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たいじや  作者: 葉月
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鏡の月 序章

 眠りから覚醒した青年が目を開けた。

 本来は眠りなど必要としていないが、触れる肌の心地よさに意識を飛ばしていたらしい。

 ゆったりとした動作で起き上がろうとしたが、身体を優しく包み込んでいる細い腕に気がつき動きを止める。

 横で穏やかな寝息をたてている女の柔らかい黒髪を撫でて目元を和ませた。普段の凛々しさのある表情はどこにもなく、今はとてもあどけない顔だ。その華奢な肩を引き寄せて一度抱きしめると、起さぬように細心の注意をはらい、自身に絡みつく女の腕を解く。

 名残惜しそうに女の髪に口づけベッドから降りた。その拍子にずれた薄い掛布団をかけ直して、ベッド横に片膝を立てて座る。

 男の深い溜息が静寂の中に響いた。

「……人間界が長すぎて耄碌もうろくしたのか俺は」

 自嘲気味に吐き出し僅かに汗で湿った前髪を掻きあげた。

 身体を蝕まれるような感覚は初めてだ。近いうちに起きる月蝕の影響など、過去にも未来にもありえないことだ。

 月蝕は頻繁にはないが、よくある自然現象のひとつである。厄災や異変の前触れと考えられていたのは古の時代。必ずしも天変地異が起きるわけではない。

 ――だが自身に異変が起きている。

 月が蝕まれる、とはよく言ったものだ。

 夜空を煌々と照らしていた月が欠けていく。

 夜を統べる月が影に侵食されていく。

 生きながら精神を喰われるというのは、こんな感覚なのだろうか。

 男は苦しさを耐えるように爪をたてた。荒く乱れた呼吸を繰り返し、片膝に頭を乗せて目を閉じる。――やがて顔をあげた男の目には仄暗い光が宿っていた。

「……そろそろまずいな」

 原因がわからぬうちはどんな影響を与えてしまうのか計り知れない。

 ――いや、心当たりは、ある。

 目を伏せた男は奥歯を噛んで自身を呪った。

 たいしたことはないと高を括って放っておいたのは俺か。

 歪な笑顔を浮かべつつ身体を引きずるように立ち上がり、一度だけ愛しい女の髪を梳いて手を放す。

 声もなく呟いた言葉が空気を震わせた。

 男の輪郭がゆらりと揺れたかと思うと、周りの闇に溶けて消えた。


 何もない空間が歪んで裂ける。その裂けた部分から青白い月光が零れ落ちた。

 現れた長身の男の足が床に着く。人ならざる強い神気を纏ったその男は、背中の中央で緩く縛った長い銀髪をなびかせしばし佇む。

 急に息が苦しくなり歩き出そうとした足を止めた。

 視界がぶれて焦点が定まらない。

「――っ」

 がくりと膝をついた拍子に狩衣の袖が大きくたなびいた。

 頭の中が真っ白になり、思考能力も低下しそうになる。自身がどういった行動をとったのかもわからず、ふと膝をついているのに気がつき愕然とする。

「ここまで弱っているのか……?」

 額に手をあてて呻いた。

 背中に冷たいものが伝うのを感じて血が出るほどに唇を噛む。この俺が翻弄されるとは、と悪態をついて息を吐いた。

 最も清浄な月詠つくよみ神社の本殿ですら不安定だ。身体の中を異形が這うような感覚に不快感を露にする。その瞳には、ふたたび陰鬱な光が宿った。

 前髪から覗く目がぎょろりと動いた。

 男を知る者がいたならば、普段その身に漂わせている雰囲気の違いに驚くだろう。凄みの増した霊力は、今は悪鬼そのものと言ってもよい。

なんじしき神なり」と咎められたこともある。元々、神は荒魂あらみたま和魂にぎみたまのふたつを持ち合わせているのだから、別段問題はない。むしろ自然な状態だ。

 だが、三貴神さんきしんのひとりが闇に飲まれたとなれば話は別だ。滑稽すぎる。

 それが可笑しくて乾いた笑い声をたてた。静まりかえった暗闇の中で、男の声だけがこだまする。

 気が狂れたように哂い続ける声を、どこからともなく吹いた風が掻き消した。

 ――傍にいる、と。

 唐突によく知った声が聴こえた気がして、男は哂うのをやめた。

 深い沼の底へと沈んで消えていきそうになった意識を、甘い声が繋ぎ止めた。彼女がいなければ、今頃どうにかなっていたかもしれない。

 本殿が元の厳かな静寂に包まれた。

 胡坐をかいて座り直した男は、空に向かって小さく、緋月ひづき、と声を発する。

 清らかな風が流れた。

 呼び声に答えたその風は、慕うように男の銀髪をそよがせる。

 やがて穏やかな風は小さな旋風となって男の前に現れた。徐々に弱くなった風は蜃気楼のごとく漂い、発光とともに人型をとる。片膝をついて声の主に深く頭を垂れると、耳より少し長めの銀髪がさらりと音をたてた。

「主よ。何なりと」

 面をあげたその顔は、彼の主によく似ていた。顔だけでなく雰囲気も似通っている。

 緋月と呼ばれた侍従は、主のただならぬ様子に秀麗な顔を強張らせた。

「主……っ」

「騒ぐな。たいしたことない」

 言い切る言葉をうけて黙り込むが、困惑の色が浮かんでいる。盃に溜まっていた水が少しずつ零れてゆくように、主の神気が流れているのを感じ取ったらしい。

「しばらくここを離れる。このままではまともに動けぬからな」

 緩やかな動作で立ち上がった。

 理由も言わず去ろうとする男を緋月は目で追った。黙ったままの主を責めたい気持ちはあるものの、引き止める術もなく口を噤む。

「あれが寂しくならない程度に相手をしてやってくれ」

「――は」

 短く返事を返した緋月に背を向けた男は思案顔で上方を見やる。愛しい女の笑顔を思い浮かべて密かに眉をよせた。

 今度あの笑顔を見られるのはいつになるのか――。

「……あとは頼んだ」

 そうして月詠は、この地から姿を消した。

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