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たいじや  作者: 葉月
22/24

天の盃 七

 しばらくして、行く手に山の頂が見えてきた。山と言っても、せいぜい小山か、丘程度の標高しかないのだが。

 流れてきた雲によって月が隠れた。幾分か辺りが暗くなる。

 彩華は夜空を一瞥して、

「……騒がしくなっても平気かな」

 あの場所に棲むふたりの子供の姿を頭に描き呟いた。

 目指すは空輪山くうりんやまだ。近場でそれなりに広い場所。なおかつこちらに有利なところとなると、選択肢は少なくなる。

 話はつけてある、と月影が言った。

月詠こっちえにしを結んだんだ。元々気脈が乱れていたのを正してやったんだから、それなりに手伝いはして貰わなけりゃ――」

 月影が突然ぴたりと止まり、口を閉ざす。少し遅れて湿った空気を肌に感じた彩華が足を止めた。

 息を詰めて様子をうかがう。静まり返った辺りからは何も聞こえない。

 ――否。

 ガサガサともズルズルとも聞こえる物音が近づいてきた。

 背中に冷たいものが流れた気がして、彩華は思わず身震いする。

 漆黒の闇に、妖気が満ちる。

 彩華の顔にさっと緊張が走った。後方から駆け抜けてゆく風が髪を乱す。

 風は生温く感じた。

 すかさず振り返った彩華は、塵が入ったのか、反射的に目を瞑る。

 少しだけ目を赤くしてすぐさま前方に向き直る。

 言葉も、視線すらも交わさずにふたりは走り出した。

 次の瞬間、背後からガンッ、という音が聞こえた。続いて、重量がありそうな、鈍い金属の音がした。

 気にはなるものの、振り向いている暇はない。

 もう一度、重い金属音が後方で聞こえた。感じる妖気は、距離が縮まっているものの、まだ少し離れている。

 じわじわと追ってくるモノを確実に連れて空輪山へと行かなければ――。

 ふいに、彩華の身体が僅かに傾いで、動きが遅くなった。眉間に皺をよせて懸命に足を動かすが、とうとう止まってしまう。

「ばかたれ。こんな陳腐な仕掛けに捕まってどうする」

 地面に降りた黒猫は、暗闇を睨みすえてから彩華を一瞥する。

「ごめん」

 月影の叱責に、彩華は短い返事しか返せない。全身を蝕む倦怠感のせいで、思うように身体が動かない。それでも一歩また一歩と進む。

 同時に、短く深呼吸を繰り返すと、身体中を巡る毒が少しずつ外へ出てゆく感覚を得た。

 だが、安堵したのも束の間。

「待て、彩」

 己を制する鋭い声に、彩華は再び走り出そうとして止めた。

 足下を通り過ぎた陰気な気配を感じ取り、前方をひたと凝視する。

 薄暗い街灯に照らされたマンホールが、ずっ……と音を立てて浮いた。

 目に見えぬ力が働いたのかと思ったが、そうではなかった。何かが下からマンホールを押し上げたのだ。

 月影が彩華の前に立つ。その身は牽制するように青白い焔を纏っている。

「妖……」

 小さく声をもらして彩華は同じように一点を睨みすえた。

 意識を集中せずともそのモノを目視することができた。よほど自信があるのか、異形は己の姿を隠そうとはしていない。

 穴から、まず揺らめくモノが姿を現した。焦げ茶色のそれは、先端が細く、地下に向かって徐々に太くなっている。表面がゴツゴツとしているのが見てとれて、触れれば皮膚が切れそうだ。

 あれが妖樹の枝なのだろう。繋がっているはずの幹にあたる本体は、地上からは確認できない。

 枝は獲物を探しているだろうか。不規則な動きを繰り返している。

 波のようにうねるその様子に嫌悪感を抱いて、彩華は思わず顔をしかめた。

「うわ。よくよく見ると醜悪だな。木なら植物らしく、ぴんと背筋伸ばして花でも咲かせていれば良いものを」

「ちょっと遭遇早過ぎだと思うけど、ここで退治する?」

 吐き出された感想に心の中で同意して、彩華はひとつの案をもちかけた。

 場所が狭いのは難点だが、相手は確かに弱い妖だ。一、二発で仕留める自信はある。

「それでも構わないが」

 月影の焔が僅かに強まった。

「折角だから、全体を拝むってのはどうだ?」

 彩華は考えるような仕草をした。

 後学のために確認しておくのは良いかもしれない。

 承諾すると、月影が駆け出し宙を舞った。軽い身のこなしで、浮いているマンホールへと降り立つ。同時に、その体を包む闘気が光を増した。

 ガンッと大きな音が響く。勢いに任せて、月影がマンホールの蓋を閉じたのだ。

 音にならない悲鳴が空気を振動させる。

 下水道へと続く穴から地上へと露出していた妖の一部が、蓋が閉じたときの衝撃で切断されたのだ。

 本能なのだろうか。樹木の枝を思わせるその部分は、地面へ落ちてからもしばらく動いていた。ぴくりとも動かなくなったそれは、端から崩れて砂のようになってゆく。やがて、風に煽られる頃には大気に溶け込み跡形もなくなった。

 それっきり無音だ。足下から妖気は感じるものの、動く気配は感じられない。

「うん?」

 月影が声を洩らした。彼はまだマンホールの上に立っている。その体が浮いた。

 ず……と音をたててマンホールが少しだけ開いたのだ。隙間から妖気が流れ出てくる。

 妖はそれ以上何もせず、こちらをうかがっている様子が感じられた。

「逃げないのならば好都合」

 反撃する機会を狙っているのだろうか。西洋の異形は妖気を洩らしたままで、いまだに動かないでいる。

 逃げ出さずこちらに興味を持ってくれたのならば、まずは作戦成功だろう。

「んじゃ、ぼちぼち移動するか」

 己の足下を睥睨して、月影が言った。

 隙間から、妖樹の枝とおぼしき細長いモノが這い出てくるのが見えた。

「彩、行くぞ」

 月影が四肢に力をこめた。

 ふたたびマンホールが閉まる。にじり出ていた妖樹の一部は、その衝撃で消え去った。

 下から空気の抜けるような音がして地面が微動する。

 妖樹の怒気をかすかに感じながら、ふたりは駆け出した。



 ふたりを次の獲物と狙っていた妖樹は、徐々に速度を上げて追い抜いていったらしい。

 目前のマンホールが先程とは打って変わって素早く開き、下から異形が這い出てくる。

 仄暗い闇の中。一本の木がその姿を現した。

 幹はずっしりとしていて、彩華が想像していた以上に大木であった。それでも二メートル弱だろうか。伸びる枝には、葉はほとんど生えていない。

 ぺたり、と湿った足音がした。

 目を凝らしてよく見ると地面が濡れていた。

 おそらく下水道を通って水に濡れたのだろう。通常、土に埋まっている根の部分が色濃く変わっている。

 ふいに妖樹がひとまわり成長したかに見えて、思わず息をのむ。

 だがそれは彩華の思い違いだった。妖樹が身をくねらせながら、彩華と月影に近づいたのだ。

「随分自信あるんだなぁ」

 月影が感嘆の声をあげた。されど眼光は鋭い。

 ざわざわと音を立てて枝がしなった。そのとき生じた葉音は、まるで妖樹が笑い声をあげたかのようだった。

 枝をくねらせている様は、獲物を前にして喜々としているように思える。

 彩華は顔をしかめた。

「どうした」

「うねうねしたのって、わたし苦手みたい」

 言って、彩華は身震いする。心底嫌そうにうんざりした顔をしている。

「じゃあ、ここの子供も嫌か」

「神様と眷属は別」

 どこか面白がっているような響きを感じて、にべもなく返す。

 ここの子供、とは、空輪山に棲む蛇の精霊たちのことだ。彼らとはやはり縁が巡って、今では月詠神社と密かに繋がりを持った。気脈も繋がっているため、他の場所よりも有利に動ける。

 また一歩、妖樹が近づいた。

「彩。山ん中に追い込め」

「わかった」

 素早く距離を測る。

 妖樹との間は目測で三メートルあまり。階段はすぐそこだ。

 彩華は、深くひと息吸い込んでから神呪を口にした。

 言葉は瞬く間に形を成して、淡く光る矢に変化した。そうして、すぐさま妖樹へと飛んでゆく。

 光の矢は妖樹の幹を掠めて落ちた。と同時に悲鳴が上がる。

 一本目の矢は妖樹の気を逸らすためにわざと外した。だが、続けざまに放った二本目が、的確に撃ち抜いたのだ。

 奇妙な声をあげながら妖樹が身悶える。それでも致命傷にはならないためか、活動を停止する様子はない。

「縛り縄 不動の心 あらん限りは」

 間髪を入れずに彩華が言葉を紡ぐ。

 言霊の力により大気が歪み不可視の縄が現れた。縄は瞬時に妖樹を捕らえて動きを制御する。

 耳障りな音波が辺りに響き、彩華は眉を寄せた。

 だがそれも一瞬のこと。妖樹から目を逸らさずに言葉を紡ぐ。

 次いで現れたのは、柄のない刃だった。風刃と化した霊力は、術者のめいを実行すべく飛んでゆく。旋回しながら妖に近づき、勢いを衰えさせることもなく、むしろ増しながら襲いかかった。

 空気を切り刻みながら不可視の刃は妖の体を伐採してゆく。幾つかの枝が地面に落ち、瞬時に跡形もなく消え去る。

 妖の絶叫が響き渡った。

 彩華たちは別段慌てることもなく、妖樹を見据えている。

 妖の声は常人の耳に届かないとわかりきっていたためだ。霊力の長けている者ならば気づいたであろうが、素質のない人間には〝強い風が吹いた〟その程度でしかない。

 怒気を孕んだ咆哮が空気を振動させる。風は妖樹の憤激を表しているようで、重圧感を含んでいた。

 虚を衝かれた彩華の身体が傾ぐ。

 妖は、その一瞬の間を見逃さなかった。

 残っていた枝が勢いよく伸びて攻撃を仕掛ける。蔦のように柔らかくしなり、彩華の左手首に絡みつく。

「――くっ」

 前へ引っ張られるのを足に力を入れてやり過ごし、体勢を立て直す。

「彩っ」

「平気」

 短く返してから、

「風斬」

 やはり短い呪を紡ぐ。効果は弱くなるのだが、手間がかからない分速効性があり、使う霊力も少なくすむ。

 腕を拘束していた枝を難なく切り落として彩華は身を引いた。

 風が唸る。

 残った枝を闇雲に振り回して妖が騒ぎ立てた。

 視線を交わしてから、彩華と月影は階段を駆け上がった。

 一気に登りつめても息が弾むことはなかった。やはり気脈が神社と繋がっているからだろうか、と彩華は思う。

 永遠に枯れない泉のように、とはいかないが、霊力が湧き出てくる感覚がある。今なら強敵相手でも通用しそうだ。

 だが油断は禁物。身体の軽さが気脈によるものなら、己の力だけではないのだから。

 高揚する気持ちを抑えるように叱咤して、妖と対峙する。

 全体を揺すりながら追いかけてきた妖樹は、登りきったと同時に攻撃を仕掛けてきた。刈り取られなかった数本の枝が柔らかくしなる。

「痛っ……」

 避け切れなかった枝の先端が彩華の頬を掠めた。こめかみあたりから左頬にかけて一文字のミミズ腫れが走る。

「なにをしている」

 呆れと憂慮を含んだ声に苦笑を洩らした。

「油断した」

 指をやると、滲んだ血が少しついた。だが大した傷ではないようだ。

「あとでちゃーんと消毒しとけよ」

 月影の体が青白く発光する。丸く形を成した霊力が、今度は三日月型となり宙を滑る。

 声をあげて妖が荒れ狂った。ぎゃあぎゃあと喚き散らして枝を振り回す。

 妖樹から切断された枝が最後の足掻きと言わんばかりに空を舞うが、あえなく砂塵となった。枝を一本のみ残して、光の鎌は消滅する。

 欠陥を修復する能力を持つ妖ではなくて良かった、と彩華は思う。そうでなければ、うねうねと蠢く枝に手間取っただろう。

「情報は十分に得た。さっさと済ませて帰るぞ」

 頷いて、彩華は全身に霊力をたぎらせた。風もないのに黒髪がふわりと浮き立つ。

 妖樹がますます騒ぎ立てた。辺りに充満しつつある霊力に反応したのだろう。唯一の枝を使い必死の抵抗を試みている。

 彩華の耳元を枝が掠めたがもはや動じない。

 妖の背後から駆け抜けてきた疾風に驚いて、彩華は思わず目を閉じた。

 仕事中に目を逸らすなど言語道断だ。慌てて手の甲で目を擦り、涙と一緒に塵を流す。

 少し赤くなった目で妖の姿を確認する。

 大きく振りかざした枝と、夜空に浮かぶ丸い月が重なり、盃を振りかざしているように見えた。

 攻撃を軽くかわした彩華は素早く印を結んで口を開きかけた。

「待てっ」

 月影の命に従い、即座に術の発動をやめる。それと同時に淡い光が視界を掠めた。

 妖樹は、彩華たちから興味がなくなったとでもいうように、枝を振るう先を変えた。元々細長い枝を更に長く変化させて、己の周囲を飛び回る何かを払い落とそうと必死になっている。

 鳥の羽音がする。高速で飛び回る何かの姿を彩華は捉えることはできなかった。

 だが、先程から止まない音は、間違いなく鳥の羽ばたきによるものだ。

 目にも留まらぬ速さで幹に無数の切り傷がついてゆく。妖樹は払い落とそうと躍起になっているが、一本枝ではままならないのだろう。傷が増えるばかりだ。

 繰り広げられている戦闘に唖然として、彩華は横にいる黒猫に問いただした。いつでも動けるように指は軽く印を結んだままだ。

「あれって、月影の分身とか、そういうもの?」

 話しながらも意識は妖樹と突然現れた光に向ける。

 必死に目で追いかけて、やはり鳥だと確認できた。

 手を出さないのはこの鳥の目的が不明だからだ。

「いーや」

 返ってきた言葉には不機嫌な色が滲んでいた。

「……横取りされるのは、あまり気分が良くないな」

 淡く発光する飛行物体に目をやって月影が呟く。

 ちらりと横目で確認すると、黒猫の鼻のあたりに皺がよっているのが見てとれた。

 ――これは、かなり、間違いなく。怒っている。

 彩華が声をかけようと思ったそのとき。

 ガラスの割れる音がした。

 妖樹の根元に透明な塊が落ちている。半分砕けているが、まだ戦う気なのだろう。半分砕けているが懸命にもがいている。

 散らばった破片が月光を反射して煌めく。

 ぬっ……と、妖樹の根が持ち上がった。

 狙いはガラスの塊。残りを踏み潰すつもりらしい。

「地縛」

 言霊の力により震えた大気が妖を縛る。片足を上げたような格好で妖樹が固まった。地を踏みしめている根っこごと動きを封じた。

「月影っ」

 彩華の意図を組んで黒猫が駆け出す。塊を器用に背中に乗せてあっという間に戻ってきた。

「ほれ」

「ありがと。……」

 片翼を失ったそれは、ぴくりとも動かない。

 視線を戻すと妖樹は捕縛されたままだ。

 彩華が神呪を紡ごうと口を開きかけた。

 しかし、それよりも早く行動を起こした者がいた。

 妖樹の体に幾重もの矢が突き刺さると、ぎゃあと甲高い悲鳴があがった。妖気を削ってゆく彩華の術とは違い、今の矢は的確に急所を狙ったように見えた。

 矢は、自分の背後から射られた。

 一瞬呆気にとられたが、彩華はすぐに正気に戻って振り返る。

 彩華たちがいる場所よりも少し高い遊歩道から女が見下ろしていた。

 まず目を惹いたのは金色の髪だった。柔らかそうな巻き髪が風に吹かれ、なびく度に艶を放つ。

 長身の男を従えて、女は悠然と立っていた。

 妖樹を見据えたまま、女が蠱惑的な笑みを浮かべる。その印象は棘を持つ薔薇を思わせた。

 薔薇の化身はしばらく妖樹を見つめていたが、つい、と視線を滑らせた。

「こんばんは。東洋の術者さん」

 彩華を見つめてにこりと笑う。その容姿からは想像できないほど流暢な日本語だった。

「日本へようこそ。取り込み中だから後にしてくれないか?」

 彩華が口を開くよりも早く、抑揚のない声で返事がされた。月影だ。

 月影は訝ってかすかに目を細めた。殺気はないものの、警戒している様子がうかがえる。

「ごめんなさい。邪魔をするつもりはないのだけれど……これは、私たちが狩り残したモノだから……この場は譲ってくださる?」

 女は丁寧な口調だったが有無を言わさぬ響きがあった。

 穏やかに佇むその姿は、妖気の漂う術者の戦場にはとても場違いである。

 だが暗闇に浮かぶ金の瞳は、女が常人ではないことを物語っていた。

「遠いこの国にどうやってたどり着いたのかしらね」

 女は、見る者がうっとりとするような極上の笑みを異形に向けた。

「ラインヴァルト、彼女をお願いね。強いパートナーがいるから心配はないでしょうけれど」

 異形から目を逸らさずに女――エリザベートが命じる。

「はい」

 ラインヴァルトと呼ばれた男は短く答えると、軽い身のこなしで柵を乗り越えた。優雅な足取りで彩華に近づく。

 ふたりが魔性と呼ばれるモノに近い存在であるのだと、彩華は瞬時に理解した。

 纏う気は人の持つものではなく、かといって神と呼べるものでもない。完成されているがどこか歪な作り物――そんな印象を持った。

「こいつから離れろ」

 今にも飛びかかりそうな勢いで月影が牙を剥く。

「月影」

 彩華がたしなめる。

 この人たちの瞳にも纏う空気にも翳りはない。それは、彼にもわかっているはずだ。

 最後に睨みをきかせたものの、渋々といった風情で月影が引いた。

「お怪我は……されていますね。痛みは?」

 彩華の左頬を目にして、ラインヴァルトは優しく目元を和ませた。

「怪我ってほどではないので大丈夫です」

 突然ジーンズの裾を引っ張られて足下に視線を落とす。目を三角にした黒猫が、じっと見上げていた。

 月影の無言の攻撃を受けた彩華は、身を屈めて彼を拾い上げた。胸に抱くようにすると、尻尾を一度だけ振ってから大人しく腕に収まった。

「すぐに済むと思いますので、治療はその後に」

 治療が必要なほどの怪我ではない。消毒と瘴気の洗い流しはしなければならないだろうが。

 彩華は何か話そうとして口を閉ざした。ラインヴァルトにつられて視線を動かす。

 妖樹と、少し離れたところに立つエリザベートが見えた。双方睨みあったままの状態で微動だにしなかった。

 エリザベートが小首を傾げた。その拍子に金色の髪が揺れる。

 触れずとも柔らかさが伝わってくるような彼女の髪は、夕暮れ時に金色に輝く日の光を紡いだようにきらきらと輝く。

 我知らず目を奪われた彩華の耳に、じゃり、と砂の擦れる音が聞こえた。

 身じろぎすらしていないと思っていたのは彩華の勘違いで、妖樹はすでに捕縛を解いて後退していた。少しずつ少しずつ……気づかれないように摺り足で後ろへと進んでいる。

「逃がさない」

 彼女が発した言葉には、気を抜くと背筋がゾッとするような嫌な響きがあった。冷ややかな、それでいてどこか楽しそうな声。

 だがエリザベートが仕掛ける様子はない。それっきり、黙ったまま佇んでいる。

 ふいに、妖樹の姿が歪んだ。素早く横へ移動しようとして、ぴたりと動きを止めた。

 これでは不利だと感じて窮地を抜け出そうとしたのだろうか。しかし一メートルも進まないうちに、妖樹は退去を阻まれた。方向転換しようとするが、叶わず悲鳴をあげる。

 妖樹の間近に何かがある。

 どこからともなく現れた長い棒が、自らを光らせながら地面に突き刺さっていた。後から後から発生した無数のそれは、同じように地面に突き刺さり、瞬く間に妖樹を囲う。

 妖樹は完全に身動きが取れなくなった。

「逃がさないと、言ったでしょう?」

 妖艶な笑みを唇に刷いて、エリザベートが再度宣言する。

 金の瞳が鋭く煌めいた。

「ほぅ。さしずめ狩りといったところか」

 月影が感嘆の声をあげた。

「狩り……?」

 ぽつりと呟く。先程から感じていた違和感はそれかと納得する。

 妖気を削いでから消滅させる彩華の退魔法とは違う。

 獲物の考えを読み、最小限の動作で、確実に狩場に追い込んでゆく。今この場は、光の棒でこしらえたあの檻が、追い込み柵の代わりなのだろう。

 一度狙われた獲物は、もう逃げられない。

 簡易的な檻に囲まれた妖樹はしばらく脱出を試みていたものの、次第に弱々しくなっていった。

「あなたはいつからこの国に居たのかしら」

 言葉はわからないはずなのに、エリザベートは妖樹に向けて言った。

「今の時代は棲み難いでしょう?」

 それまで殆ど動かなかったエリザベートは、右手を顔の横にあげて、ぱちんと指を鳴らした。

 淡かった発光が命令に応えたかのように強さを増す。

 視界が白く染め上げられて、目が慣れる頃には、檻も妖樹も消えていた。跡には微量の光の粒子があるばかり。

 エリザベートが屈んで何かを拾い上げる。

「……意外と素早いから、あなたははやぶさが良いかしらね?」

 誰に言うともなしに呟いた。

 指で摘んで目前にかざしたそれは、薄茶色の水晶に見えた。濁りはなく、月明かりに照らされてきらりと光る。

「あれは妖の……残滓?」

 彩華の声を聞きつけてエリザベートが振り返った。

 彼女は今まで狩りをしていたとは思えない、柔らかい表情だった。モデルのような綺麗な足取りで彩華たちの傍へと近づいて、そっと手を伸ばす。

 突然、左頬に触れられた彩華は驚いて肩を揺らした。

 細長い指を一度だけ滑らせて、

「あの子のお礼」

 エリザベートが笑う。

 左頬に体温とは違う温かさを感じた。反射的に頬に触れると、そこにあるはずのミミズ腫れがない。

「あの子?」

 少々頭を混乱させながらも聞き返すと、エリザベートはちらりと目で合図した。

 視線の先にはラインヴァルトがいる。彼の手にはいつの間にか片翼の壊れた鳥が収まっていた。

 エリザベートは差し出された鳥を受け取って、愛おしそうに目を細める。

「ありがとう。お疲れ様」

 彼女は囁きにも似た礼を述べた。

 彩華が目を見張る。

 手のひらよりも大きかった鳥が、みるみるうちに崩れて砂になったのだ。やがてそれも、最初からなかったかのように消えた。

「あなたは、なに?」

 闘気を綺麗に隠しても彼女から人の気配は感じない。だが、やはり化け物と呼ぶのははばかれる。

 不思議とおぞましさはなかった。詠や月影――人ならざるものが普段傍にいるから、そう感じる訳ではないようだ。

 それでもまだ油断はできない。彩華は警戒を解かずに女の言葉を待った。

 しばし考えこむように小首を傾げたエリザベートは、やがて彩華を真っ直ぐ見つめて、赤い唇に笑みを刷いた。

「わたしは……闇を狩る存在モノ

 月を背にしてそう答える女は、闇夜に最も咲き誇る大輪の薔薇のようだと彩華は思った。

「異国の狩人か。それはご苦労なことで。で? 何のつもりで来た」

 抑揚なく月影が言う。全身を青白い闘気で包み込み、目を眇めた。

「月影」

 今にも戦闘態勢に入りそうな彼を制する。

「一応、形式的に聞いておこうと思っただけだ。知らない奴が訪ねてきたら、何用か聞くだろう?」

 と、月影が鼻を鳴らす。

「ん……まあね」

 確かに一理ある。だが刺々しい態度は少し問題だ。

 彩華がどうやって宥めるか考えあぐねていると、エリザベートが真っ直ぐ月影を見つめた。

 金の双眸に冷ややかな光が宿った。

「では。わたしもひとつ訊ねていいかしら?」

「なんだ」

 荒んだ気を一切消さずに月影が促す。

「自然の理を崩して平気なんて、随分と高慢な神なのね。無意識でもその道を選んだのは本人とはいえ……」

 何の話なのか検討もつかない彩華が怪訝そうな顔をする。

 月影の目が一瞬だけ剣呑さを帯びた。

「……それを、あんたが言うのか? 見たところ、そっちも変わらないだろう? 天命かどうか知らないが、オレにはあんたが男の運命を狂わせた元凶と思えるぞ」

 言って、月影はエリザベートの横に立つ男を見やる。

「そうね。他人の事情をとやかく言えた立場ではないわ。ごめんなさい」

 張り詰めていた空気が和らいだ。

「――いや。オレも言い過ぎた」

 素直に詫びる月影に驚く。

 感じ取った雰囲気に、猫にマタタビ女郎に小判、となるものを探さなければならないと思っていた彩華だった。

「待て、彩」

 彼女の心に浮かんだことを鋭く察して、月影が低い声で問うた。

「お前……オレを何だと思っている?」

「えーと……荒御霊あらみたま? ちょっと喧嘩っぱやいし」

 答えが気に入らないらしく、黒猫の眉間に皺がよった。

「否定はしないが、違う」

「上手く言えないけど……それ矛盾してない?」

「してない。オレはちょっとばかりやんちゃな素質を持つ、ちょっぴりお茶目な八百万のひとりだ」

 何がお茶目か。

 彩華はそんな思いを視線に含ませるが、当人は物ともしない。

「相手の出方次第で態度を変えるだけだ」

「う……ん……」

 なおも言い切られて彩華は言い澱んだ。

 普段穏やかな人間も時には本気で怒る。神が二面性を持っているのは、人間のそれと変わらない。

 多分、そのようなことを言っているのだろう。言いたいことは何となくわかる。わかるのだが――。

 気に入らないから暴れます、では無駄な争いが絶えなくなるではないか。

 後でうちの御祭神に意見を聞こう、と彩華が考えたとき、女の笑う気配を感じ取った。

 振り返ると、思った通りエリザベートが供を従えてこちらを見ていた。

「お取り込み中に申し訳ないのだけれど……少しお時間いただける?」

 にっこりと、美しい微笑みを向けられて、彩華は黙って頷いた。

 異を唱える理由はなかった。

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