは妖だった。尋常ではありえないほど伸びた腕が女に襲いかかる。
攻撃を軽くかわして間合いをとると、女は素早く周囲に視線を配り、取り出した符を一枚空へ投げた。
「あまねき諸仏に礼したてまつる 月天よ 心願成就せしめたまえ」
空を舞った一枚の符が瞬く間に分かれ、音もなく四方へ散った。光を強くした符からそれぞれ帯状の光が放たれると、女の横顔ををうっすらと照らした。
鈴に似た共鳴音が耳に響く。月の神への神呪は、術者の望みどおり真四角の結界を張った。
囲むように形成された結界の中で、妖が悔しげに咆哮する。
「……まずまずかな」
普段は彼女の相棒が行っている作業だ。
妖を見れば、思うように動けずにもがいている。
少々心もとないけれど、まったくないよりはいいだろう。
彩華は軽く目を伏せて深呼吸すると、ふたたび目の前の妖に目を向けた。
いかにして有利にもっていくかも戦略のひとつだ。術者にとって都合の良い場を築くことができれば、それだけ勝利が近くなる。
とはいえ、まだまだ修行中の術者が生み出した結界がいつまで持つかわからない。早く決着をつけた方がいいだろうと、彩華は意識を集中する。
印を組みかけた指を止めて、感じた異変に目を見開いた。
その直後、霊力の檻が激しく振動して火花が爆ぜた。妖の爪が空気を大きく切り裂いのだ。
起きた太刀風が彩華をも襲うが、足に力を入れてそれをやり過ごす。軽い痛みに彩華が顔をしかめると、頬がうっすら切れていた。
ほんの僅かな血の臭いに煽られた妖の目が爛々と輝いた。くわっと開いた口に、熱を帯びた妖気が集まる。内側から熱が膨張してくるさまは、星が爆発するかのようだ。
「あ、ちょっと!」
妖の行動に目を剥く。あれをまともにくらったら命の保障がないのは本能で分かる。相手の攻撃に備えて、彩華は神経を尖らせた。
一点に集約し放たれた妖力が彩華めがけて襲いかかった。
「――くっ」
反射的に防御の術で衝撃を殺すが避けきれない。彩華は両足を踏ん張るが、ずるずると後退してしまう。
爆風に耐え切れずに彩華の身体が吹き飛ばされた。
やがて訪れる激痛が身体を貫く――と思ったが、徐々に速度を落とし、少し強めに背中を打っただけだった。
咳きこみつつ彩華は目を開けるが、土煙で視界が悪く何も見えない。
一瞬の閃光が辺りを染め上げ彩華は目を細めた。それでも明るすぎて、逆に真っ暗に感じる。目の痛さに耐え切れず、彩華は瞼を閉じると神経を張り巡らせた。
姿は見えなくても妖はいる。しかも、背後からも何者かの霊力が伝わってくる。殺気はないが、強い力の持ち主であると一瞬で悟った。
素早く体勢を整えて次の攻撃に備えなければと重い身体を動かしたが、彩華の予想外の展開を迎えた。――僅かに早く、鎌に似た白刃が彼女の背後から空を切る音をたてて飛んだ。
それを難なく避けた妖は口元を歪めて嗤う。だが、それも一瞬のこと。突然びくりと硬直して咆哮をあげた。
刃が反転して返り、その軌道上の妖に突き刺さったのだ。妖の胸の辺りから突き出た白い刃は、瞬く間に光の粒子となってやがて消える。
鼓膜が破れるほどの怒号が大地を轟かせた。
闇雲に振り回す妖の尖った爪が地面に突き刺さる。砕けたアスファルトが彩華へと飛ぶが、彼女に触れる寸前で跡形もなく消滅した。
「――嘘」
驚いたのは彩華だ。咄嗟に結界を張ることもできず、破片が自身へ突き刺さると覚悟していたのに。事態がよく掴めていない様子で、ただ唖然とするばかりだ。
体に穴を開けた妖は、ぎゃあぎゃあと喚き散らしている。瞬時に体の欠陥を直す異形というのも存在するが、この妖はそこまで高度な技は持っていないのだろう。よく見ると、穴が少しずつ広がっている。
「動き回ると滅するのが早くなるだけだぞ」
低くよく通る声が聞こえた。
声のした方へ顔を向けると、彩華の背後にひとりの男が立っていた。
暗闇で顔は見えない。
鼻を鳴らして不敵に笑うその男の印象は漆黒。服装だけではない。男の持つ雰囲気は、月が闇に包まれた沈静の夜のようだ。
霊視しても正体は掴めない。だが、その男は彩華のよく見知った気配を纏っていた。
今自分がやるべきことをすべて忘れて、ただ呆然としていた。
何か言わなくては……と言葉を発しようとしたとき、派手な崩壊音が彩華の耳に届いた。
「っと逃げるな」
男の声に答えるかのように妖の体の一部が音をたてて霧散した。男は全身から立ち上る鬼気を強めて威圧する。
慌てて振り返ると、妖が結界を破き、ほうほうの体で逃げてゆくのが見えた。
――やってしまった。ターゲットの妖を目の前にして逃がすなんて、術者失格だ。なんて失態だ――。
彩華が額に手をあて呻いていると、黒い影が音もなく近づいた。
「あやか――」
虚空から降ってきた声に肩を揺らす。どうして名前を知っているのかと尋ねる前に、続いた男の言葉で自分の勘違いだったのだと理解する。
「妖、逃がしたな。追うか?」
「ぇ……あ、ううん。さっきの致命傷だったし、追わなくても消滅すると思う」
最後に見た妖は、肩のあたりから腕がアスファルトへ落ち、足が砂塵へと変化していく姿だった。その間にも最初に開いた風穴は大きくなっていったのだ。
内側から命が尽きていくさまを思い出して、彩華は顔をしかめた。じわじわと少しずつ死んでゆくなんて、この先も体験したくない。
身震いしてから、彩華は男に目を向けた。その目には剣呑な光が宿りつつある。
しばらく考え込んでいる風の男が、ふいに膝を折って目線をあわせた。
助けてもらったとはいえ、まだ油断はできない。いつでも反撃できるよう彩華が身構える。
「ここ、痛くないか?」
「え?」
思いもよらなかった言葉に彩華の力が抜けた。皮膚が薄く切れて血が滲んでいたのを思い出す。
血を拭おうと伸ばした彩華の右手を男が掴む。胡乱な目つきで彩華が見据えると、男は僅かに顔を傾けた。
「――っ」
生暖かい感覚に、彩華は喉をひきつらせた。頬に触れたのが男の舌だと気づいて顔を赤くする。
「なにするのよ!」
意気を取り戻した彩華の声に張りが出てきた。
「消毒だ」
呆然とする彩華を眺めて、楽しげに男が笑う。稚気満々とした口調からは、その内心は読み取れない。
男が自身の唇についた血を舐めとるように舌を這わせると、彩華の顔が赤みを増した。文句を言いかけるが、言葉が出ずに口をぱくぱくと動かすことしかできないでいる。
「面白い顔だな」
彩華はわなわなと拳を震わせた。男の正体がわからないまま、いきなり殴りかかる訳にもいかない。代わりに全身に霊力をたぎらせて威嚇するが、それをまったく意にも介さず、男は笑みをこぼした。
「……一応、お礼言っておく。どうもありがとう」
たしかに頬に纏わりついていた瘴気は綺麗さっぱり消えた。それに、先ほどの異形のこともある。
「どういたしまして。……と言いたいところだが、他人に簡単に血を与えるなんて何を考えている」
男の目が呆れまじりに語っている。
術者の力の源は、その者の生命力。術を行使するための気力の大元は、肉体を動かすために全身を巡っている血液だ。
そのほか、女の髪にも霊力が宿るという。だが彩華はその理由で長く伸ばしている訳ではない。こちらは巫女の仕事があるために必然的に伸ばしている。
まじないで「おまじないの仕上げにあなたの髪を一本入れましょう」などというものがあるが、あながち間違いではない。力ある者ならば、髪一本、血一滴で何でもできてしまうのだ。
もっともな意見に言葉を詰まらせた彩華は目を泳がせた。
「いきなりだったんだから仕方ないじゃない」
見据えられてしどろもどろになりつつも強気に答えた。今も男は異様な雰囲気を持ちあわせている。しかし内部から優しさと親しみを滲ませる男の気配に、自然と身内に対する態度となる。
「……ほーぅ」
男の声が、急に低さを増した。艶冶な笑みを浮かべるその姿は魔性にも思える。
一睨みされて、蛇に睨まれた蛙よろしく身を竦ませている彩華は、息をするのも忘れるくらい硬直した。
身体中の毛穴が開いて震えが走るような感覚に恐怖を覚える。少しでも動いた途端に切り刻まれそうだ。
目を細めて笑うその表情は、殺戮を楽しむ異形とはまた違った仄暗さを孕んでいた。
「……そんなに怯えるな。傷つくだろう。オレは繊細なんだ」
優しく触れた指で彩華の髪を梳く。
静かに何度か梳いていた手が頬へと滑る。そうして離れかけた男の手首を彩華が掴んで引き止めた。
引き止めたはいいが、何と言っていいかわからない。しばらく無言だった彩華は指に力を込めると、意を決して言葉を紡いだ。
「どうして、あのひとと同じにおいがするの?」
ドッペルゲンガー。
そんな単語が脳裏を掠めた。気配だけではなく、街灯の明かりに照らされた男の姿は、黒髪に黒い瞳。顔の造形は双子と言ってもよい。
まるで、大きな姿見に詠の姿を映したかのようだ。
見上げる彩華の瞳にはすでに恐怖の色はない。代わりに不安と戸惑いが浮かんでいる。
男は鋭さを消した柔和な眼差しで見つめ返し、
「さて。オレはこの世に生まれたばかりだから知らないなぁ」
などとうそぶいた。
「じゃあ、妖? 彼に成り代わろうとするのなら、わたしは命をかけて阻止する」
月の神を祀る一族の義務ではなくわたしの意志。たとえ敵わなくてもおとなしく引き下がれない――。
警戒心を露にして彩華は眉間に皺を刻む。それは強い決意を秘めた表情だった。対照的に、男は目元を和ませて彼女の鋭い視線を受け止める。
しばしの沈黙がその場を支配した。
やがて何事もなかったかのように柔らかい笑みをたたえた男の顔に、彩華は毒気を抜かれて肩の力を抜いた。
「どう足掻いても偽物は本物にはなれぬよ。安心しろ」
なおも問いかける彩華の唇を、男は人さし指で軽く押さえて黙らせる。そうして顔を傾けると、ふたたび自身の唇で彼女の頬に触れた。
何も言わずに振り上げた左手は、やすやすと掴まれてしまった。悔しげに彩華は呻くが、気持ちを切り替えると男へ向かい直る。
自分をからかって、どこか楽しげだと思っていた男は、軽い口調に反して真摯な視線を投げかけてくる。その理由が朧気ながら見えた気がするが、まだ頭に霧がかかっているようにはっきりとはしない。
でも……と考えを巡らせる。
怪異には違いないが彼は魑魅魍魎の類ではない、と推し量った。それが術者の勘なのか、十数年とはいえ彼と長年連れ添ったからなのかはわからないけれど。
彩華が掴んだままの腕をそろりと外すと、男は名残惜しそうに一度だけ彼女の髪を撫でた。
「お前、ひとりで帰れるのか? 今はまだ時期が悪いから、オレはあそこへ近づけないんだが」
「子供じゃないから大丈夫よ」
幾分か強い口調で答える彩華に対して男は喉を鳴らして笑うと立ち上がった。
「そうか。またな、彩」
優しい声音が耳をくすぐり、彩華は肩を揺らした。
夜闇に慣れた目は僅かな光でも眩しく感じられる。男の背後にあった街灯が急に光を強くした気がして、一瞬目を閉じた。次に彩華が目を開けたときには、すでに男の姿はない。
吹いてきた心地よい風に、艶のある彩華の黒髪が揺れる。
先ほどの不穏な冷気などなかったかのように、澄みきった夜気が辺りを包んでいた。
「緋月、いる?」
言ってから彩華は口を噤んだ。
用があるときは本殿にいるからいつでも声をかけろ、と言われていたのだから「いるか」と声をかけるのはおかしいのかもしれない。
自分自身に笑って、その拍子にバランスを崩して持っていた盆を落としそうになる。間一髪でこらえると、彩華はほっと息をついた。中身は無事だ。
明かり取りの窓が設けてあるとはいえ本殿の中は薄暗い。それに、外よりも幾分か気温が低く感じられる。ひんやりとした空気は、この場所が清浄であると物語っているかのようだ。
本殿の中央あたりまで進むと、彩華は盆を床に置いて正座する。きょろきょろとしつつ気配を探っていると、風もないのに彼女の目の前で渦が巻いた。白銀に緋色が混じったそれは、やがて回転速度を落としてゆく。光の粒子が螺旋を描きながら舞い上がり、彩華が一度まばたきすると、銀色の仔犬が現れた。
「彩華様。お呼びですか」
ゆったりとした口調で緋月が言った。
「うん。緋月にね、お菓子買ってきたの。あと、質問があって……」
彩華が示した方を緋色の瞳で見やり、ふさふさした尾を揺らした。盆に置いてある小皿と湯飲みを見て、人型が適切と判断したのだろう。瞬く間に人型をとった緋月は、彩華と同じように行儀良く座った。
「おいしそうですね」
と言ってごくりと喉を鳴らした――のは、彩華の気のせいだったかもしれない。耳の下で梳くように切り揃えられた髪が、今はない尻尾の代わりにさらりと揺れた。
「ちょうど三重の物産展やってたの」
餅が柔らかくて餡子の和菓子。それでいて神に関係した場所の名物はこのくらいしか思いつかなかった。一口サイズの餅を餡で包んだ和菓子は、たぶん緋月の好みであろうと買ってきたのだった。
柔らかい中にももっちりとした感触は気に入ったらしい。緋月は切れ長の目をさらに細めてもくもくと食べている。
「ごちそうさまでした」
黒文字楊枝を使って食べ終えた緋月は、口直しに緑茶を啜った。
「もっとあるけど持ってこようか?」
残りは家族で食べようと思っていたが、元々は彼のために買ってきたのだ。
彩華の問いかけを緋月は首を横に振って否定した。
「それで質問とは?」
「実はね」
このあいだの依頼の帰り道で起きたあらましを簡略に述べた。今日は公休日だから、あの日の約束を果たしに行こうと考えていたのであった。
月詠神社で供えている神饌用の、予備の食器類はある。
通常は生のまま供えているのだが、調理して供える場合もある。今回は調理した方がいいのだろうかと思い、持ち運びも考えて弁当箱を用意してみた。化学調味料は使わず、奮発して有機食材なども購入した。
舌の肥えた詠が喜ぶ食事ならば大丈夫という確信が彩華にはある。彼を見ていると、供物は生米よりも炊き立ての白米がいいのだろうと思ってしまうのだ。
あとは「これが一番おいしい」と言っていた日本酒。あのときの姿に騙されそうだが、神に分類されるものには人間のような年齢はない。酒は神饌には欠かせないものである。
彩華が気がかりなのは神饌ではなく別のことであった。
簡易とはいえ神の住まえる場所を作らねばならないのだから、まずその場を清めなければならない。一般的な水で穢れを洗い流そうと考えていたのだけれど、その水は神社の井戸水でよいのかどうか、である。
月詠神社本殿の横にある井戸は、霊力あらたかな水が湧き出ている。普段この水は神殿の掃除や禊に使用している。だが、大地の気が流れる龍脈と繋がっていると謂れのある霊妙な水を、他の土地へ持って行って問題はないのか。
「前に聞いたときは、不特定多数にばら撒くようなことはするな、って言ってたから、まずいかなって思ってるんだけど。かといって水道水じゃ効果ないだろうし」
ペットボトルに詰めて売られている天然水も、なんとなく気が引ける。
不安げな彩華の表情を受けて、緋月は目を伏せて暫くのあいだ思案していた。
「空輪山は今でこそ〝枯れた山〟となっていますが、元々は神霊の働きが濃厚な霊地でしたから。理由もなく山と神社の龍脈を繋げるのはいささか危険なのですが……。あなたとの縁ができた今は、むしろ好都合でしょう」
「空輪山ってそんな霊地だったんだ」
霊気をまったく感じなかった訳ではないが、彩華は目を見張った。最後に登ったのは、高校時代の友人とのお花見だったろうか。満開の桜で作られた花回廊が見事だったのを思い出した。
力が弱いとはいえ緑の持つ独特の森気はたしかにあった。不浄のモノを一切感じなかったのはそういうことなのか。
修行不足だなぁ……と口の中で呟いているのを知ってか知らずか、緋月は僅かに目元を和ませた。
「それに大量には使用しないのですから、おかしな影響は出ないと思います」
危惧していた事態は起きずに済みそうだ。ほっと胸を撫で下ろした彩華は、神妙な面持ちで緋月を見やった。
「あとね、もう一つ。詠の――月詠尊の式って、緋月以外にもいるの?」
彩華の言葉を聞いた緋月が訝しげに眉を寄せた。
「そのような話は聞いたことがありませんが……なぜです?」
「あー……ちょっと気になることがあって」
「今の状態と何か関係があるのですか?」
言いよどむ彩華に対して緋月が畳み掛けた。その目には強い感情が篭っている。
なおも問うてくる相手に、彩華は言葉を返せず困ったように眉根をよせた。
「関係ある、と思う。けど、ごめん。これ以上はわたしもわからない」
あの男の持つ霊気は月詠尊と同じもの。これは断言できる。ずっと傍にいた気配を間違えるはずがない。だけど、なぜ同じなのかまでは考えがつかない。誰かに「あれは能力をコピーする妖の類だから退治した方がいい」と言われたら、深く考えずにそのまま納得してしまうかもしれない。
だが、真実を見極めずに先走るのは危険だ。
確かに感じた霊気は、自然の厳しさに似た荒々しいものだった。とはいうものの、その内側に見えた物柔らかな光を無視することもできない。
考えが纏まらず自分自身に苛立った彩華は、膝上で揃えていた手に力を込めた。
「すみません。あなたを困らせるつもりは毛頭なかったのですが」
申し訳なさそうに項垂れる姿がまるで叱られた大型犬のようで、彩華は慌てて頭を振った。
「こっちこそごめん。別に怒ってないから」
互いに土下座するような勢いで頭を下げると、顔を見合わせてからふたりでひとしきり笑いあう。
先ほどとは一転した和やかな空気に、彩華は硬くなっていた表情を緩ませる。落ち着いたところで腕時計を確認すると、盆を持って立ち上がった。
「そろそろ行ってくるね」
「私も行きましょうか?」
「――ううん。荷物もそれほどないし、大丈夫」
一瞬、手伝ってもらおうかとも考えたが、自分の式でもない彼に手間をかけさせるわけにはいかない。
緋月の申し出を柔らかく断った彩華は本殿を後にした。
空輪山の麓にたどり着いた彩華が空を見上げた。
高く澄んだ青空に緑がよく映えている。今日は気温が高くもなく低くもなく、散歩にはもってこいの日であろう。
あとで時間があったら久しぶりに頂上まで行ってみようかと思った彩華は、荷物を持ち直すと、目の前に見える頂上への階段を上りはじめた。
途中で辺りを見回し、誰もいないのを確認すると横に反れる。
人の手が加えられていない獣道を歩くのは少々大変だ。傾斜だから身体が斜めに傾いてしまうのだ。ごつごつとした石や木の根に足をとられそうになりながら慎重に進んでゆく。
木漏れ日の差す薄暗い中を歩いていた彩華は、地面から僅かに盛り上がっていた木の根に気づかずに足を引っ掛けた。
「――っっ」
片足で二、三歩跳ぶように進んでから踏ん張った。どうにか転ばずにすみ、彩華はほっと息をつくと上げていた片足を下に降ろした。トートバッグを開けて中身を確認すると、少し傾けてしまったがこちらも大丈夫なようだ。
胸を撫で下ろし頬にかかった髪を無造作に後ろに払った。耳の後ろあたりから髪の上半分を纏めていたヘアクリップが緩んでいたのに気づいて束ね直す。
木陰を吹き抜けてゆく心地よい風に目を細めた。
ここを〝枯れた山〟と言うのはとても失礼な気がする。弱っているというよりも緩やかな場所、だろうか。霊気のまったくない場所に比べれば十二分に良いところだ。
改めて視れば、気がどこかで滞っているようだ。
「これって直せないのかな」
今まで誰も気にしなかったということは、下手に弄っては駄目か、何らかの事情でそのままにしているのだろうか。
大昔の術者が邪気封じに使用したのかもしれない。悪い影響がなければ他人の術に手を出さないのは術者の鉄則だ。うっかり封じを解いて悪鬼復活、なんて笑えない。
――そうすると、今からやろうとしていることは大丈夫なのか……。
いいやこれも運命だ、と彩華は自分に言い聞かせるように頭を振る。
身体中に巡る空気を入れ替えるように深呼吸すると、ふたたび歩き始めた。
「……」
突然、目の前に白いもやが見えて立ち止まる。
頭に霧がかかったような錯覚に陥った。目を瞑り息を吐き出すと、その違和感はすぐに去っていった。
どうやら結界の類だったらしい。
「……このへん?」
少し歩くと踊り場のような平らなところへ出た。
広さは二メートル四方くらいだろうか。整備した訳ではないようだが、この一帯だけ雑草が生えていない。
目立ったものは山肌の近くにある苔の生した岩だ。他に見えるものといえば、周囲を覆っている木々のみ。薄暗いためか、差し込んでいる一筋の木漏れ日が神々しく感じられる。
注意深く見回すと、岩の近くには朽ちた木の破片が落ちていた。
一番霊力の強いあたりを目指して歩いてきたらここへたどり着いたのだ。間違いないはず。
「やっぱりここだよねぇ」
その呟きに答えたのか、木々がざわめき空気が振動した。
油断していた彩華の両足に、気の塊がふたつ飛んできてぶつかった。痛みはまったくなかったが、その衝撃で前につんのめりそうになりながらも耐える。
『来たか』
『来てくれたのか』
彩華の両足に白い物体が纏わりついている。同時にぱっと顔をあげたふたりは、あの日出会った白蛇の精霊だ。
きゃっきゃと楽しそうに声をあげているふたりをやんわりと引き剥がすと、彩華は膝を折って視線をあわせた。
「こんにちは」
『待っていたぞ』
『待っていたぞ』
あどけない表情のふたりに彩華は笑みを浮かべると、バッグからレジャーシートを取り出し足元へ広げた。
初めて見るのか、精霊たちは興味津々でその様子を眺めている。彩華が酒の入った瓶子と弁当箱を置くと、覗き込んでいる気配がますます楽しげになった。
酒があるから必要ないかとも思ったが、念のためと水筒に緑茶を入れてきた。これも舌の肥えている祭神が好きな銘柄である。
最後に二段重になっている弁当箱の包みをほどく。中には色とりどりの食べ物が詰まっている。
可愛らしい歓声があがった。
「はい。どうぞ」
シートの上にふたり仲良く座り弁当に手をつけた。時々歓声をあげながら上機嫌で弁当を頬張っている。いたく気に入ったようで、見る間に中身が消えてゆく。
その様子に彩華は頬を緩ませた。喜んでもらえたのならこちらも嬉しい。作りがいがあるというものだ。
だが、子供たちが瓶子から酒を注いで飲んでいる姿は、なんとも奇妙な光景である。
でも年齢関係ないんだからおかしくないし、と自分自身に突っ込みを入れて、彩華は気合を入れるために頬を軽く叩いた。
「さて。こっちが本番」
生半可な気持ちで挑めば失敗するかもしれない。
普段の調伏依頼で気を抜くことがないのは言うまでもない。常に気が張っているから意識しなくとも身体が勝手に集中しているのだ。――もちろん油断して無防備になるときもあるけれど。
死と隣りあわせにならない術の執行は気が緩みやすい。だから調伏以上に注意が必要になる。
深呼吸をした彩華は、カーディガンを脱ぐとバッグからもう一つ水筒を取り出した。中身は月詠神社に沸く井戸水だ。
両の肘から手先に水をかけて自身を清める。本当は頭から被った方がいいのだが、全身濡れたまま帰るのは避けたい。
「ひふみよいむなやこと ふるべ ゆらゆらと ふるべ」
右腕を左側から大きく動かして井戸水をあたりに撒き散らした。撒いた水が綺麗な弧を描いて、地面に落ちる寸前に蒸発する。
地面から霊気が立ち昇り、風もないのに彩華の髪が揺れた。一息ついてから一歩前へ進む。
岩に手をあてると強い鼓動が伝わってくる気がする。
安堵から彩華は笑みをもらしつつ、浄化済みの玉石を取り出した。元々は霊地のためか術がかけやすそうだ。
玉石を岩の周りに均等に設置し、指を複雑な形に組む。
ゆるりと神呪を紡ぐ彩華の瞳が虚ろになり、しばらくすると仄かな光がその目に宿る。
霊気に煽られた前髪がたなびいた。
供物を食べ終えた精霊たちが、わくわくとした表情で彩華に近づくが、彼女はそれに気がつかない。
僅かに伏せていた目をあげるとともに組んだ手に力をこめる。
――清らかな音が緑の木立に響き渡った。霊力のない者の耳には聞こえぬその音は、やがて大気に溶け込み消えてゆく。
詰めていた息を吐き出し肩の力を抜く。息を整えるために小刻みに呼吸していると、彩華の後ろで拍手喝采が起きた。
「あー……ありがとう」
手渡された水筒の緑茶飲み干すと小さくため息をついた。やはり慣れないことはするものじゃない。
身体をほぐすように動かしていた彩華は、ふと何かに気づいて視線を巡らせた。
滞っていた龍脈の流れが変わったのを感じた。そのせいか、今まで気がつかなかったものがくっきり視えてくる。
岩から少し離れた草むらから淡い光が浮かんでいるのを見つけた。近づき草をかき分け確認すると、半分土に埋まった平たい物がそこにあった。なぜか、霊力で編まれた籠が上に被さっている。
良く見れば、籠は半分以上壊れていた。
「なに、これ?」
邪気はまったく感じない。
籠の隙間から手を差し込み軽く引っ張ると簡単に取れた。思ってた以上にずっしりとした重量感だ。
『駄目じゃ。それに触るでない!』
「え?」
精霊たちが止めるが時すでに遅し――彩華はしっかりと両手でそれを掴んでいる。
『…………』
あっけらかんとしている彩華に対して、精霊たちは不審な目を向けてからひそひそと囁きあった。
「……そんな、化け物を見るような目はやめてほしいんですけど……」
悪い因縁のあるものには思えないのだけれど、と彩華は手中の物を見た。
彼女の手にあるのは平たい和鏡だ。鏡背の中央につまみがあり、周りには細かい彫刻が施されている。右上に丸い形。その下にあるのは波立つ水。月と海、だろうか。鏡面にはヒビが入ってしまっているが、なかなかの一級品であろう。御神体として使われていたものかもしれない。
精霊たちは眉間に皺をよせて彩華を見上げると、
『なぜ平然としているのだ?』
『もしや邪気は抜けたのか?』
恐る恐るといった風にひとりが鏡に手を伸ばした。
『きゃあ!!』
触れた途端、悲鳴があがった。小さな手の指先が赤く腫れあがっている。
『大丈夫か?』
慌てて残っていた井戸水を腫れた手にかけると、痛みが和らいだのか半泣きの顔で頷いた。
『……なぜ平然としているのだ?』
ひそひそと囁きあうふたりの目が、怪異だ、と語っている。ふたたび問われた彩華は意味がわからずたじろいだ。
「ふたりは、これが何なのか知っているの?」
精霊たちの様子からこれは呪具だったのかと思う。今は、その片鱗も感じないけれども。
顔を見あわせた精霊たちは目と目で相談すると、彩華に向き直った。
事の始まりは何百年も前だった。
その頃は祠も存在していたが、すでに御霊は入っていなかった。否、初めから入っていなかったのかもしれない。
ある満月の夜のことだ。数人の男が空輪山へとやってきた。
ふたりで楽しく暮らしていたというのに、どうやら男たちはこの祠に用があるらしい。
追い返そうと意気込むが、力の差は戦わずとも一目瞭然。仕方なくふたりは草むらへ逃げこんだ。幸い、男たちには気づかれなかったようだ。
草むらからこっそり覗くと、祠の前に祭壇を設けて奇妙な雰囲気の中、儀式を行っている。
それまで辺りに住まう農民程度しか見たことがなかった精霊たちは、男のただならぬ雰囲気に恐怖を感じながらも、興味の方が勝って様子を見続けた。
おどろおどろしい呪詞にあわせるように、どこからか聞こえてくる不気味な声に震えるが、足がすくんで立ち去れないでいた。
どのくらい時間が過ぎたのかはわからない。突然、儀式の途中で祠が壊れた。同時に低い唸り声も消える。
「やはり紛い物は駄目か」
しゃがれた声の男が吐き出すように言った。
男が割れた木片を地面へ払い落とすと、その跡には和鏡のみが残る。
その後も何か言葉を紡いでいたが、よくわからない。ただ、漂う霊気が尋常ではなかったので、精霊たちは事が終わるまで離れた場所に避難したのだった。
――しばらくしてから戻ってくると、男たちはどこにもいない。
鏡だけがここに落ちていた。相変わらず霊気を吐き出しているが、先ほどよりは弱い。あとはふたりの力で封じ込めればいい。
これでもう大丈夫。鏡を見れば、霊気は脆弱になっている。
安心したふたりはまたここで暮らすことにした。
それが半月ほど前に突然爆発したのだ。天も地も揺るがすほどの咆哮が、一度だけ辺りに轟いた。
鏡からは大気が凍りそうな霊気が放出されている。
離れた草むらに隠れた精霊たちは息をひそめて様子をうかがった。
やがて壊れた霊力の籠から、黒い人影が這い出した。ずるりと音がしそうなほど緩慢に立ち上がり、ぎょろりとした鋭い目を動かして周囲を見回している。冴え冴えと降り注ぐ月の影が、暗澹とした雰囲気を醸しだしていた。
ふいにぴたりと止まった視線が、自分たちを見ている。それに気づいた精霊たちは身を寄せて震え上がった。
見つかったら殺される。
一歩、二歩……と近づいてくる影に異様な気配を感じ取った精霊たちは、脱兎のごとく逃げ出した。捕まったらおしまい。本能で理解した。
逃げ出す際に男の瞳が一瞬寂しげに揺らいだのを目に留めた。だが構っていられない。
近づいたら殺される。
捕まったら喰われる。
――あれは、悪神だ。
幸運なことに影が追ってくることはなかった。しかし、逃げ出したはいいが他に住まえる場所は知らない。どの種族にも〝縄張り〟というものが、一応はあるのだ。
どうしようかと悩んだふたりは、そっとこの場へ戻ることにしたのだった。
『運のいいことに影はどこかへ去った後でな』
『ちょっと怖かったが気配も消えていたからな』
顔を見あわせて何度も大きく頷いた。人ならぬものでも怖いものは怖いらしい。少々ふたりの顔が青ざめている。
『鏡は近寄らなければ何も起こらなかったのでな。そのままにしていたのじゃ』
「そうなんだ」
呟いて、彩華は改めて手中の和鏡をまじまじと見つめた。
正しい使い方はされなかったのだろう。けれど、やはり呪具には思えない。僅かに残る邪な念は人間のものだ。周囲への影響はもうなさそうだが、大勢の人間が来る空輪山へ放置したままにするのはまずい。
「これ、預かってもいい?」
『もちろんじゃ!』
『もう持ってこないでくれ!』
即答だった。
よほど嫌なのだろう。力説する精霊の必死さに、彩華は思わず苦笑してしまう。
鏡のヒビ割れに気をつけながら、持っていたタオルで包んでバッグへしまった。さて、これをどうするか。
精霊たちは青ざめたまま和鏡を見つめていた。が、ふいに真顔になったふたりの瞳がきらりと光った。
『――そなたがここへ来たのは天命であったのかもなぁ』
「え?」
『そのうちわかる』
訳がわからず彩華が聞き返すがふたりは笑みを浮かべるだけだ。
――どうしようか。
彩華は考えを巡らせた。
詠がいれば彼に聞くのが一番だろう。だが今は無理だ。神社の書庫に資料がありそうな気もするけれど、空輪山についての話は家族から一度も聞いたことがない。
「うーん……」
この場合は――。
「麻布都が適任なのかなぁ」
こういったことに詳しそうな友人の顔を思い浮かべた。
◇ ◇ ◇
そこは、どこまでも果てしなく続く闇が広がっていた。
光もなければ小さな音すらも聞こえない。ただそこに常闇があるだけの空間だ。
〝天の国〟が花々が咲きほこり、平和がもたらされた清らかな場所であるとしたのは古の人間。救いを求める中で思い描いた夢物語である。誤りではないが、実際は魂を休めるための、ただの空間。
ある者は懐かしい思い出を。ある者は自身の望む偽りの夢を。安らぎの闇の中で、束の間の休息を得る。
その暗闇に青白く輝く人影が浮いている。
仰向けで眠り続けるその唇には血の気がない。生きているのか、それとも死んでいるのか。一見して定かでない。その者は、身動きをまったくせずに宙にたゆたっていた。
ふいに、銀の髪が風もないのに揺らめいた。硬く閉じられた瞼の睫毛が細かく震え、だらりと力なく下がっていた指がぴくりと動く。
――何が起きた……?
信じられないといった様子で目を見張った。
例えるならば満々と水を湛えた水瓶。それの僅かなひび割れから少しずつ流れていた精気が、ぴたりと止まった。何をやっても止めることができなかったというのに。
――だがこれで戻ることができる。
深い藍の瞳がすっと細められた。
上半身を起こしかけ、まだ本調子ではないことに気がついた男は、元のように横になった。
心に浮かぶ女の顔を思い出してその唇に僅かに笑みを刻む。
――すぐに、戻る。
そうしてふたたび目を閉じた。




