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たいじや  作者: 葉月
19/24

天の盃 幕間

 人間が足を踏み入れることのない深い森の奥で、エリザベートはひっそりと生まれ、ひっそりと暮らしていた。


 ベッドに横たわっているエリザベートの指が緩く握られシーツに皺をよせた。

 目が覚めた彼女は、まず瞳だけを動かして部屋を見回した。

 豪華ではないが品の良い家具が並んでいる。埃ひとつなく、常に掃除が行き届いていることが見てとれた。

 だが、生命の気配は感じられない。その理由は誰かに聞かずともわかっている。

 エリザベートは緩慢な動作で起きあがると、腰掛けたまま伸びをする。窓から差し込む陽の光を反射して、蜜色の髪が揺れた。

 頭がぼんやりとしている。脳に薄い紗幕がかかっているようだ。

 瞑想をするかのように目を閉じて、エリザベートはしばしその状態で考える。

 いささかあやふやな脳内の情報を整理してから立ち上がった。

 薄手の夜着のまま歩みを進める。まだ本調子ではないから慎重に。

 案内はなくても難なく屋敷の外へ出たエリザベートは、爽やかな風を受けて目を閉じた。

 自然の息吹きを、生命力を感じて、ほぅ……と息を吐く。

 人の手が加えられていない森林は特に密度の濃い生気を得られる。住居はこのように不便なところではなく、もっと容易に移動できる場所を選ぶべきなのだろうが、その不便さがこの身を隠すにはもってこいなのだ。

 鬱蒼と生い茂った枝葉は日光を遮り、昼間でも薄暗い。人間が森の中を目印もなく歩くことは難しいだろう。運が良ければ森を抜けられるが、大半は彷徨い続けた挙句に野生動物の餌食となるか、そのまま行き倒れだ。だから人々は必要がなければ森へ行かなかった。豊かな果実を実らせる木々は森の浅い所にもあり、奥まで進まずとも十分であったから。

 森の奥には、今では誰が建てたのか不明な屋敷がある。そこには不老不死の吸血鬼が棲んでいると言われており、近辺に住んでいる民は、最奥には決して近づかなかったという。吸血鬼の怒りを買わなければ何も問題はないとも伝えられていたからである。

「吸血鬼、か……」

 どこか自嘲めいた笑みを浮かべて彼女は呟いた。

 ある意味で同種と見られるのは致し方ない。人間ではないのだから。

 普段は緩やかに流れている自然の気の流れ――気脈は時折澱む。個々の差はあれど、生きとし生けるものが持つ心の歪みは周囲に影響を及ぼす。生死の混在する人里は特に、ほんの些細ないざこざから、人々を脅かす闇が生まれてしまう。

 放っておけば世の均衡が崩れるだろう。だが、その歪みを正すために、自浄作用というものが存在する。

 主に水や大気の汚濁を取り除く自然の働きを指すのだが、この場合は怒り、妬み、悲しみなどといった負の感情が滞るのを防ぐ力のことになる。そして、負から生まれた魔物を屠る力でもある。

 〝力〟は人間そっくりな姿に具現化されて、必要があれば歪みを正すためにその地へ赴き、いびつな闇を分解する。

 人ではない〝闇の分解者〟は容姿だけではなく、肉体構造も人間と酷似している。傷を負えば真っ赤な血が流れ、致死に至れば死亡する。

 相違点をあげると、少しの負傷ならば瞬時に治ってしまうし、なにより寿命が長い。優に千年は越えるであろう。精神が衰退しない限りはいくらでも生き続ける。

 一見不老長寿に思える彼女は、だがそうであると断言できず、役目を終えて代替わりするときには、身体は塵と化し跡形もなくなってしまう。そうすると、均衡が崩れないように新たな分解者が生まれる。それは古代から一度も途切れることなく綿々と続いていた。

「――――」

 エリザベートの眉が僅かに顰められる。

 輪廻転生というものが当てはまるのだろうか。自分たちがどのような扱いをされてきたのか、これからどう思われるのか嫌でもわかる。

 強く手を握り締めて、心に燻る感情を鎮める。

 人々は〝人の形をした自浄作用〟のことを、怪異から人間を守る〝天の使い〟として崇め奉ることもあったであろう。しかしいつの頃からか〝異形〟であると恐れた。

 人間を脅かすモノたちを退治する術者であっても、時に異質な存在として扱われてしまう。相手が神でも悪魔でも関係ないのだ。魔の性質を持つモノは、人間から見ればひとくくりに魔物と呼ばれる。

 とはいうものの、魔物と呼ばれるのは苦々しく感じる。

 エリザベートは考えを振り払うように頭を振った。

 思うことは多々あれど、異形祓いの役目を負ってこの世に生まれた使命は果たさねばならない。

 金色の髪が風を受けて軽やかに揺れた。形の良い唇が何かの言葉を紡ぐが音は発されない。続いて、右の親指に牙をたてて傷をつける。

 血がぷっくりと盛り上がり、指を伝って流れた。

 傷口から少しずつ流れる血は赤い絹糸のようになり、空中でその身をくねらせる。やがて複雑な文様と、それを囲む丸い円を描き始めた。

 エリザベートの血で描いた魔法陣だ。

 彼女と向き合う格好で形成された魔法陣が金色を帯びた赤い光を放った。

 辺りに風が巻き起こりエリザベートの髪をはためかせた。乱れる髪を押さえることなく、彼女はただ黙って待つ。

 木々の梢を揺らしながら何かが近づいてくる。

 その気配はひとつではない。また、人間の持ちえるものではない。

 エリザベートに惹かれ集ったモノたちが彼女の前に姿を現した。

 全部で五体。

 彼らの容姿は、外見が人間に近いもの、動物の姿のもの、妖魔に見えるもの――実に様々である。

 森羅万象の素となる〝気〟が具現化された、心霊的存在。それがエリザベートが使役しようとしているモノの正体だ。幸いなことに森の奥には核となる自然界の生気が満ち溢れていた。

 集まった顔ぶれを見回してエリザベートは目を細めた。

 協力を得られるのは非常に嬉しい。

 未だ血が止まらない右手を魔法陣にかざして、人間には正しく発することが難しい言葉を紡いでゆく。

 一体ずつ魔法陣を潜り、エリザベートから一滴の血を与えられて主従の契約を成す。

 主との血の契約。その様子を偶然目撃してしまった者は、魔族の首領が自らの使い魔を増やしているように見えたのかもしれない。

 こうして、この地に吸血鬼の伝承が誕生したのであろう。


 さて、そんな因縁を持った彼女が生まれてから数百年が経過した。

 契約をした彼らはエリザベートから受けた命を忠実にこなす他、彼女の身の回りの世話もしていた。やがてエリザベートが役目を終えたときに契約は解かれ、自然へと還ってゆく。

 時が流れ時代が変わってくると、彼女を取り巻く環境も変化した。


「森の奥に棲む化け物が怪異を祓う」


 ――と耳にした貴族が、密かに異形祓いを依頼してくることも少なくはなかった。

 私利私欲の依頼でなければ断る理由はない。役目をこなすため時には人間と交流を深める機会も必要だからだ。その方が小さな情報が入りやすいし、通貨を手にするにはもってこいだった。

 だが、基本の生活は変わらない。普段は森から出ずに、エリザベートは使い魔たちと共にひっそりと暮らしていた。

 ある日エリザベートがいつものように屋敷で寛いでいると、従者のひとりが部屋を訪れた。

 困っているらしく、少し白髪の混じる眉を下げて彼女に告げた。

 人間の子供がここへ紛れこんでしまった、と。

 エリザベートは軽く眉をひそめた。連れてくるように命じると、小さくため息をつく。

 何人たりとも屋敷はおろか周辺には近づけぬよう結界が張り巡らせてある。手練の術者ならばともかく、ただの人間では決して破れない。

 それなのに、この少年はいとも簡単にやってきた。人間が森の奥へ現れたのは、自分が知る限りこれで三度目だ。

 一度目は偶然迷いこんでしまった男。二度目は吸血鬼じぶんの生贄とされてしまった少女。

 心臓が痛みを訴えた気がして、エリザベートは硬く目を閉じた。

 しばらくして、迷い人だという少年が彼女の前に姿を見せた。

 ――疲れているのかしら。年は取るものじゃないわ。

 心に浮かぶ感情をかき消すように、わざと呟くと、エリザベートは優しく問いかけた。

「坊や。ここへ何をしに来たのかしら」

「……あなたが、森の主様?」

「そう……ね。そうとも呼ばれているわ」

 他にも、魔女、吸血鬼、血塗られた貴人、闇の支配者など――実に様々な呼ばれ方をしているの。面白いでしょう?

 冗談めいた口調で言うが、少年が反応することはなかった。

 少年は何とも言い難い表情をしていた。強いて言えば、無表情。愛想笑いもせず、魔物を目の前にして命乞いもせず……。瞳の奥が冷めきっている。

 エリザベートは眉間に皺をよせた。

 子供特有の生気が感じられない。頬にうっすらと残る青あざは虐待の跡だろうか。それに、袖から覗く手首の細さが気になる。

 考えても埒が明かない。エリザベートはもう一度先ほどの質問を口にした。

「坊やは何をしにきたの? 見たところ、狩りで迷いこんだ様子はないけれど」

 少年は着の身着のままできたらしく何も持っていなかった。

 狩猟目的で森へ入ったのならば、弓矢なり籠なりを身に着けているはずだ。

 少年はエリザベートの目を真っ直ぐ見つめて答えた。

「生贄に。村長の息子が、森の主様を見た、姿を見せたってことは生贄が必要なのだって大騒ぎして。主様の怒りを静めるために僕が選ばれました」

 一瞬、少年の言葉が理解できず息を呑んだ。

「……そう……」

 三度どころではなく四度目であったらしい。一体、いつ姿を見られていたのか……。それよりもなぜ気づけなかったのか。

 彼女は記憶を辿り唇を噛んだ。思い当たるのは、ついこの間の異形祓いだ。珍しく手こずり心身共に酷く疲れたのだ。

「……嫌ね。本当に老いぼれたのかも」

 額に手を当てて自嘲気味に呟く。

 そんな彼女を見て、少年が不思議そうな顔をする。年齢を感じさせない彼女の容姿では説得力がないのだろう。

 こほんと咳払いをひとつしてからエリザベートは真面目な顔をした。

「わたしは人間ではないけれど、生贄は必要ないわ。だからあなたを村へ帰してもいいのだけれど……それでは問題が生じそうだから」

 脳裏に血塗れの祭壇が浮かんだ。

 二度とあのような想いを味わいたくはない。

 少年に感情を悟られないように笑みを絶やさず続ける。

「知り合いの人間に頼んでもいいし、ここで暮らしてもいい。あなたの望むままに」

「じゃあ、ここに置いてください。一通りの仕事はできます」

 少年の即答を聞いて目を見開いた。

 村人たちが言う噂話を耳にしているだろう。なのに、死に近いこの場所に好き好んで残ろうとするなど正気の沙汰ではない。

 真意をはかりかねたエリザベートが返答に窮していると、少年は初めて反応を見せた。笑おうとしているのか、引き締めていた唇を微かに緩めた。

「知らないところへは行きたくない。村に近いここへ置いてください」

「わかったわ。――シルフ」

 エリザベートの声にひとりの男がやってきた。少年を連れてきた彼女の従者だ。

 彼は視線を横に流して一瞬少年を見やり、それから正面を向いた。

「この子に湯浴みと着替えの準備をお願い」

 丁度良い大きさの服はないが、少年が今着ている物よりはずっといいだろう。

 主の命にシルフと呼ばれた初老の男が恭しく頭を下げた。

 少年の服はところどころ破けたり泥で汚れている。預かると決めたからにはそれなりの格好はさせたい。エリザベートには彼を奴隷のように扱う気はないのだ。

「坊や名前は?」

 少年はほんの少し痛ましげに目を細めて、だが抑揚のない声で答えた。

「そんなのない。僕に用があるときは、おい、とかお前って呼ばれていたから」

「……両親は?」

 少年が首を横に振った。

「僕が小さい頃に亡くなったと。よくは知らないけど僕は罪人の子だから、村長の家に預けられて、監視する、って」

 それで奴隷のように扱われていたのか。罪人などと言っても本当のことなのかわからない。

 合点がいって見知らぬ人間に怒りを覚えた。エリザベートは心に湧き上がる怒りを鎮めるように自身の肌に爪を立てる。

「では、まず名前をつけなくっちゃね」

 口調はできるだけ平然を装って言った。

「そうね……。ラインヴァルト、はどうかしら。強い支配者と言う意味よ」

「強い、支配者?」

 オウム返しに答える少年にエリザベートは笑顔を返す。

「あなたの人生はあなたのもの。誰も干渉できない。わたしも、指導はしても支配する気はないわ。いつかここを去るときに、ひとりでも大丈夫なように。もう誰にも束縛されないように願いをこめて。…………嫌かしら?」

 言って、更に笑顔を深めて少年を見つめる。

 ラインヴァルトと名づけられた少年は、相変わらず無表情であった。しばし考えるような仕草をしてから首を横に振る。

「それでいいです。僕が呼ばれていることがわかれば、何でも」

 やはり声に抑揚はなかった。

 整った眉を歪ませる新しい主人に、ラインヴァルトは怪訝な表情を浮かべた。


 扉を叩く音にエリザベートは目を落としていた書類から視線を上げた。

「どうぞ」

 ゆっくりと扉が開いた。

「エリザベート様、お手紙です」

 顔を出したのはラインヴァルトだった。

 足音を立てずにエリザベートの元へと歩いてゆき手紙を差し出した。

 そのとき年相応のふっくらとした手首が目に入り、エリザベートは自然と笑みを零す。

「……どうかしましたか?」

 首をかしげるラインヴァルトに「なんでもない」と微笑みかけて、エリザベートは手紙を受け取る。

「ここには慣れた?」

 問いかけると彼は頷いて答える。

「はい。シルフさんも、最初は怖い方かと思いましたけれど、丁寧に教えてくれますし」

 シルフはエリザベートと契約をした使い魔のひとりである。彼は特に何も指示しなくても淡々と確実に仕事をこなす。

 以前から何度かこういった経験があるのだろうとエリザベートは結論づけた。

 術者の呼びかけに応え易い、あるいは応えてくれない、という違いは必ずある。

 心霊的存在。言い換えれば精霊とも呼ばれる彼らは、こちらに好意を寄せてくれるなら心強い存在だ。逆に敵意を持たれると非常に厄介である。

 もう一度目元を和ませてからエリザベートは蝋封された封筒を丁寧に開けて内容に目を通す。

 途端に彼女の顔から笑みが消えた。

「お仕事の依頼ですか?」

 その手紙を読み終わる頃を見計らってラインヴァルトが声をかけた。

「ええ。街中で血を吸われる事件が発生しているんですって」

「吸血の種族、ですか?」

 ラインヴァルトは興味津々といった表情を浮かべた。

 そんな彼の問いかけに肯定するように頷く。

「ええ、そうね……」

 呟いて、エリザベートは手紙の続きに目を通す。その内容に柳眉が逆立った。

 化け物の姿は一部しか目撃されていないという。細長い部分を器用に動かして獲物を捕らえているようだ。

 想像するに、異形の正体は――。

「……妖樹? でもあれはとうの昔に絶滅したはず……」

 自分の祖先とも言える存在が消したはずだ。

「エリザベート様?」

 怪訝そうな声には返答せず、エリザベートは手紙を凝視している。怒っているのか、何とも言えない表情だ。

「紅茶でもお持ちしましょうか?」

 我に返って目線を上げると、心配そうに見下ろす瞳と目が合った。

 エリザベートは僅かに目を伏せて息を吐いてから、もう一度目の前の少年を見つめた。

「大丈夫よありがとう」

 心から感謝の言葉を告げて笑みを浮かべると、ラインヴァルトはほんの少し表情を緩めた。

「それってどんな化け物なんですか?」

「……それ?」

 反射的に疑問を返したが、手紙の内容を指しているのだと気づく。

 興味を覚えているのだろう。ラインヴァルトが瞳を輝かせている。

「ええとね」

 エリザベートは無邪気な様子に苦笑しながらも口を開いた。

「直接見ていないから想像でしかないけれど、たぶん、妖樹」

「ようじゅ、ですか?」

 疑問符が浮かんでいるらしい少年に頷く。

 できるだけわかりやすい言葉を選びながらエリザベートが説明する。

「普段使わない言葉だからわかりづらいでしょうね。自らの意思で動くことのできる、樹の姿をした化け物よ。吸血樹、と言えばわかりやすいかしら」

 動かなければ、ただの植物と見紛うだろう。そうして、油断した獲物を相手に悟られずに狩るのだ。鳥ならば枝に止まったところを。人間ならば木陰で休もうとしたところを。

 文献にはこうも記されていた。

 本来は森の奥で育ち、近づいてきた野生動物の血を採っていた。

 その寿命は二ヶ月ほどと短いが、一切の活動を止めて眠りにつけば、十年以上にもなる。

 最も活発になるのは、記録によれば満月と新月の夜。花を咲かせ花粉を撒き散らし、獲物に幻覚を見せる。獲物の視界を奪い、己のいる方へ誘い込む。

「吸血樹はそうして集めた血を薄い膜の中に溜めて、空に掲げるそうよ」

 枝で赤い液体を掲げる様は、勝利の美酒を楽しんでいるようにも見えた。その様子を目撃した人間が模倣した事件もあった。

 吸血樹自体はとても弱いが、場合によってはとても厄介な存在になる。

「樹の化け物というよりも〝樹に擬態した異形〟と呼んだ方がいいかもしれない。わたしが生れ落ちるずっと前に根絶えたはずなんだけれどね」

 どこかに残っていたモノが繁殖したのかもしれないし、誰かが育てたのかもしれない。

 理由は正直どちらでもいいとエリザベートは思う。

 自身に課せられた使命は化け物退治であり、異形の生態を調べる研究者ではないのだから。

「しばらく屋敷を空けるから、あとはお願いね」

 エリザベートが告げると、

「……はい」

 なんとも歯切れの悪い返答であった。

 理由がわからずエリザベートは眉をひそめる。

「なあに? 気になるから言って頂戴」

 尚も言いよどむラインヴァルトに再度促すと、彼は緊張した面持ちで口を開いた。

「僕も、連れて行ってください」

 思いもよらなかった言葉にエリザベートは呆気に取られた。

「街へ行きたいのなら、別の日に連れて行ってあげる。……珍しいことを言うのね。今までお願いなんて一度もしなかったのに」

 彼女の驚いた表情にラインヴァルトは少年らしい悪戯じみた笑みを浮かべた。

「遊びはまたいずれ。……そうではなくて、仕事のお手伝いがしたくて」

「子供が何を言っているの。わたしが相手をするのは妖魔と呼ばれる怪物の類なのよ。弱い人間ごときが対抗できるわけがないでしょう」

 エリザベートは鼻でせせら笑った。わざと煽るようにしたものの、ラインヴァルトは動じていない。

 頬杖をつき、ふうっと息を吐く。

 人間との交渉に、人間を使うことを考えなかった訳ではない。同種同士で話をした方が潤滑に事が進む可能性が高い。街に拠点を設けるのもいいだろう。

 だが、彼はまだ子供だ。巻き込むには経験がなく早すぎる。

「たとえ子供でも関係ない。エリザベート様と契約を交わせばいいのでしょう? 痛っ」

 ラインヴァルトは口を閉ざした。頬に与えられた軽い衝撃に驚いて瞬きを繰り返す。

 叩かれたのだ、と彼が理解したのは少し時間が経ってからだった。

「契約がどういったものか、本当にわかっているの?」

 感情のまま立ち上がり、見下ろすエリザベートは無表情だ。

 その目の冷たさにラインヴァルトが息を呑む。それでも、負けじとばかりに言い返す。

「わかっています」

「いいえ、わかっていない」

 幾分か低い声にも少年は怯まない。

 しばし睨みあうかのように視線を交わす。ふたりの間に沈黙が漂った。

 険しくしていた顔を僅かに崩してエリザベートがため息を吐く。

「わかっていない」

 呟いてエリザベートは腰を下ろした。肘をつき組んだ両手を口元にあてて、もう一度息を吐く。

「……どこまで知っているの?」

 上目遣いで訊ねると、ラインヴァルトは少し考えるような仕草をした。

「ええと……エリザベート様が血を与えて契約を交わした相手は、主の命に従い主と同じ時を過ごす。役目を終えたときには、主と共に自然へと還る……間違っていますか?」

「いいえ」

 短く肯定し、しばし逡巡してからふたたび口を開いた。

「どこでそれを知ったの?」

 感情を抑えてエリザベートが問う。使い魔たちが話すとは到底思えなかったのだ。

 しかしそんな彼女の考えを覆す言葉が返ってきた。

「仕事の合間にみんなに教えてもらいました。お前もいずれは主のために働くのだから。世話をしてもらっているのだから当然だろう、と」

 思っていた以上にお喋りだったらしい。いや、彼らが多弁であると気づかず、また他言しないよう言い含めなかったのは自分の失態だ。

 無邪気な顔の少年に怒る気も失せて、エリザベートは苦笑する。

 彼は落ち着いた様子だ。押し黙って次の言葉を待っている。

「先ほども言ったように人間には立ち向かう術がないでしょう」

「それはそうでしょうけど。契約すれば問題ないんじゃないですか?」

 どうかと尋ねられれば答えは是だ。人間も、素を正せば自然から生まれた生命。可能だろう。しかし、人間と契約を交わした結果がどのようになるのか、試したことがないから彼女は知らないのだが。

「わたしはできるだけラインヴァルトを巻き込みたくないの」

 エリザベートは殊更優しく言葉を紡ぐ。これは心からの願いだ。何も知らないままですむのならばそれが一番だ。

 だが、そんな彼女の心中などお構いなしと言わんばかりに、ラインヴァルトが笑みを浮かべた。

「もう巻き込まれてます」

 ぽつりと呟かれた言葉に、エリザベートは開きかけた口を閉ざした。

「贄となったときから僕の運命は決まったんです。エリザベート様言いましたよね? 僕の人生は僕だけのものだって。最初のきっかけはあっても、どうしたいか決めたのは僕です」

 ラインヴァルトは言って、エリザベートを真っ直ぐに見つめる。

 確かに、言った。

 エリザベートは言質を取るような物言いに、少し顔を引きつらせる。

「――なかなか強情ね。誰に似たのかしら」

「さぁ? ここへ来てからは、ここに住むご主人様に色々と教わりましたから。その方ではないですか?」

 しれっとしたラインヴァルトの物言いに唖然とする。

 瞬きを数回繰り返してから、エリザベートはこみあげてくる感情に相好を崩した。

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