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たいじや  作者: 葉月
5/24

天青の夢 四

 麻布都まふつから連絡が入ったのは、ネックレスを預かって一週間ほど経過した頃だった。

 骨董品を扱う、とある行商人が行方不明だという。最近あまりよくない代物を手に入れた、と業界で噂になっていたらしい。

 普段から良い評判は聞かない行商人らしいが、だからといって人の命がかかっているのだから放ってはおけない。

 しかもこれが凶変の予兆だったら一大事だ。

「それで、そいつがいそうな場所って? ――あぁ、そこ、ね。あんまり近づきたくないなぁ……」

 がっくりと肩を落とした拍子に携帯ストラップの鈴が小さな音をたてて揺れた。

 彩華の膝上で丸くなっている仔狼の尻尾がぴんと張る。スピーカー状態にはなっていないが、相手の声が聞こえているようだ。閉じていた目を半分開けて耳を澄ませている。

 少し尖った気を纏わせている仔狼を彩華があやすように優しく撫でた。

 麻布都が答えたのは、街外れにある幽霊ビルと呼ばれている建物だった。

 一応は立ち入り禁止区域になっているが、夏になると肝試しと称して近づく大馬鹿者達がいる。

 別名、異形の巣窟。

 力ある術者が何度も霊を祓い場を清めているが、霊を引きつける磁石でも埋まっているのか、時間とともに元に戻ってしまう。

 ならばさっさと壊してしまえばいいのだが、過去に実行しようとした関係者が相次いで事故にあい、そのままになっている。

「じゃあ、今から行ってくる――うん。早い方がいいでしょ」

 麻布都と二、三言葉を交わすと電話を切る。

 壁時計を見ると午後十一時半を指していた。

「ちょっと避けたい時間だけどね……」

 呪具も扱う行商人がおそらくいる場所は異形の棲処すみか

 聞けば聞くほどその行商人は胡散臭くていけ好かないが、我が儘を言ってはいられない。

「詠、仕事行くよ」

「今からか?」

 ぱさ、と不快そうに尻尾を揺らす。

 目の据わった狼は、瞬く間に人間の姿へ変化する。

「そんな自業自得な奴は放っておけ」

「じゃ、準備してくるねー」

 聞こえなかったふりをして彩華は部屋を出た。

 普段の調伏退治では詠が嫌がる事は滅多にない。高村家が、外法師が、出会う前から陰陽道を生業としているのをよく知っているからだ。神であってもそれを抑止する事はしない。たとえ死ぬと分かっていても、だ。

 今回は場所が場所だけに心配しているのだろう。

 わたし一人じゃ自信ないし、月詠尊がいてくれて良かったなぁ。

 心の底からそう思い、彩華は祓殿へと足を運んだ。



 夕方の薄暗い頃が逢魔ヶ時――妖が活動し始める時間ならば、真夜中は丑三つ時――魔物が跳梁跋扈ちょうりょうばっこする時。

 郊外にある問題の建物は小高い丘の上にある。

 目的地へ辿り着いた二人は顔をしかめた。荒れ果てた、という表現がふさわしい。

 ビルの壁は今にも崩れ落ちそうになっている。

 空に浮かぶ上弦の月はすぐそこに見えるのに、優しい月明かりは地上には届かない。

 周りを囲んでいる草木は手入れする者がおらず荒れ放題。生い茂ってはいるが瑞々しさは一切ない。どす黒い色をした葉がただそこにあるだけだ。晴れた日には彩華たちのいる街全体が見下ろせるはずなのだが、鬱蒼と茂った草木や妖気によって昼間でも視界が遮られてしまうだろう。

 草木のざわめきが二人の鼓膜を震わせる。

 全てが色褪せたこの空間はまさしく異界。

 力弱き者は失神するか気が狂れる。

「あーもう。この一帯俺が一掃した方がいいんじゃないか?」

「やめてよ」

 物騒な事を言う詠をたしなめる。

 それではわたしまで消えてしまうじゃないか。

 一掃、と言うからには手加減なしなのだろう。詠は心底嫌そうな顔をしている。

 眉間に皺を刻んでいるから間違いない、と彩華は思った。

拍手かしわで程度じゃ無理だなこれ」

 目の前に広がる闇はただ暗いだけではない。

 この地に集まった異形たちの妖気が固まっているのだ。そのためか、蜃気楼のようにビルが揺らいで見える。

 詠が一度拍手を打つと目の覚めるような音が周囲に響いた。黒い妖気が道をあけるように分かれたが、すぐに闇の壁は元に戻る。

「生意気な」

 再度強めに打つが結果は同じ。

 詠の身体から青白い闘気が立ち上ったのを見て、彩華が慌てて声をかける。

「ちょっと、手加減してよ。ビル壊れたらどうするのよ」

 彩華の言葉にちらりと彼女を見やった詠は、その秀麗な顔に似合わない意地の悪い笑みを浮かべた。

「そんなヘマするか」

「いくら神様でもビル復元なんて無理でしょ?」

 情け容赦なく妖を叩きのめすことはないだろうが、念のため諌める。

 神の霊魂が持つ二つの側面である荒魂あらみたま和魂にぎみたま。簡単にいえば、荒魂は人々を祟り、和魂は人々に恵みを与える。

 もう十数年も一緒にいるというのに、稀にみせる荒魂にはいつまでも慣れず、彩華は肝を冷やす。天変地異を引き起こすほどの怒りには遭遇した事はないが、それほど荒々しい時もある。

 彩華の心配をよそに詠が緩やかに手を振り下ろす。

 彼の手から放たれた白光は、二人の周りに漂っていた闇を消滅させた。

 その様子に驚いたのか、妖の気配がざっと二人から離れた。遠巻きに様子をうかがっている。鋭い視線が突き刺さるが、襲ってくる気配はない。かといって安心はできないが。

 詠が先導して、慎重にビルへと近づいた。

「結界はなさそうだね」

 立て付けが悪いのかガラス戸はなかなか開かない。ところどころ割れている。廃墟とはいえ壊す訳にもいかずに彩華は苦労して開けようとする。

 見かねた詠が代わって力を込めた。

「こういう時は男に頼れ」

 軋む音とともに今度は難なく開く。

 建物の中は外よりも暗い。ざぁ……と暗闇が動いた。

 その気持ちの悪さに顔を歪めると、彩華はゆっくりと首をめぐらせた。

 建物は三階建て。妖気が色濃いのは一階奥と三階。

 異形相手では夜陰に乗じて攻撃をしかける、といかないのが辛いところだ。

「時間かけない方がいいな。二手に分かれるか」

「うん」

 申し出を心よく了承する。

 調伏に使う符は普段より多く持ってきた。たとえ一時的としても完全浄化は可能。けれどあまり長居はしたくはない。立っているだけで肌がただれそうだ。

 特に妖気の強く感じる一階を詠が、三階を彩華が担当となった。

「じゃあ、気をつけてね」

 ひらりと手を振って、上への階段へ目を向ける。

「彩華、待て」

 歩き始めた彩華は腕を引かれて怪訝な顔をする。

 身を屈めた詠の唇が、額、両の瞼と押し当てられて、彩華は目をしばたたかせた。

「まじないだ」

「……あっそ」

 確かに先ほどよりも視界がはっきりしているが、この場に似合わない行為に素っ気なく返す。

 詠が離れたので踵を返し階段へと歩いていく。途中、浄化の符を貼るのを忘れない。

 壁に焼けた符の残骸を見つけ、やだなぁと呟く。

 瘴気にやられたのだろう。肌が焼けただれるのを想像して身震いすると、彩華は自分用に符を一枚身につけた。

「どこまでもつか分からないけどね……」

 ないよりはマシだ。

 一歩一歩進むたび、靴底が熔けている気がする。

 歩く時にする砂埃の音が、自分の立てる音なのか、異形が這っているのか判断がつかない。

 姿は見えない妖たちが、金属を擦りあわせた不快な音を出して威嚇している。

 廃墟は調伏退治でも滅多に来ないせいか、普段より鼓動が早いと感じた。

 また一枚、壁に符を貼ると、立ち止まった彩華は深呼吸して精神統一する。

風破ふうは

 くるりと振り返ると同時に術を発動する。

 短い言霊は力を得て、彩華を襲おうとしていた妖は真っ二つに引き裂かれた。残骸も闇に溶けるように消え去る。

 それを見ていた異形たちの双眸が爛々と煌めいた。赤く血走った眼を外法師に据え、えた。

 短い言霊は詠唱時間が早い。しかしそのぶん効力は減る。それに、一体ずつ退治するのは時間がかかりすぎるし、術を小出しにすると意外と早く霊力が尽きてしまう。

 辺りをざっと霊視すると、符を一枚取り出す。

 顎を軽く引いて、彩華は腹に力を込めた。

「臨める兵 闘う者 皆 陣烈れて 前に在り」

 彼女の足元から真っ白い霊力が吹き上がり、風もないのに黒髪が揺れる。

 右手に集まった発光が細長く形を変えた。

 生じた霊気の刃が幾重にも分裂し四方へ放たれる。まばゆい閃光が視界を覆った瞬間、異形の苦しみ悶える叫び声が反響した。

 まぶたの裏に焼きついたような光の残像が落ち着いた頃、彩華はゆっくりと目を開けた。

 一帯に漂っていた妖気は跡形もなく消えうせる。

 先へ進もうと彩華は踵を返したが、違和感を覚えて足を止めた。かすかに音がするのに気がつき足元に目をやる。

 手のひらほどの蜘蛛に似た黒い塊が残っていた。最後の足掻きなのか、靴先に牙をたてている。

 ぱちんと軽く指を鳴らしてそれを退ける。

 ――それっきり何も起こらない。

 壁に浄化の符を貼ると、彩華はその場を後にした。



 生温い風が彩華の頬を撫でた。

 三階まで何なくたどり着いた。正直助かった、と彩華は吐息を漏らす。

 符を多く持ってきたが思った以上に使ってしまった。いざとなれば切り札はあるが、使わないに越したことはない。

 小さく言葉を発すると、彩華の指に青白い炎が灯った。神気でできた鬼火のような物だ。それを掲げて辺りを照らした。

 炎が燃え尽きる三十秒くらいの間にこの階を確認する。

 途中、出会った妖たちは先ほどの調伏を見ていたのだろう。彼女が姿を現すと、慌てて闇に紛れた。

 それでも、離れた場所からぎらぎらとした赤い目で仲間を排除した外法師を睨みつけている。

 隙あれば攻撃しようとしているのかもしれない。

 懐から符を一枚取りだそうとして――やめた。

 陰陽の均衡を無駄に崩す訳にはいかない。外法師に恐れをなして他へ去るのならばそれでいい。異形の力が一カ所に固まらず分散されればそれでいい。必要ならば月詠尊が全てを浄化するだろう。

 妖から目を逸らし歩き始める。

 その時を待っていたのか。背中を向けた彩華に、一匹が牙を剥いて飛びかかった。

 ポケットの中にあった珠を掴み取るや否や一気に力を解放する。

ざん

 鋭い音がしたかと思うと、黒いモノが千々に破れ去った。

 一度だけ耳障りな叫びが上がったが、他に命を捨てようとするモノはいないようだ。

 暗闇に浮かぶいくつもの赤い光を一瞥すると、彩華はふたたび歩き出した。

 ヒールのある靴ではないのに足音が響きそうなほど静かだ。自分の心臓の音まではっきり聞こえそうだなと彩華は薄く笑う。

 目を凝らすと廊下の奥におどろおどろしい雰囲気を纏ったドアが見える。

 それにしても――胡散臭い連中は、どうしてこんなに気味の悪い場所を選ぶのか。

 場の雰囲気が、本来持つ〝気〟を真逆に作用させたり増したりできると聞いた事があるが理解できない、と彩華は顔をしかめる。

 そうこう考えているうちに目的のドアへと着いた。

 一度瞬きして霊視する。何か仕掛けられている様子はない。それでも慎重にドアノブを回す。

「――?」

 少し開いたところで止まった。何かがドアの前にある。

 今は妖の気配は感じない。彩華は強めにドアを押した。

 ごろりとその何かが転がる。

「っっ!」

 不意をくらって彩華はおもわず肩を揺らした。

 人の足だ。靴の大きさから判断すると、男。

 喉を鳴らすと、彩華は人ひとりが通れるスペースを開け、するりと身を滑り込ませた。

 倒れている男の頸動脈あたりに指をあて、ほっと胸をなで下ろす。男は気絶しているだけだ。しばらくすれば目を醒ますだろう。

 彩華は男から離れると部屋の中を確かめる。

 家具らしいものは古ぼけた木の棚とテーブルだけ。怪しいモノを扱う男も、ここで生活する気にはならないようだ。

 棚に近づき一つずつ霊視する。

 この男のような商人たちならば「まだ熟していない」と言うだろう。お近づきになりたくない物ばかりだが、あるだけで災いをもたらすモノはない。

「――ない?」

 違和感に彩華が呟いた。

 麻布都は、最近よくないモノを手に入れたらしい、と言っていなかった?

 では、それはどこにあるのか。

 指に松明代わりの炎を灯らせ再度確認する。

 呪詞じゅしの書かれた符、ウズラの卵ほどの大きさの青い原石、群青色の小さな珠、最高級品と思われるビスクドール、札で封がされた壷……特に気になる物は見あたらない。微量の邪気は感じるが、この程度ならばすぐに浄化できる。

「まさか、もう誰かに売ってるとか……」

 だとしたらまずい。呪具が「熟して」誰かの手に渡っているのなら、自分の手におえないかもしれない。

 入り口付近で倒れている男を叩き起こして問いただすか……と、彩華が思ったその時。

 窓のない部屋なのに、空気の流れが変わった。

 それまで感じなかった妖気に、彩華の身体がぴくりと反応する。

 徐々に邪気が色濃くなってゆく。

 唇を噛んで自分を叱咤する。上手く隠されているのに気づけなかったのはわたしのミスだ。

 棚の中央に鎮座している原石が小刻みに震えだした。その大きさには似合わない強大な妖力を漂わせている。

 霊視しただけでは判断できないが、サファイアだろうとあたりをつけた。

 万物は善と悪の両方備えている。聖なる天空の青を象徴するサファイアであるが、邪悪な呪具に作り変えられたのだろう。一部の地域では不幸をもたらす凶星の〝土星の石〟とも呼ばれているのだ。

 顎をひいて、一カ所に集まる邪気から視線を外さずいつでも動けるよう身構える。

 均衡を先に崩したのは妖だった。

 何の前触れもなく、突然の重力が彩華を襲った。床に沈みかけそうになるのを必死に耐える。

 妖が人の型をしていたならば、口を歪めわらっているにちがいない。

『取引をしよう』

 頭に直接語りかけられる声に、彩華は青玉せいぎょくを見つめる。

『お前の望みを叶えてやろう』

 望みなんて、ない。

『お前の望みはなんでも叶えてやろう』

 妖は自身の力を増幅させるためにさまざまなものを取り込む。

 人の精を喰らい、霊力の糧とする。しかし神の加護を得た者は、強い守りもしくは強靭な精神を持っている。妖はそれを崩そうとして揺さぶりをかけてくる。

 よって常に強い意志と覚悟を持て、と。

 彩華は幼いころ何度も聞かされた言葉を思い出して唇を噛んだ。

 このような怨霊退治を生業としているのだから、死ぬ覚悟はとうの昔にできている。なのに震えが止まらない。

「そんなもの……」

 問いかけに答えてしまえば術に捕らわれる。分かっていたのに言葉が漏れた。

『あるだろう? たったひとつ』

 彩華の右手が震えた。

 瞬きもせずに凝視する。

 目に見えない手が自分の髪を撫でている気がして、彩華は一歩後ずさった。

『叶えてやろう』

 また一歩。

 突然、彩華の身体が硬直する。

 捕らわれた、と認識した時はすでに遅かった。

 妖の嗤う声に耳を塞ぐ。

 しかし彩華の身体がびくりと震え、彼女の意志とは関係なく腕が下へ落ちた。

 金縛りにあったかのように、唯一自由な目だけを動かす。

「望み……」

 ――ある。ひとつだけ。

 妖しい光を放つ妖を見つめる彩華の目は、幾分か虚ろだ。

「そんなの、自分でどうにかする。あんたの力なんて、借りない」

 脳がとろけそうになるのを必死に耐えて、彩華は妖を睨みすえる。気を抜いたら一気に取り込まれそうだ。

 気を紛らわすために強く握った掌に爪が食い込むが、彩華は痛さに構わずさらに力を入れる。

 不快な笑い声が室内に響いた。

『一人でどうにかできるのか? できないだろう。だからその力と引き換えに望みを叶えてやるというのだ。他の誰も関与しない、お前だけの願望を』

 ひとの弱みを見つけて、ひたすらそこにつけこむ。

 妖が望む通りの夢を与えてやると持ちかける。だが、それは甘い毒だ。心地よさに身を委ねたら最後。甘い甘い夢の中で自分が死んだことも分からず、妖に魂を喰われるか、転生もできずに永遠に彷徨い続けるかだ。


 ――わたしはただ、あの人と幸せになりたいだけ――。


 いつか感じた思念は……あれはわたしの願いだ。気がつけば常に傍にいる存在が大きくなりすぎている。見捨てられたら、たぶん発狂する。

 きつく握っていた彩華の手が緩む。腕をだらりと下げ微動だもしない。

 元々は神の気まぐれで一族と契約したのだ。月詠尊と関係があった訳ではない。神は本来、何ものにも制約されない自由な存在である。いつでも立ち去ることができる――。

 彩華の身体がゆらりと傾いた。

 心地のよい誘いに意識を飛ばしかけ、彩華が瞼を落としかけた時だった。

「――そこまでだ」

 凛々しい声が闇夜を裂いた。

 姿は見えなくても誰なのか分かった彩華は、ぎくりと身体を強張らせた。途端に金縛りが解け、ずるずると冷たい床に座り込む。

 彩華は身体が僅かに震えているのを感じて、それを誤魔化すように自身の腕に爪をたてた。

「こんな小物の誘いに乗ってどうするんだ、お前は。……まぁ、俺のせいではあるのか」

 この場に似合わない和やかな声で青年が呟いた。

 威風を纏った月の神は、自身に向けられる殺意を無視して、真っ直ぐに彩華の元へと歩いてゆく。少しだけ膝を折り、力が抜けて立てない彼女の腕を取ると引っ張った。

 なすがままの身体を左腕で支えて耳元に囁く。

「すぐに済むから、しばらく目を瞑ってろ」

「……うん」

 いささか困惑した表情をしていたが、穏やかな空気に包まれて安心したのか、彩華は素直に目を閉じた。

 詠は優しい眼差しで見つめると、

「さて」

 先ほどとは一転して、鈍く光る塊を冷たく見据えた。



「こいつに手を出さなければ見逃してやってもよかったんだが、な」

 動きもせず、言葉も発さず、ただ時が過ぎるのを待っているかのようだ。

 詠が右腕を伸ばして石を握りこむと、逃れようとがたがたと暴れだす。古い棚が軋んで今にも壊れそうだ。

 必死に抵抗するそれを難なく神気で押さえ込み、さらに力を込める。

「――今度この世に現れた時は相手を選べ」

 ぐしゃり、と。

 断末魔をあげる間もなく、石は詠の手の中で一瞬のうちに粉々になる。指を開くと、どこからか吹いた風が砂粒を攫って何処いずこともなく消え去った。

「終わったぞ」

 彩華の肩に手をあて身体を少し離そうとする。しかし、背中に回された彼女の両腕に力が込められた。

 目を細め、同じように彩華の背中を包み込む。

「……ごめんなさい……」

「何がだ?」

 今にも消え入りそうな声で言ったきり黙りこんだ彩華に問いかけるが、答えは返ってこない。

「詠を裏切ろうとした」

 縋りつく腕が小刻みに震えているのに気がつき、詠は背中を撫でながら再度声をかけた。

「浮気くらい俺は気にしないが」

「……真面目な話してるの」

 茶化した物言いに、彩華は伏せていた顔をあげた。いくらか普段の調子が戻ったのか、僅かに眉をよせている。

「だから、その程度のくだらないものは気にしない。欲を剥き出しにしてこそ人間。感情を持たない人形は要らぬ。――道を誤ったら俺が正してやるから、何度でも踏み外せ」

 真顔で言い切る詠に彩華がたじろいだ。

 不行状ふぎょうじょうを勧める神など邪神以外いない。何を言っているのと目で訴えている。

「いや……。お前が心配しているのは俺の心変わりか。気に病むのは時間の無駄なんだが――ならば輪廻りんねの道から外れて俺の傍にいるか?」

「え?」

「人間でいることを辞めて、俺に魂を預けてずっと傍にいるか? それでお前の気が安らぐのならそうしてやる」

 柔和な眼差しを彩華に向けて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「だが俺はそうはしたくない。知り合った人間が自分を置いてこの世を去っていくのは、なかなか堪えるぞ」

 命を助けてやる力がないわけではないが、ただ最期を見守るしかない。

 目の前で愛しい人が死にそうになっているからといって、己の感情のまま天命を変える事はできない。

「……詠は」

 そこまで言って彩華は躊躇する。

 一瞬の間のあと、意を決したように続けた。

「詠は、ずっとそんな想いをしてたの?」

 返事はなかった。

 代わりに、彩華の両頬を包み込んで仰がせる。

 不安げな表情を滲ませた彼女の額に、瞼に、頬に、唇を落として。最後に薄く開かれた唇を塞いだ。

(むつ)むなら、こんな廃墟は避けたかったな」

 少しばかり頬を赤く染めている様子に微笑み、吐息が触れ合う距離で囁く。

「心配しなくても、俺にはお前だけだよ」

 密やかな声は彩華の耳には届かなかった。聞き返す彩華に、詠は微笑んだだけでそれ以上は何も言わなかった。

 抵抗する間も与えずに、今度は深く深く口づけて、こぼれる批難の言葉すべてを吸い尽くす。

「悪夢は忘れてしまえ」

 そうして、優しく瞳を覗き込んだ。

 二人の目線が絡みあった瞬間、彩華は身体を震わせると目線を逸らそうとする。だが、詠の行動はそれよりもごく僅か早い。

 ぼんやりとした彩華の瞼が徐々に重くなり、次第に視界を暗闇が覆う。急な眠気に驚いて、彩華は慌ててかぶりを振った。

「まって。まだききたいことが」

 必死に耐えようと詠の背中にしがみつくが、不思議と身体から力が抜けていく。

 暖かく優しい気配に身を包まれて、彩華は完全に意識を手放した。

「――心配しなくとも俺にはお前だけだ。たとえお前が嫌がっても手放すつもりはない」

 すでに深い眠りについている彼女に聞こえることはないが言葉を紡ぐ。指で梳いた黒髪は、艶やかな絹糸のようであって、頑丈な鎖のように絡みつく。

 ただの暇つぶしのつもりが、あのとき捕らわれたのは天運か。

 自嘲気味に喉を鳴らすと、彩華を優しく抱え直した。

 視線を巡らせ――ふと、小さいラピスラズリに気がついた。

 目を細めて考える仕草をし、何か思い立ったのか手を伸ばす。石に触れると微量の静電気が走った。それで、理解する。

「……あいつの見立ては間違っていなかったか」

 間違うはずはないと分かってはいるが、こう思い通りに事が進むのは面白くない。

 詠は青い小さな珠を摘み上げると、シャツの胸ポケットに落とし込む。

「しばらくの間ここで我慢しててくれ。お前の望むようにしてやるから」

 鈍く光る珠に囁き、気を失っている彩華の身体を優しく抱き上げて歩く。

 途中、倒れている男の姿が目に入った。生きていると分かっているから、一瞥いちべつしただけで何もしない。

 詠が歩いた後に微細な光の欠片が流れ落ちた。それが輝き渡る銀紗幕ぎんしゃまくとなり、広がる瘴気を呑みこんでゆく。

 商人が集めたらしい呪具類は、音もなくばらばらになった。

 建物全体に巣食っていた妖たちが騒ぎ立てる声を聞く者がいたならば、恐ろしさに震え上がっただろう。それほど気味の悪い異音が辺りに轟いた。

 神気から逃げ切ったモノもいれば、真っ先に浄化したモノもいる。浄化を免れた妖たちは、どこぞへと立ち去ったのか、暗闇に紛れてゆく。

 のたうつ妖たちは、やがて海の藻屑のように果てた。



 しんと静まり返った場所に足音が響く。

 屋上へと続く鉄の扉は、錆び付いた音を立てながらゆっくりと動いた。

 緩く吹く風を一身に受けて詠は目を細めた。どんよりとした厚い雲は晴れ、群青の空が広がっていた。

 中央辺りに立つと、膝を折って腕に抱いていた彩華をそっと横たえる。アスファルトに直にではなく、若干、宙に浮いた状態である。

 規則的な寝息をたてている彩華に微笑み、その真横に片膝を立てて座る。

 軽く空を見上げた詠の唇が、人の耳には聞こえない言葉を紡ぎ、す……と緩やかな動作で右手を掲げる。

 何もない空間から詠の掌に青いネックレスがこぼれ落ちた。彩華が麻布都から預かった例のネックレスである。

「ご苦労。あとはいい」

 あるじの言葉を受け、月の神気に似た気配は一陣の風と共に消え去った。

 受け取ったネックレスをちらりと見やると、胸ポケットから青い珠を取り出し、片手で器用に紐に通す。

 呪具というものは一カ所に集まりやすい。付喪神が憑いていなくても、不思議なことに勝手に移動している。

 負の気が強い場所へ。呪具じぶんを必要とする人間の元へ。そして、本来あるべき場所へと帰りたがり、それが可能な場所を捜し出す。

 目の前にネックレスを掲げると、再度詠の唇が動いた。

 満天の夜空を切り取ったラピスラズリのネックレスは、陰湿な雰囲気を立ち上らせていたが、今は神気を反射してきらりと輝いている。先端から徐々に形が崩れていき、金砂となったそれは下へは落ちずに舞い上がった。

 付喪神とは違い魂は宿っていない。あるのは持ち主の強いおもいのみ。

 光の粒子は心残りがあるらしく、詠の頭上で渦を巻くように漂っている。

「……情けをかけてやる」

 お前の望む夢を与えてやる。それが偽りのものだとしても。

 ついと手を翳すと、柔らかな青白い光が流星に似た軌道を描いて上昇する。金砂と交じりあい、天空で琴を思わせる音を奏でた。

 その霊妙な楽の音に、詠は目元を和ませる。

 楽しげに乱舞していたその光は、満足したのか闇夜へと溶けていった。

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