鏡の月 一
薄い掛け布団の中から細長い指が現れた。電子音を頼りに目覚まし時計を手探りで探している。
目当ての物にたどり着いた指がスイッチをオフにした。
音が止んでから数秒後。のそのそと布団から這い出た彩華は、小さな欠伸をひとつ噛み殺した。目じりに浮かんだ涙を指先で払うと、首を前後左右に動かす。
癖のない黒髪を手ぐしで軽く整えつつ、カーテンと窓を開けた。
部屋中に入ってくる心地のよい風を受けながら、彩華は肩から腕をほぐすように動かした。
身体がひどく重い。
無理な体勢で寝てしまったのかと考えた彩華は、昨夜のことを思い出して動きを止めた。
雲ひとつない晴れた夜だった。なのに、雷がひとつ落ちる音が轟いたのだ。
独特の雷光はなく、何事かと思った彩華は窓を開けて外の様子をうかがった。
――やはり晴れている。
耳を澄ませるが雷の音はもう聞こえない。
なにか霊的なことでも起きたのか、宮司である父の元へ行こうかと思い窓を閉めた瞬間、背後でどさりと音がした。
どこかへ姿を消していた月詠尊――詠が、文字通り転がり落ちてきた。
先ほどまで自室でのんびりと過ごしていた彩華は、突然のことに頭が真っ白になり事態を飲み込めずにいた。
詠が床に這い蹲り荒い呼吸を繰り返している。
こんな風に苦しんでいる詠は知らない。
初めてのことに彩華はどう対処すればいいのか戸惑った。第一、三貴神のひとりと言われている神相手に、人間ごときができることなんてないのだ。
ひどく狼狽して、貧弱ではない男を支える。熱を帯びた身体はいつも以上に重く感じる。
両腕で抱えるようにすると、彩華の首筋に顔を埋める男の息がかかった。
傍にいろ、と耳元で囁く艶のある声に、思わず倒れこんできた彼を突き飛ばしたくなるほど心臓が飛び跳ねた。一瞬硬直して気を取り直して、何とか重い身体をベッドに横たわらせる。
そうしてやっと鼓動の早い心臓を落ち着かせられると思ったというのに――するりと伸びてきた詠の手に捕まった彩華は、あっという間に彼の腕の中へと収まった。
絡みつく腕は、彩華がもがけばもがくほど纏わりついてくる。強い力で組み伏せられて、ぴくりとも動けない。背中が圧迫されて苦しさに彩華の顔が歪んだ。
かすれた声で訴えて、やっと緩められる。
そろりと離れた詠は今にも泣きそうな目をしていると思った。そのまま去ろうとする男を、今度は自分から引き寄せて、抱きしめて。
やっと落ち着いたのか、彩華を見下ろす詠の眼差しに感じていた翳りが消えた。互いの息がかかりそうなほどの至近距離で、ふたりの視線が交わる。
その後のことは覚えていない。眠ってしまったのだろうと彩華は考えた。
ただ、服ごしに触れた肌と唇が熱を帯びていたのは、よく覚えている――。
「彩華様」
「ぅひゃぁ!」
突然声をかけられた彩華は、素っ頓狂な自分の声にバツが悪くなり眉をよせた。気を取り直してきょろきょろと部屋を見回すが、どこにも誰の姿もない。
あんなにはっきりと聞こえたのに幻聴ってことはないよね……と彩華が首をかしげていると、足元で霊力が竜巻のように巻き上がった。銀に近い真っ白な風は、間もなく回転の勢いが弱まって消える。その跡には、銀色の毛並みをした仔犬が、行儀良く〝待て〟の姿勢で座っていた。
辺りに漂う霊気で、これが妖の類ではないということがわかる。仔犬が纏っている神気は、彩華の住まう月詠神社に満ちているものと同じである。
「えっと……緋月?」
多分そうだろうとあたりをつけて名を呼ぶ。
「はい」
銀色の尻尾がぱたりと振れた。よく見ると毛の色は銀ではなく、うっすら緋色がかっている。瞳の色も緋色だ。だから〝緋月〟なのかと納得する。
以前、数回会ったときは仔犬ではなく、詠に似た雰囲気の人型をとっていた。違うのは、髪の長さと表情がないことくらいだろうか。
「私は本殿におりますから、御用があれば呼んでください」
「ん。ありがとう。……彼は、出かけたんだよね?」
緋月の目の前に正座する。彩華が耳の後ろを撫でると、気持ちよさそうに耳をそよがせた。
こんな何気ない仕草もよく似ている。
目を伏せた彩華に対して、緋月が心配そうに見上げた。
「ええ。理由は教えていただけませんでしたが」
「すぐに、戻るよ。きっと」
本音を誤魔化すように彩華は平然を装って答える。
そっと手を伸ばして緋月を胸にしっかりと抱き上げると、柔らかな毛が彩華の顎をくすぐった。
過去にも離れていた時期はある。だがそれは学生時代の修学旅行程度。今回のように期間が決まっていない別離は初めてだ。
何とも思わずに笑い飛ばすことなどできない。
泣きそうになるのを誤魔化すように、彩華は緋月を抱く腕に力を込めた。
「……彩華様。そろそろ離してください」
身をよじって緋月が訴える。
「え? あ、ごめん! 苦しかった?」
両脇に手を入れて緋月を持ち上げると、ぷるぷると犬が水分を飛ばす感じで体を揺すってから緋月が口を開いた。
「いえ、そうではなく……」
言いよどむ緋月に彩華が先を促すと、少し困ったように呟いた。
「あまり密着しすぎると、私が主に殺されますので」
殺伐とした言葉とは裏腹に、緋月の尻尾が軽やかに揺れた。
「…………」
緋月には、はっきりと分かる表情がない。ないから、ぱたぱたと左右に振れる尻尾との奇妙なアンバランスさに彩華が吹き出した。
「おかしいですか?」
「う、うんっ」
ひとしきり笑ってから、彩華は瞳に涙を浮かべつつ弁解をはじめた。
「詠がその姿のときって表情豊かだから、何か変な感じで。動物って表情がないから、別に変じゃないんだけどね」
普段冴え冴えとした月そのものの彼は、あれでなかなか子供っぽい部分がある。変化しているときは特にそうだ。小柄な姿と相まって、さらに幼く見えるのかもしれない、と彩華は独りごちた。
「ごめんね、緋月」
「いえ。あなたが笑ってくださるのなら本望です。あなたが寂しくならないようにと仰せつかっていますから」
思い出し笑いをしていた彩華が真顔になる。
「……そっか」
夢うつつの中で聞こえた「すぐに戻る」という言葉を、今は信じて待つしかない。
これで仕事もしないでグズグズしてたなんて知られたら怒られちゃうもんね、と寂しげな表情をしつつ、それでもしっかりとした声で言葉を紡ぐ。
「ねぇ。ところで緋月って、お菓子とかご飯とか食べられる?」
「それなりに」
左右に振れた尻尾が嬉しそうだと彩華は思った。
食事は必要ないはずなのだが、詠と同じらしい。飼い犬は飼い主に似るのか……と彩華が失礼なことを考えているとは露知らず、緋月は不思議そうな顔で次の言葉を待っている。
「詠と似てるね。食べることが趣味?」
「趣味とは違いますが。私は主の神気から作られた存在ですから、性質は似るでしょうね」
「じゃあ、好きな食べ物は? やっぱり洋菓子より和菓子がいいのかな?」
ふさふさな尻尾が揺れた。艶やかな毛並みは、日の光を受けて時折銀色の輝きを放った。
「餡子は好きです。甘すぎず、きめの細かい餡子は上品で良い。そこに柔らかい餅があわされば、なお良いですね」
緋月が神妙な顔で首肯する。どうやら以前食べた菓子を思い出しているようだ。
その様子がおかしくて、彩華は小さな笑みを漏らした。
紙をめくる音が断続的に続いている。
月詠神社の授与所裏。薄い壁と壁代と呼ばれるカーテンで仕切られた休憩室で、彩華は置いてあった雑誌を斜め読みしていた。
壁時計を横目で確認してみると昼休みが終わる十分ほど前だった。
両手を天井に向けて大きく伸びをすると、目の前にいる巫女に声をかける。
「有紀ちゃん、お茶もう少し飲む?」
「半分くらいちょーだい」
そう言って静かに置かれた湯飲みに緑茶を淹れて渡す。
指先に伝わる緑茶の熱さに湯飲みを落としかけた彩華は眉をしかめた。
うちにあるの熱伝導率が高いなぁ、とぼやきつつ彩華が自分の湯飲みに口をつけていると、
「ねー、上月さんって今こっちにいないんだよね?」
携帯を弄っていたアルバイト巫女の有紀が、唐突にそんなことを言った。
「詠? ……うん。実家に戻ってるよ」
「じゃあーあれってやっぱり他人の空似かなぁ……」
有紀が頬杖をついて呟く。
「空似って?」
雑誌を閉じて彩華が尋ねると、有紀はうーんと唸りながら首を傾げた。そのときのことを思い出しているのか、宙に視線を漂わせている。
話の先を促すと有紀は彩華の方を向き、少し困った風に言葉を続けた。
「昨日、駅前でね、上月さんに似た人がいたんだよね。出かけてるって聞いてたから、まぁ夜だし、そっくりさんなだけかなーと思って」
「そんなに似てたの?」
頬杖をついたままの有紀へ笑いを含んだ声をかけた。
自分と同じ顔の人間が三人はいると言い伝えはあるが、彼にそれが通用するかは疑問である。
「あっちの人の方が怖い感じはあったかな。近づきにくいというか。目があった気はしたけど、すぐにどこかへ行っちゃったから、やっぱり他人の空似なんだろうなぁ」
でも、すんごく似てたんだよねーと湯飲みを啜る。緑茶の熱さに舌を痺れさせながら有紀が言葉を重ねた。
「兄弟とか?」
「んー……兄弟はいるけど、双子みたいにそっくりじゃない」
――と思う、という言葉を飲み込んで彩華が答えた。
だいたい会ったことがないから何とも言えないのだ。詠とは遠い親戚と話しているし、ではどうして会ったことがないのかと問われても、答えようがない。
言いよどむ姿に有紀は気づいていないらしく、彩華は安堵した。
「えーじゃあ、あれが見間違いじゃなかったら、ドッペルゲンガー? ……あ、なんか怖いかも」
浮かんだ考えに有紀が身震いする。
もうひとりの自分に出会ってしまう心霊現象のことをドッペルゲンガーと言う。
鏡には映らない。
正体は自身の魂である。
予知能力があるためドッペルゲンガーを見る。
正体は何かわからないが、本体と入れ替わるために本人を殺してしまう――。
さまざまな謂れがあるが、もっともよく伝わっているのは〝その存在は自分とそっくりでありながら邪悪なモノで、これに本人が出会うのは死の前兆〟である。
「はい、先生。素朴な疑問。日本にもドッペルっているの?」
有紀が顔の横で小さく手をあげた。
「んーと」
突然問われて、彩華は自身のこめかみを両の拳で挟みぐりぐりと揉む。記憶を掘り返しても該当する妖怪は思い当たらない。
「わたしが知らないだけかもしれないけど、いないかな。似たモノはいるけど」
オモカゲと呼ばれる妖怪がそうであるという説もあるが、オモカゲは遺恨を持ったまま彷徨い続けている幽霊に近い存在だ。
幾分か冷めた中身を半分ほど飲み干して、彩華は湯飲みを静かに置いた。残った緑茶にぼんやりと映る自身の顔が、不意に笑った気がして肩を揺らす。
すぐに気のせいと気づいた彩華は、そっと息を吐いた。
「どんなの?」
「たとえばね……」
たとえば、人の姿に擬態する能力を持ったモノ。その人間の容姿・性格を完全にコピーして、悪戯程度ならばまだいいが、本人と成り代わろうとする。
映画等で登場するそれら定番の化け物は、ドッペルゲンガーとは違うと思う、と彩華が答えた。
「そっか。その、見かけた人。見た目は冷たそうだったけど、悪人には思えなかったし、ただのそっくりさんかもね」
「うん」
有紀の言葉を肯定して頷きながらも再度思案する。
ただの人ならば異形の可能性もあるが、彼は別格だ。神の御霊を模写するなんて芸当ができるのならば、それは相当な力の持ち主であろう。
本当に他人の空似ならばそれで問題ないし、少し調べた方がいいのかもしれないと彩華は独りごちた。
術を使用して幻影を見せるのではなく、そっくりそのままというのは難しいはず。だから月詠尊のコピーではないと思う。
だけどもしそれが可能だったとして、と思いついた彩華が眉をひそめた。
「どうしたの?」
「…………。彼の姿をコピーした妖が出てきたとして、それが悪意持ってない方が怖いかも……」
「なんで?」
有紀がきょとんと聞き返す。
「あんな大食いがふたりも居ついたら、うち破産するよきっと」
同じ性質を持つ者がふたり。必然的に高村家の居候となるだろう。ひとりでも大変なときがあるというのに、それが増えたらどうなるのか――。
彼の食べっぷりを知らない者は、この神社にはいない。
真顔だが目が笑っているのに気がついた有紀がぷっと吹き出した。思っていた以上に大きい笑い声を出してしまい、慌てて声を殺す。
どうやら授与所側には聞こえなかったらしい。視線をあわせたふたりは、ほっと胸を撫で下ろした。
「じゃーそろそろ食費稼ぎに戻りましょーか?」
おどける有紀と顔を見あわせて彩華は密かに笑う。
手早く休憩室を片付けると、仕切りの壁代をそっと開けて授与所側を覗いた。
今日は晴天で風も暖かく気持ちのよい日だが参拝者はまばらだ。知名度の高い神社ならば毎日のように祈祷が行われているであろうが、祭事や行事がなければ月詠神社はさほど忙しくはない。もっとも、外法師の仕事である怨霊退治が立て続けに入ってくれば話は別だ。
彩華の父親である宮司は、すでに前線からは退いている。兄の咲也も術者であり、いずれ月詠神社を継ぐことになっているが、外法師ではない。
将来的には彩華も神職の資格を取ることになるが、中心の仕事は怨霊退治である。古の時代よりは異形の数も減ってきているとはいえ、怨霊の類は今だ少なくないのだ。
陽のある場所に陰がある。昼は明るく夜は暗く。男がいて女がいて――そして、人がいる場所には妖が存在する。
すべての現象は相対する陰と陽から成る。陰陽思考に基けば、いつか詠が言っていたように〝一掃〟しなければ妖が消えることはない。
少々げんなりとする考えを頭の隅に追いやって、彩華は硬くなった顔を軽く揉みほぐしてから移動する。
「彩ちゃん、お札が少なくなってきているから先にお願い」
授与所番の交代のため顔を出した彩華に、巫女が声をかけた。
「ん。わかった」
外へ出た彩華は降り注ぐ陽の眩しさに僅かに目を細めた。数回瞬きして視界をはっきりさせる。
自宅方向へ歩きかけて、ふと立ち止まり本殿を見やった。澄んだ青空の下、本殿は威風堂々と佇んでいる。神社周囲の緑も、いつも通り生き生きとしている。
神社に満ちている神気に変化はない。問題があれば、まず宮司が気づくはず。何も聞かれないのだから通常の状態なのだろう。
「だけど」
ぽつり呟いた。術者の勘なのか心がひどくざわつく。
青空とは裏腹に、不安の渦が広がってゆくのを感じた彩華は唇を噛みしめた。
ただの思い違いならいいけれど――と。
澱みない口調で神呪が紡がれた。
言霊にあわせて彩華から放出される純粋な霊力が大きく広がり、その場の瘴気を一気に消し去った。
目の眩む白銀の閃光が辺りを覆いつくし、それが消失すると柔らかな陽の光が窓から差し込む。
「よし、完了」
仕上げにぱん、と手を打つ。小気味いい音が響いた。部屋を見回した彩華は後ろを振り返る。
ドアの影から、この家の住人が不安げに覗いていた。彩華が全て終わったと伝えると、緊張が緩んだのかその場に座り込んでしまう。慌ててその身体を支えると、最初に通された居間へと移動する。
はっとして、深々と礼をとった依頼人の顔には焦燥の色があった。全身の力が抜けたような状態のまま放って帰る訳にもいかず、落ち着くまで傍にいることにした。
この辺りは比較的平穏な場所だ。問題のモノは綺麗さっぱり祓った。よほど悪質な呪具でも置けば話は別だが、普通に暮らす分にはもう心配はない。
やがて気持ちが静まったのか、青ざめていた顔に赤みが差したのを確認した彩華は依頼人の家から退出した。
「あ……ちょっと疲れたな」
たいした力の持ち主ではなかったが少し眩暈がする。
「どこかで休んでいこうかなぁ」
心なしかお腹が減っている。
食事はすべてのエネルギーの源だもんねと思いつき、彩華は苦笑した。思考がまるでうちの御祭神のようだ。一緒に暮らすうちに似てしまったのかもしれない。
一番良い回復方法は神聖な力が溢れる霊地へ行くことだ。特に色濃い緑は清浄な空気を生み出しやすいのだ。かといってどこでも良いわけでもない。彩華の場合もっともしっくりくるのは、やはり生まれ育った月詠神社になる。
立込むときは怨霊退治ごとに帰ることはできないし、出先で手っ取り早く回復するには食事をするのが効率よい。
「……やっぱり帰ろう」
今日は特別寄りたいところもない。早く休めるならその方がいいだろう。
張り詰めた筋肉をほぐすように肩を動かしてから、彩華は四方をちらりと見やった。念のためと外から今一度霊視し、その場を後にした。
太陽が西に傾き、空が赤く染まり始めると、遊びに興じる子供たちの声がまばらになってきた。
「おーにさーんこーちらー。てーのなーるほーうへー」
鬼ごっこをしているのだろう。歌うように掛け声をあげる子供の声に懐かしさを感じて彩華が微笑んだ。広くて動きやすい境内で、幼い頃よく遊んだものだ。隠れるために友達と本殿へ侵入しようとしたところを父親に発見されて、ひどく怒られたのを思い出し苦笑いする。
今は近所に住む子供の数も少なくなり、遊ぶ声が聞こえることも滅多にない。
声のする方に目を向けるが、子供の姿は見えない。徐々に遠ざかってゆく声を名残惜しそうに見送ると、自宅へ向かって歩き出した。
鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
黄昏 手招き 子守唄
かがめの影には つつしみて
常夜 現世 端境
鬼さんこちら 手の鳴るほうへ――
子供が言うには物騒な言葉の羅列に立ち止まった。
呪詞の類ではないようだが〝あの世とこの世が入れかわるから、鏡の影に気をつけろ〟とは、穏やかでない。
注意深く周囲の気配を探った彩華は、妖の気配を察知して勢いよく振り返る。――が該当するモノはいない。
「……気のせい……?」
歩きかけ、突然訪れた静寂に足を止める。
静かすぎて耳鳴りがするほどだ。それに、不思議なくらい人気がない。
背中を冷たいものが流れてゆく。景色はよく見知ったものだが、異空間に取り込まれたのかと彩華は神経を尖らせた。
だがすぐに肩の力を抜いた。感じるのは神の霊気に似ている。
『鬼だ』
『鬼じゃ』
可愛らしい子供の声が背後から聞こえた。
ゆっくりと振り返った彩華は、目線を下げる。声の主を視界に捉えると顔をほころばせた。そこには年の頃は五、六歳くらいの、真っ白い着物を身につけた子供がふたり立っていた。髪も肌も透き通るように白く、目が赤い。
『そなたに鬼が憑いておる』
『憑いておる』
「鬼?」
彩華が首をかしげると、ひとりの子供の目が光った。
子供は笑いながら屈むと、彩華の足元に右手を伸ばし、何かをつまみ上げた。モグラに似た黒い影が逃げようと身を捩っている。そのモグラがしゅうしゅうと音をたてて牙を剥いた。時折、口から瘴気が漏れてくる。
子供が目の前にそれをぶら下げると、まるで鏡のように赤い目に妖の姿が映った。
『いただきます』
子供が顔をあげると、顎の辺りできっちりと切りそろえられた真白い髪が揺れた。
右手を高く持ち上げて大きく口を開く。口の中へ落ちた妖を、喉を鳴らして飲み込むと満面の笑みを浮かべた。
食事にありつけなかったもうひとりはその様子を興味深そうに見ている。
『うまいか?』
『うまいぞ』
『いいなぁ』
小さな口から覗く舌先は二股に分かれていた。
『もう一匹おらんかなぁ?』
『――おらんなぁ』
きょろきょろと辺りを見回して残念がっている。
「ありがとう。今のどこから拾ってきたんだろう」
疲れているせいか、まったくわからなかった。
『まだまだじゃのう』
ふたり揃ってにんまりと笑みを浮かべた。得意げなその姿は小動物を思わせてとても微笑ましい。
「うちの祭神にもよく言われます」
一生懸命首を反らせて見上げている姿が苦しそうなのに気がつき、彩華は膝を折って目線をあわせる。
『我らかが《・・》の目は何でも映すぞ』
「かが?」
『んーと……今の言葉で言うと、蛇のことじゃ』
『そうじゃ』
くりくりとした愛らしい蛇の瞳が光を反射した鏡のように一瞬輝いた。
つぶらな瞳がじっと彩華を見つめ、
『――そなたの神は今不在か?』
「ええ。……そうです」
急に問われた彩華は目を伏せた。
『なに。じきに戻られるであろう』
赤い瞳が優しい光を放った。
気を使わせてしまったかと少し笑って彩華は話題を変えた。
「ふたりは、どこから?」
『あっちじゃ』
「あっちって――空輪山?」
『そうじゃ』
月詠神社のある蓮見市は、首都機能が置かれている都市中心部から少し離れていて緑樹が多い。
神社から北西に位置する場所に〝空輪山公園〟と呼ばれる小山がそびえ立っている。元はただの山であったが、数十年前に整備されて公園として開放された。春には、敷地内に植えられた桜が一斉に咲きほこり、毎年見る者の目を楽しませている。頂上までの人道には桜の木が植えられていて、桜の綾なす花回廊は見事だ。
遠くから見ると宝珠のような形をしているため、地元住人には〝桃のお山〟などとも呼ばれている。
「あそこには祠とか神社ってなかったような……」
『昔はな、あったのじゃ』
彩華の呟きを聞きつけて寂しそうに顔を曇らせた。
昔は山や森など自然を畏れ〝神社〟とみなしていたが、今はたいてい社殿が設置されている。安全祈願のために山にも造られることが多いのだが、空輪山は聞いたことがない。
「昔はあった?」
『小さな祠であったがな。御霊は入っていなかったから我らが使用していたのだ。あれはなかなか居心地が良かった。人道から外れているから、いつの間にか忘れ去られて損壊したままなのじゃ』
『かといって他の土地へも行けぬからのぅ』
どうやらふたりは蛇神ではなく空輪山に生まれ落ちた精霊のような存在らしい。移動はできても拠点となる住処は変えられないということなのか。
『そなた、簡単なものでよいから我らの祠を創ってくれぬか?』
『欲しいなぁ』
ふたりの目には期待の色が浮かんでいる。
「うーん……難しいなぁ」
勝手に神社や祠を創る訳にはいかないだろう。
神社庁に無断でもいいのかわからないし。でも属さない神社ってのもあるんだっけ……?
期待と希望に輝いている瞳を無視することもできずに、彩華は頭を抱えて悩んだ。
「神の降りる場所を創って、結界張るくらいなら大丈夫かな」
別に、目に見える身体が中に入れるような建物は必要ないのだ。外部と切り離した神域ができればいいのだから。それに、一介の外法師ができることはその程度だ。
『それなら、祠のあった場所に大きな岩があるぞ』
このくらいじゃ、とひとりが両手を広げた。その大きさはマンホールくらいだろうか。
「じゃあ、その岩を利用して。どこまでできるか心配だけれど、それでいいのなら」
しばらく唸ったあとで彩華が答えた。
『十分じゃ!』
『あとな、供物も欲しいのじゃが……』
上目遣いでおずおずと見上げる仕草に笑顔で頷く。
嬉しそうな声があがった。
手を取りあってくるくると回りながらはしゃぐ姿に、彩華はさらに笑みを濃くする。
『楽しみじゃなぁ』
『本当になぁ』
そう言うと、まるで吸い込まれるようにふたりは夕暮れの空へと消え失せた。
「――ふぅ」
姿が見えなくなると、遠くで自動車の走り去る音が聞こえた。
結界用の玉石はうちにあったはず。あと必要なのは――。
思案しているところでクラクションが鳴った。道路の中央に突っ立っていたのに気がつき、彩華は頭を軽く下げながら端へ移動する。
「半人前が安請けあいするなって怒られそうだけど」
乾いた笑いを力なく吐き出す。
彼が戻ってきたときに結界の綻びがないかの確認を、どうやってお願いしようかと思いあぐねた。
※補足説明※
端境:正しい読みは『はざかい』
語呂が悪かったので『はたさかい』としました