鏡の月 五
雲ひとつない抜けるような青空が広がっている。
けたたましい音と歓声が頭上から聞こえ、彩華が眩しそうに空を見上げると、ジェットコースターのレールが目に入った。今のはコースターが走り去る音だったようだ。
風もなく穏やかな陽気の中、園内には楽しげな話し声や笑い声が絶えず溢れている。
開園してからもう何十年と経つのだが、人気は衰えることはなく、休日はかなり賑っているようだ。
敷地内に設置された花壇には鮮やかな花々が咲きほこり、毎日来園者たちを歓迎している。植物だけでなく、ライトアップも季節ごとにその表情を変えるため、何度来ても楽しめるのだろう。
「お、チュロス発見」
「どこ? わたしも食べたいな」
地元ではあまり見かけない菓子に食指が動き、彩華は辺りを見回した。
詠の視線を追うが発見できなかった。甘い香りを漂わせているポップコーンの出店は近くにあったが、目的のものは見当たらない。
「ずっと向こう。……人の目じゃ見えないところ」
幾分か音量を抑えて詠が答えた。
ふたりの横を親子連れやカップルが足早に通り過ぎてゆく。最近新しくできたというアトラクション目当てであろう。みな一定方向に歩いている。
傍を通った来園者の鞄が当たりそうになり、彩華は慌てて避けた。その拍子にバランスを崩した彼女を詠が正面から抱きとめる。
気恥ずかしくなりながら彩華ははじかれたように離れた。
「――なんだ?」
「なんでもない。ありがと」
着飾らなくても華やかな雰囲気を持つ男と一緒にいると、立っているだけで注目されやすいのだ。必要以上に目立つことはない。
こっそり周りに視線を向けるが、幸いなことに目撃はされなかったようだ。気にしすぎだったかと、彩華は胸を撫で下ろした。来園者たちも、夢と希望の溢れる遊園地で、赤の他人になど構っていられないのだろう。
今日は平日のはずなのだが、そのわりには人が多い。平日休みの職場か、創立記念日で学校が休みなのだろうか。修学旅行もありえる。
「別の日にした方が良かったかな……」
「いつでも一緒じゃないか?」
そう言いながら、詠は右手の指をぱちんと弾いた。小さな音とともにふたりの足元に纏わりついていた影が消滅する。
「思っていたよりもさほど悪化していないし、これならこっそり片付くだろ」
「そうだねぇ……」
彩華は、ふっと遠くを見つめて呟いた。目を凝らすと僅かに視界が濁っている。うっすらと漂う邪気が視えて、目を険しく細めた。
人の集まる場所には活気が満ちる。だが、その裏には怪しげな影が潜んでいる。人の精気を狙うモノや、楽しげに笑う姿を妬むモノ。そういった異形が集まってくる。
しかも、こういった広い土地は、大昔城が建てられていた跡地であることが多いのだ。落城していたのならば、特に強い念が残りやすい。そうなるとますます悪しきモノが吸い寄せられる場所になる。
「前に来たのっていつだ?」
問われた彩華はしばし思案した。
「えーと……わたしが小学生の頃じゃないかな、たしか。詠ってどうしてたっけ?」
「ひとり寂しくお留守番」
家族水入らずの遠出だったのを彩華は思い出した。――いや、あれは家族総出の調伏退治と言ってもいいのかもしれない。実際には父親ひとりが行っていて、当時の自分たちは普通に遊んでいたのだが。
一番最初の調伏退治が入ったのはもうずっと前のことで、それこそ彩華の父親が生まれる前だ。人間の霊力では完全に消し去ることは叶わず、こうして定期的にアフターフォローすることになっている。
その後友人たちと数回遊びにきたが、外法師として特にすることはなく、ひとしきり遊んで帰った。
本日の一日パスポートは、オーナーからの好意でプレゼントされた。
「別にいいのにね」
「五千円程度の入園料ケチって事故が起こるよりいいと思っているんだろう」
そうなのだろうが、調伏依頼料は別途支払われている。
太っ腹な依頼人に感謝しつつ、彩華は目の端に映った黒い影を短い神呪で退けた。人の耳には聞こえない断末魔をあげて、妖はあっという間に掻き消えた。
「どうしよっか。行きたいところある?」
彩華が園内の地図を広げて尋ねた。
よほどのことがなければ休園にはしない、他の来園者には気づかれぬようにできるだけこっそりと、との依頼人の意向を受けている。閉園時間まで時間はたっぷりあるから、細かいところまで確認できるだろう。だが、効率よく行いたいところだ。すべてが短時間で済んでしまえば、残りは自由時間となる。
調伏退治を抜かせば久しぶりの遠出だ。目一杯遊び倒したいという欲求が彩華を襲う。
でも依頼優先だ。それは忘れていない。
「どういう回り方でもいいが。お前の好きなようにしていいぞ」
「じゃあ、チュロス食べたい」
こういった場所でなければなかなか食べられないし、と至極真面目な顔をした彩華が呟いた。
「最近感覚が俺に似てきたか?」
「そんなことないでしょ。わたしは昔から食べたい物を食べたいときに、がモットーだもの」
「それはいい座右の銘だ」
本気なのか冗談なのか、どちらとも取れる口ぶりで詠が頷く。
彩華の願いを叶えるべく、詠は彼女の手を握ると、目的の方向へと視線を向けた。
遊園地の一角にあるベンチに座ると、彩華は小さく息をついた。
天気は良いがさほど暑くもなく過ごしやすいかと思っていたが、やはり歩き回っていると少し汗ばむ。
ふたりは途中で購入したジュースでしばし休憩することにした。
自然景観と日除けを兼ねて植えられた木々の間を風が吹き抜けてゆき、詠が気持ちよさそうに目を閉じた。
ジェットコースター、メリーゴーランド、ゴーカート――などなど。久しぶりの遊園地を謳歌して、彩華の目はいつになく輝いている。
「楽しそうだな」
「すっごく楽しい」
返ってきたご機嫌な声に詠が苦笑する。
昼に入ったレストランは美味しかったし、アトラクションの待ち時間に遭遇したミニパレードは、夜のものに負けず劣らずで煌びやかだった。夜はもっと綺麗だろう。
楽しすぎて、うっかり本来の目的を忘れそうになるほどだ。
「疲れたならもうちょっと休む?」
飲み終えた紙コップを捨てに、軽い足取りでベンチから立ち上がる。戻ってくると彩華が尋ねた。
「俺は疲れんから」
目を閉じたまま詠が答えた。
霊力が弱まればそれなりに気だるく感じるのだろうが、人間と違って疲れることはない。暑さや寒さも自動シャットアウトしてしまうそうだ。
「でも、今日って月蝕でしょ?」
「多少の影響はあるだろうが、たいした問題じゃない。それに俺は、高村の人間とは違う」
彩華たち高村の者は、陰陽道を操り月を崇め祭る一族の流れを汲んでいる。そのせいか、新月の時期は霊力が弱まり、逆に満月の時期には最大限の力を発揮できる。もっとも、元々の素質や修練によって個人差はあるのだが。
「そう? じゃあ、どこか行きたいところある?」
返答にほっとして、彩華は無邪気な笑顔を見せた。
詠は薄く目を開けて何かを探すように周りを見回す。口元がほんの僅かだが緩まったのには、彼女は気づかなかった。
「……あれ、まだだったよな」
「え、どれ?」
詠が指差した方向を見やって顔をひきつらせた。
「行くか」
立ち上がり、詠は彩華の肩を軽く押す。
「ちょ……」
彩華の動揺はお構いなしに、詠は彼女が逃げられないように自身の腕を絡めると、半ば強引にお化け屋敷の入口へと向かった。
「ちょっと待った! どういう嫌がらせよっ」
腕を無理矢理振りほどき立ち止まる。ふたたび捕まらぬように詠から数歩離れた彩華は、全身の毛を逆立てて警戒している子猫のようになっている。
「なにがだ?」
「なにがだ、じゃないっ」
わたしが大嫌いだって知ってるくせに。
「中は多少涼しいだろうし、気分転換にいいだろ」
「嫌」
彩華は素っ気なく言葉を発した。
「あんなもの作り物だろう?」
「だから余計に嫌なのよ」
大勢の妖を相手にするのと、作り物のお化け屋敷では勝手が違うのだ。
「……調伏は平気なのにな。同じ場面に遭遇しても顔色変えずに倒してるくせに」
「作り物と本物は違うのよ」
わざわざ恐怖を味わおうなんて人の気が知れない。あの、人間を驚かせてやろうという作りが心臓に悪いのだ、と彩華ががなる。〝驚かせてやろう〟という気持ちは、異形にもあるのだが、そこは本人は違うものと考えているらしい。
「ああいった暗い場所には異形も潜みやすいだろう? 行かないで、何かあったらどうするんだ?」
などともっともらしいことを言う詠の目尻が僅かに動いたのを見逃さず、彩華がぎろりと睨みつけた。男の考えに本気で怒った様子で眉をつりあげた。だが、当の詠はそんなことは露も気にせずに黙って彩華の次の反応を待っている。
道行く人々が、何事かと好奇の視線をふたりに向けてゆく。往来で男女が騒いでいればかなり目立つ。
バツが悪くなった彩華はほんの少し怒りを治めると詠に向き直り、
「じゃあ、わたしは出口で待っているから行ってきて」
無駄だろうと薄々わかっているが交渉を始めた。
「駄目だ。それにひとりで入ったってつまらん」
こいつ、やっぱり人が嫌がっているのを楽しんでいるな。
彩華は大きな眼を半眼にして再度目の前の相手を睨みつけ、口を開いた。
――風破。
短い言霊は風を巻き起こし、ふたりの霊力に惹かれて寄ってきた悪しき影へと襲いかかった。
遊びに来ている来園者たちは、少し強い風が吹いたとしか感じない。近くを歩いていた女が、軽い悲鳴をあげて帽子を押さえているだけだった。
術の発動した方向へ目を向けなくても浄化したのは気配でわかる。彩華は黙ったままじっと詠を見据えた。
詠はというと、今更隠す必要はないと思ったのか、意地の悪い笑みを浮かべて彩華を見つめている。
「そんな風にいい加減な術者に育てた覚えはないぞ?」
「育ててもらった覚えもないわ」
負けじと彩華が言い返す。実際、子供に対しての教育も、術の教えもすべて父親か母親からだ。もちろん月詠尊から教わったことも少なくはないが。
ぱちんと彩華が指を鳴らした。それだけで力の弱い妖は消え去る。
男女が言い争いながらの調伏。この光景は、かなり異様だ。第三者がこの場にいたならば「もう少し真面目にやれ」と突っ込みが入りそうである。
――しばしの沈黙がこの場を支配した。
「冗談はさて置いて――」
と、唐突に真面目な顔をした詠に嫌な予感がしつつ、彩華は唇を噛んで彼の言葉を待った。
「月詠尊は必要以上には手を出さない、という約束だろう? ――あまり我侭を言うのなら、ひとりで行かせるぞ」
相手の思うツボに嵌ってはいけない。が、彼の言っていることは正しい。神の力に頼りすぎれば、人はいずれ破滅する。
「……わかった……行きます」
がっくりと項垂れて、彩華は渋々承諾する。
詠が楽しげに目を細めたのは、見なかったことにした。
おどろおどろしい雰囲気の建物の前で、彩華は一瞬立ち止まった。
「どうした」
腹の立つほど爽やかに笑う詠に殴りかかりたくなったのを必死に耐えて、彩華は嫌々足を進める。
あと少しで入口というところで、ふたたび彩華が足を止めた。
「…………」
眉をひそめて、それ以上歩けないでいる。
詠に連れてこられたお化け屋敷は西洋が舞台らしく、外観はレンガ造りの洋館だ。廃墟となった洋館を探索するアトラクションらしい。割れたガラスや崩れた外壁が陰惨な雰囲気を醸しだしている。
せめて、乗り物に乗ったら出口まで連れてってくれるライド型お化け屋敷だったらよかったのに。別の遊園地で入ったお化け屋敷は、幻想的で綺麗で怖くなくって、とっても面白かったのに。
心の中で彩華が愚痴る。不幸なことに、ここは最後まで歩くタイプのお化け屋敷だった。一度入ったら最後。出口まで自身の足で歩かねばならない。
入口に立っているスタッフの笑顔ですら恨めしい。しかし関係のないスタッフに八つ当たりするわけにも、助けを求めるわけにもいかず、彩華は渋々詠のあとに続いた。
中は当然暗い。道案内用の薄暗い明かりがところどころ点いているだけだ。
入場者の不安を煽る効果音は、まだ入口付近だというのに彩華を戦慄の恐怖へと陥れた。詠にしっかりと握られた手を引かれるが、彩華は一歩も動けない。
「仕方ないなぁ」
苦笑して、詠は一度彩華の手を離すと、自身の背中側から彼女の腕を回させた。詠の腰に両腕を回し、背中にしがみついている格好だ。
背中に顔を埋めると、彩華の視界には詠の姿以外入らなくなる。僅かに肩の力を抜いた彩華は、詠に促されるまま足を動かした。
詠にしがみついているおかげでアトラクションの内容はほとんどわからない。だが耳栓をしているわけではないから、視界が悪い分、耳からの情報が多くなる。
水の落ちる音。何かが這いずり回る音。雷が落ちたような、耳をつんざく爆発音。先に入ったらしい来園者の悲鳴が遠くで聞こえ、彩華は一層腕に力をこめた。
「苦しいぞ」
「うるさい馬鹿」
くぐもった声で彩華が罵った。だがその声には覇気がない。
「……置いていかないでよ」
冗談でも腕を振りほどかれて先に行かれてしまったら、腰が抜けてきっと歩けない。
「……それは面白そうだが、離縁状叩きつけられそうだから止めておこう」
彩華が呟くと、しばらく思案したあとに、のんびりとした答えが返ってきた。
「する気はないけど、近いことはする」
弱々しい彩華の言葉を聞いた詠は、くつくつと喉を鳴らして笑っている。
面白がっている詠の様子にムッとした彩華は、彼のわき腹をつねった。が、当人はまったく意に介していない。
所要時間は二十分程度のはずなのだが、それ以上に長く感じる。早く出口にたどり着かないかと、彩華がそればかりを願っていたそのとき。
――金属を力任せに叩くような音が聞こえる。
それに気づいた彩華は恐ろしさに息をつめた。
突然前方からあがった咆哮に、彩華は身の毛がよだつのを感じた。喉がひきつれて悲鳴すらもあげられない。
お化け役は行動範囲が決まっているのか、ふたりがお化けと一定の距離を取るとそれ以上は追ってこなかった。だが背後から壁やガラスを叩く音が聞こえるせいで恐怖感が募る。
自身の手に重ねられた詠の大きな手に、彩華の恐怖心が少しだけ和らいだ。
「こんなもの楽しむ人の気が知れない」
小さな声でぼやいた。どうしてわざと心臓に悪いことをするのか。それが不思議で、彩華は思わず考え込んでしまった。
度胸試し? そんなことをして何か良いことがあるのか。人間、遅かれ早かれ寿命は必ずくるのだから、あえて縮める必要はあるのか。大体、面白半分で危険区域に近づく大馬鹿者たちがいるせいで、術者が死にそうな目に遭うこともあるのだ。助けを求められれば可能な限り手を貸すが、自業自得と切り捨てたくなるときも、たまにある。事の真偽を糺したら被害者が実は加害者でした、なんてこともある。その怒りの矛先は、一体どこにぶつけたらいいのか――。
彼女の心を読んだかのように詠が笑みをこぼした。その顔を彼女が目撃したならば、不機嫌そうな表情をしたであろう。そんな意地の悪い笑みだ。
「彩華」
「――っ」
声をかけられた彩華は驚いて肩を揺らした。
「出口だぞ」
「本当だ……」
そっと背中の影から前方を覗くと、外の明かりが見えた。安心したのか、彩華は安堵を漏らすとともに腕の力を抜く。意識を飛ばしていたおかげで、後半の恐怖は一切なかった。恐怖の代わりに軽い怒りが彩華の心を染めあげていたのだけれど。
さぁ出口だ。彩華がほっとしたその直後。
地の底から轟いてきたような化け物の低い声と爆音に、彩華はそれまで耐えていた悲鳴を、とうとうあげた。
――最後の最後で寿命が縮まった。
「ふ……ふふ……」
人間恐怖を感じると感覚が麻痺して笑いたくなるらしい。
詠に手を引かれてやっと外へ出ることができた。地面に目を落として彩華は顔をひきつらせている。
ふたりが外へ出ると、西の空が茜色に染まりはじめていた。
彼女の傍で陽炎が揺らめいた。
あんぐりと口を開いて頭から彩華の霊力を飲みこもうとした妖は、彼女がひと睨みすると簡単に霧消した。
大きなため息を吐いて空を仰ぐ。夕方になりつつも今なお降り注ぐ陽の光が非常に懐かしい。久しぶりに感じる外の空気を存分に吸いこんだ彩華は、晴れわたった空を見上げて満面の笑みを浮かべた。
生きて帰れて本当によかった――などと今にも言いそうである。
「簡単に心を乱していると、そのうち異形につけこまれるぞ」
不意に背後から声をかけられて、彩華は振り返った。
「……笑いながら言われても説得力ないんですけどー?」
まさか今のが修練なんて言わないでしょうね、と彩華が目を尖らせた。
「修練になるかもな。もう一度入るか?」
呆れた彩華は声もない。
「わたしが暗闇が大っ嫌いとか、幽霊が大っ嫌いで仕事にならないっていうなら必要だと思うけど」
平気なのだから必要ない。本物の洋館で怪奇現象が起きているから調伏退治に行ってこい、と依頼があったなら、ひとりでも行く自信が彩華にはあるのだ。
「大体、春頃にも人を謀ってホラー映画に連れてったし!」
詠とふたりで行ってこいと、兄からチケットをもらって観に行ったはいいが、内容は身の毛のよだつホラーだったのだ。あのときの詫びはふたりにしてもらったけれど、今日はどうしてくれようか。
彩華は険しい目で睨みつけながら詠ににじり寄った。その勢いに詠が若干怯えた顔で後ずさる。上目遣いに睨みつけると、詠は口元をやや引きつらせた。
「……今言い争って時間を無駄にすることないだろう?」
時計を眺めてそんな提案をする詠を彩華は鋭く見つめるが、はっと気づいたように怒りを収めた。
「彩華?」
「そうだ。観覧車」
「観覧車?」
慌てて地図を確認している彩華の様子を見た詠の顔には、訝る表情が滲んでいる。
「こっちに行くと近道かな?」
誰に尋ねるわけでもなく呟いた。
「……観覧車に乗りたいのか?」
恐る恐る詠が尋ねる。
「そうよ。ここは夕方の景色が綺麗だって聞いたの」
園内にある大観覧車のことを指している。一周十五分ほどの空中散歩が楽しめる。
夜のイルミネーションは前回体験済みだから、今日は夕方を楽しみにしていたのだ。せっかく来たのだから、見逃したくはない。
彩華は先ほどの不穏な空気など、もうすっかり忘れた様子で、園内の地図とにらめっこしている。
「それなら急いだ方がいいんじゃないか? もう太陽沈みかけてるぞ」
「うん」
彩華は素直に頷き、観覧車の方へと向かった。
「詠? 置いてっちゃうよ」
数歩歩いたところで彩華が立ち止まり、振り返りながら言う。
「――今行く」
その後姿をしばらく眺め、うまく話をそらせることに成功したと、詠はかすかに安堵していたのだった。
窓から見える景色が遠くまで見渡せるようになってきた。
大観覧車の中で彩華と詠は向かいあわせで座り、黙したまま遊園地が夕日に染まっていくのを楽しんでいた。
行列ができているかと心配であったが、夜のパレード目当てが多かったらしく、さほど並ばずに乗ることができた。地上を見やれば、パレードの場所取りらしい人影が見える。
観覧車自体にも装飾が施されており、回転アームにある明かりが一秒ごとに点いてゆく。夜にはライトアップもされて、地上での待ち時間の間も楽しめるようになっているのだ。
「高いねー」
地上を見下ろすと人が豆粒のようだ。
彩華は視線を動かし、自分たちが遊んできたアトラクションを目で追っている。こうして観覧車に乗ると、遊園地全体が見渡せてなかなか面白い。
「……」
お化け屋敷が目に入り、一瞬動きを止めた。
「どうした?」
詠が何の気なしに問いかけると、彩華はにっこりと笑った。
「……彩華?」
笑顔なのに、詠は寒気がするほどの威圧感を覚える。
「さっきの、忘れてないからね」
観覧車は不穏な空気など関係なしにゆっくりと空を昇ってゆく。
ある種の密室であるから、詠は逃げ出したくても逃げ出せない。その気になれば可能なのだが、そんなことをしたら事態が悪化するのはわかりきっている。
「わかってる」
「それならよろしい」
彩華が腕を組み足を組み――偉そうな仕草をすると顔を見あわせて笑いあう。
ひとしきり笑ったあとは自然に無言となった。やがてふたりの乗った観覧車が頂上に着くと、彩華が感嘆の声を洩らした。
「やっぱり高いところって眺めがいいね」
だが下を覗くとさすがにちょっと怖い。
ガラス越しに遥か地上を見下ろすと今にも吸い込まれそうな錯覚に陥る。軽く身震いをして、彩華は座り直した。
半分以上過ぎたところで、観覧車が金属の軋む音とともに揺れた。強風が吹いたわけではない。地上からの振動が伝わってきた感じだ。
「……パレードは見れない、かな?」
「だな」
パレードも見たかったし、アトラクションで夜景を楽しみたかったのに、と彩華は眉をしかめた。
「休みの日にまた来ればいいさ」
「うん」
地上に視線を走らせると、彩華はじっと目を凝らした。ところどころに黒いもやが集まりだしている。次に西に目を向けると太陽を確認する。あと数分で完全に姿を消すだろう。
彩華は唇を軽く噛んで思考を巡らせた。
闇をも照らす太陽の光が届かない夜は異形たちが猛然と活動する時間だ。そんな禍々しい夜を抑圧しているのは、空に浮かぶ月。されど月神の拘束を何なく弾いてしまうモノも中にはいるのだ。
今宵は満月だが、月蝕がある。
月のない夜は、闇に紛れて妖が蠢きやすくなる――。
詠が彩華の持っている地図にざっと目を通すと、同じように下を見下ろした。
「……一体一体は滅茶苦茶弱いな」
昼の間に園全体を回って結界は強化した。それに園内はイルミネーションで明るいから、妖たちの動きは制限される。来園者が万が一襲われたとしても、軽い切り傷程度で済むだろうと詠が呟いた。
ふたりを乗せた観覧車は、まもなく地上へ降り立とうとしていた。
空は夜闇に包まれたが、煌びやかなイルミネーションで彩られた遊園地はいまだに活気に溢れている。
園内の大通りから歓声があがった。かすかにカメラのシャッター音も聞こえてくる。
電飾で着飾った衣装や飾りつけられたフロート車の行列が近くを通っているらしい。夜のパレードはメインアトラクションのひとつらしく、パレードコースは人ごみで、ここからはほとんど見ることができない。
背の高いフロート車が見えて、詠は眩しげに目を細めた。
車に負けないくらい華やかなスタッフが楽しげな音楽にあわせて踊っている。謳い文句どおり光と音で創られたおとぎの世界、と呼ぶにふさわしい。
詠はパレードから目線を外すと反対方向へ目を向けた。
少し離れたベンチにカップルが座っていた。女は貧血でも起こしたのか、ぐったりと背もたれに寄りかかり、男の介抱を受けている。
妖に精気を喰われたのだろう。しかし命に係わるほどではない。しばらく休んでいれば、疲労感は残るだろうが元のように動けるようになる。
精気を己れの糧とする異形はたいてい力は弱く、人ひとりから吸収する量も多くはない。だがその分複数の人間から摂取することになるから、ある意味厄介ではある。
瘴気が残っているならば綺麗にできるが、精気を喰われた被害者に直接してやれることは何もない。してやる道理もないし、する気もない。自分が身を置いている一族の血縁ならば話は別だが。
詠はその場を何食わぬ顔で通り過ぎた。
一体の妖が浮遊しながら建物へ入ってゆくのが横目に見えて、詠は足を止めた。そうして何か思案するように指を自分の顎に当てる。
静かに踵を返し、妖の後を追うように歩いてゆく詠の身体から、僅かな光が流れ落ちた。その豆粒ほどの塊がきらきらと輝いている。
道端で光を放つそれに誘われるように、黒い影がざわざわと集まってきた。人の目には見えず、群がるのは霊力を欲する妖のみだ。
ひょいと光の欠片を摘みあげ、妖たちは口に放りこんだ。歓喜に身を震わせて、声なき声で咆哮する。妖たちはきょろきょろと辺りを見回した。この甘い蜜のような霊力の塊は、もう落ちていないのかと。
彼らは周囲を見回し、目当てのものを見つけた妖が、ひゅ、と喉を鳴らした。それに気づいた他の妖たちも同じように鳴くと、一斉に移動を始めた。等間隔で落ちている光の粒を我先にと奪いあいながら進む。
妖たちは互いに牽制しながら道端の霊力をひとつずつ拾いあげてゆく。
一歩、また一歩と、少しずつ一匹の妖が侵入した建物へと近づいていった――それが罠だと、妖たちは考えがつかない。
撒き餌代わりに微量の霊力を与えて妖を集め、一気に片づけようという魂胆だ。
詠は後方をちらりと見やると、妖が潜りこんだアトラクションへと足を踏み入れた。
中はあらゆる方面が鏡で覆われたミラーハウスだ。数多の鏡を使用した迷路は方向がわかりづらい。鏡の錯覚で一見広く感じるが、実際はかなり狭かった。
皆パレードに夢中なのか、詠の他に人影はないようだ。外の喧騒とは違い、ミラーハウスの中は静寂に包まれていた。
迷路を攻略するだけなら壁伝いに進んでいけば、たいていは出口に辿り着くが、今は遊ぶために入ったわけではない。
先に入った妖の気配を追って、自身は気配を殺して近づく。
妖の姿を目にとめると、詠は緩慢な動作で手を伸ばした。優しく、されど強引に自分の方へ掴みよせて妖ごと指を握りこむ。抵抗らしいものは一切なく、妖は砂塵へと変化する。詠の指から零れ落ちたそれは、やがて照明を反射しながら大気へと溶けて消えていった。
一息つく間もなく、詠は後ろを振り返った。ガラスを擦りあわせたような音が、徐々に近づいてくる。同時に感じる異形の気配。
僅かに口元を緩めて笑う。
彼の望みどおり餌に釣られた妖たちが寄ってきた。
待ち受けた瞳が一瞬だけ鋭い光を放った。清冽な神気がゆるりと動いて妖を取り囲み、優しく包みこむ。
詠目掛けて歩いていた妖が一斉に立ち止まった。
事の至大に気づく間もなく、妖たちは月神の霊気とともに霧散した。異形のあげた断末魔さえ飲みこみ、何事もなかったかのように静まり返る。
「さて。これで粗方始末したかな」
彩華は彼とは別方向から攻めていって、中間地点辺りで合流することになっている。
「……」
悠然と腕を組み、たったいま目に映ったかのように鏡の己を見つめた。
数多の鏡に、視界を埋める幾人もの自分が映っている。鏡の設置の仕方なのか、まったく同じ姿もあれば、異様に膨らんで見えるものや、醜く歪んでいるものもある。しかも鏡に映ったそれは、反転作用で逆の行動を取るものだから、別の存在がそこにいるかのようだ。
しかもここは場所柄窮屈な感じがするのだ。ひどく気の弱い人間がひとりで入ったならば、気味が悪いと震えそうである。敵なしと自負する自分ですら少々不愉快を感じるのだから、ただの人間なら恐怖を覚えることもあるのだろう。
こつんと鏡を軽く叩くが当然変化はない。付喪神が憑いていれば違うのだろうが、今は妖気の一片も感じられない。
鏡は目に見えない真実を映し魔を祓うが、時に呪具としても使用される。昔から鏡に関する噂話――怪談話が多いのはこのためだ。
鏡に映った鏡の中に鏡が映り、その中にまた鏡が映る――鏡の中は無限の空間となり、現実の世界と異世界の境が曖昧になる。そうすると魑魅魍魎に都合の良い通り道ができてしまう。合わせ鏡は良くないと言われる所以だ。
だが悪しき術がかけられているか、付喪神が憑いているかでもしなければ別段気にすることはない。そうでなければこのミラーハウスのように、日常生活で合わせ鏡になっている場所には必ず妖が存在することになってしまう。
ふと何かに気づいたのか後方を見やり、詠は澄んだ眼差しで遠くを視た。
いくら障害物があっても彼には関係ない。実際には目に見えなくても、気配を得るのは容易い。特に良く見知った相手であるなら尚更だ。
詠は訝ってかすかに目を細めた。妖が騒ぎ立てている様子はないが、ミラーハウスに入る前にはなかった違和感がある。
妖とは違う空気が漂っている。
なんだこれは、と詠は訝しげに眉をひそめた。
彼女の傍にとある気配を感じ取り、詠は一瞬目を瞠った。やや呆れたようにため息をつく。
やがて不機嫌そうに口を開いた。
「本来あるべき場所へと戻ってきたか」
意志を持った時点で好きに動くのは可能だったはず。神気を纏う者が神社境内へ入れないことはないし、そうすれば自分はもっと早く人界へ戻れたはずなのだ。なのにそうしなかったのは、本体の不在時に混乱を避けるためか、あるいは――。
「……単に観光したかった、などと言い出すんじゃないだろうな」
ありそうな考えに詠は眉をひそめた。己の気紛れさはよくわかっているのだ。
――さっさと帰ってくればいいものを。
ぼそりと呟いた詠は、彩華と合流すべくミラーハウスの出口を探した。