鏡の月 三
小さな木製の看板には、墨で『霊石屋』と書いてある。ここはパワーストーンを扱っている和風の店だ。
店が開いているのを確認すると、彩華は取っ手を手前に引いた。開くときに軋む音がするが、少しも不快には感じない。どことなく懐かしい日本家屋の雰囲気だ。
「いらっしゃい。彩華」
扉を開けると、真っ白い色無地に薄紅の羽織を身につけた霊石屋の店主が笑顔で出迎えた。
「お邪魔します。今、大丈夫?」
訪ねるときは必ず客はひとりもいない。偶然なのかはたまた必然なのか。気にはなるけれど、さほど重要ではないか、と彩華はひとりごちた。
不思議な出来事は人間が思っている以上によくあることだ。
「ええ、どうぞ入って」
麻布都は柔らかく笑うと、神に仕えている者のような気品のある物腰で彩華を招き入れた。
この街へ来る前は、どこぞの有名な神社に勤めていたのかもしれない。
優雅な立ち居振る舞いに見惚れた彩華は、入り口で一瞬立ち止まり、はっと気づいて中へと進んだ。
訪問を察知していたのか、すでにお茶が用意されていた。しかも、たった今淹れたばかりというように美味しそうな湯気がたっている。
聞いたことはないが、彼女には式神という存在がいるのだろうか。――いそうな気がする。もしくは、千里眼でも持っているのかもしれない。
そんな彩華の考えに気づいてか、麻布都は意味深な笑みを浮かべて椅子を勧めた。
「……詠は、遠くへお出かけ?」
麻布都の目が一瞬きらりと光った気がした。
「え、うん……出かけてる。でも、なんで?」
突然問われて彩華はどぎまぎしながら答える。
「顔に〝寂しい〟って書いてあるもの」
彩華の表情を見た麻布都は、くすくすと肩を揺らした。
もちろん実際には顔に何も書いていないのだが、そんなことを言われると濡れタオルで顔をゴシゴシと擦りたくなる。
代わりに両の手で軽く擦ると、彩華は咳払いをひとつして気持ちを入れ替えた。トートバッグからタオルで包んだ例の和鏡を取り出して麻布都の前に置く。
中身を確認した麻布都の目が楽しげに細められた。
「ずいぶん珍しい物を持ってきたのね。これはどこで?」
「空輪山で」
外法師の仕事の一環で空輪山へ行ったときに目についたのだ、と彩華はかいつまんで話をした。山に住む精霊のことや彼らが見た内容などを話しても構わないのだが、すべてを話す必要はないだろうと判断した。
「そう。木は森に隠してあった、といったところかしら。案外身近な場所にあったのね」
やはり予想は正しかったようだ。
「彩華は天照大御神の〝天岩戸説話〟を知っている?」
麻布都が唐突にそんなことを言った。
話の繋がりがまったくわからないが知っていると彩華が頷く。神職者ならば基本中の基本だろう。
「乱暴者の弟君である素戔男尊に嫌気がさして天岩戸にお隠れになった話でしょ?」
「いささか要約しすぎだけれどそうよ」
彩華の乱暴な答えに、麻布都は表情を変えることなく言った。
弟の乱暴さを悲しんだ天照大御神は岩戸へと引き篭ってしまった。
太陽が消えてしまえばこの世は真っ暗になる。
人界だけでなく神の世界でも様々な災いが起きだしてしまい、ほとほと困った八百万の神は、太陽を呼び戻すために儀式を行った。
――岩戸の外で何やら楽しげな声がする。
不思議に思った天照大御神がどうしたのかと質問すると「貴女様よりも貴い神が現れたのでそれを喜んでいるのです」と答えが返ってきた。
少しだけ戸を開けてよくよく外を見れば、確かに神の姿が見える。
その姿をもっと良く見ようと扉を開けた途端、天照大御神は岩戸の外へと引きずり出されてしまった。
天照大御神が見た貴い神の姿は、鏡に映った自分自身であったのだ。
こうしてふたたび世界が明るくなった。
「そのときに使用したのが、八咫鏡と呼ばれる神鏡と、八尺瓊勾玉」
このふたつに天叢雲剣を足すと三種の神器となる。
伝承では、所有者はそれぞれ、八咫鏡は天照大御神、天叢雲剣は素戔男尊。
それから……と麻布都は一息ついた。
「八尺瓊勾玉は、月詠尊。月詠神社の御祭神ね」
彩華は無意識に首から下げた勾玉を服の上から握った。
勾玉は〝詠〟から貰ったのだと、何かの折に話したことがある。だから件の勾玉をただの人間が持っているとは到底思いつかないだろう。だが、麻布都が時折見せるこの世の何もかもを見通したような鋭い視線は、少し怖い。
そ知らぬ顔を決めこんだ彩華は聞き流したふりをした。
「うちの御神体は月長石の原石だよ。総元締めの神社にその勾玉があるのかは、聞いたことがないから知らないけど」
――上手く誤魔化せただろうか。
不安に思いながら彩華は程よく冷めた緑茶を啜る。
「御神体は仕えている神職者ですら滅多に見られないものね」
彩華の動揺に気づいた風もなく麻布都が頷いた。
「話を元に戻すわね。岩戸伝説で使用した八咫鏡の前に、別の鏡が用意されていたって知っている?」
「聞いたことは……ある」
自信なさ気に彩華が答えた。
日像鏡と日矛鏡。八咫鏡に先立って創られたそのふたつの鏡は、現在は八咫鏡とは別の神社の御神体になっている。
日像鏡と日矛鏡では神意に叶わず、新たに創られた八咫鏡でやっと意にあったと伝わっている。
「ふたつの鏡は意にあわなかったとされていたけれど、だからといって失敗作ではなかった。そうでなければ御神体として扱われない。一説では、本当は八咫鏡は必要なかったと言われている」
「なにそれ?」
意味不明だというように彩華は首をかしげた。
「簡単に言えば、八咫鏡は〝天岩戸〟ではなく別の儀式で使われたのよ。天照大御神の御姿、力――すべてを写し取った分身を創りだそうとした輩がいた、ということよ」
思いもよらなかった麻布都の発言に彩華は驚愕した。
そんなことが可能なのか。確かにありえない話ではないし、試してみる術者もいただろう。成功すればその者は敵なしだ。自分に都合のよい最強の式神を手に入れるようなものだ。だが、そうそう上手くいくとは思えない。
「天照大御神の件を知っていたのかは定かではないけれど、とある男たちが月詠を降ろそうとした、と聞いたわ」
「月詠を……」
実感がわかない彩華はそれだけ呟くと黙りこんだ。
「お茶、淹れ直すわね」
すっかり冷めた湯飲みを見て麻布都が立ち上がった。
部屋の奥へと向かう後姿を何気なく見つめた彩華は思案するように唇を噛んだ。何のために神を降ろそうとしたのか見当がつかない。
「大方、不老不死でも考えていたんでしょう」
音も立てずに戻った麻布都に驚き、彩華は肩をびくりと揺らした。不老不死、と小さな声で反復する。
繰り返される月の満ち欠けは〝死と再生〟として捉えられやすい。月詠には変若水と呼ばれる、飲めば若返る水の伝説もあるのだ。
国外でも論争があったという不老不死は、人間の永遠の課題なのだろう。
「男たちは当時の術者が征伐して、目論見は失敗に終わったけれど鏡は不明。術の痕跡を追っても無駄だった。仲間が持って逃げ追うせたのだ、と言う者もいた」
「この鏡がその儀式に使われたというの?」
「ええ。この彫刻は私が聞いた模様と同じよ」
麻布都は和鏡の裏をついと指差した。
細かい彫刻は、さざなみの立つ海と月なのかと思っていたが、月から湧き出した変若水が下に落ちているのを表しているようにも見える。
月神の力――否、聞いた話から想像すれば、過去の出来事は月神そのものを得ようとしていたのか。
「……」
彩華の表情がさらに硬くなった。割れた鏡面に指を這わせてぎゅっと眉をよせる。
ドッペルゲンガー、鏡、過去の凶事、月詠――このあいだから複雑に絡まっていた思考の糸が、これで綺麗に解けそうだ。
伏せていた目をあげて彩華は麻布都の顔をじっと見つめた。
「それは本当の話?」
「……という話よ。あまり公にはなっていないけれどね。今まで鏡が発見されなかったのは、ここにはないという思いこみと、術の行使が気づかれないように結界でも張ってあったからじゃないかしら」
そう言って麻布都は柔らかく微笑んだ。その表情に拍子抜けした彩華は、強張っていた肩の力を抜いて、ふっと笑う。
逸話をあたかも見てきたように話していた麻布都に、とある好奇心が沸いた。
「ねぇ。麻布都って、年はいくつなの?」
出会ってからずっと思っていた疑問を口にした。
見た感じは二十五歳くらい。誰もが羨む透き通った白磁の肌は決して病的ではなく、むしろ健康そうである。肌の艶は十代と言ってもよいくらいだ。
「女性に年齢なんて聞くものじゃないわよ?」
気を害した様子もなく、麻布都はただ微笑むだけであった。
霊石屋から彩華が退出すると、太陽はすでに沈んでいた。
日中はよかったが夜は少し肌寒い。彩華は両手を擦りあわせると、肩にかけているトートバッグを持ち直した。中には例の神鏡が入っている。呪具関係に詳しい麻布都にそのまま預けようと考えていたが受け取ってはもらえなかったのだ。
曰く、月詠と関係しているのだから月詠を祀っている神社の手元にあるのが都合がよい、と。麻布都の話はどこまでが真実なのか不明なのだが、事が事だけに隠密裏に処理した方がいいのだろう。
第一、彼のことは高村家最大の秘密であるのだ。誰にも知られてはならない。……その割には、問題の彼はまったく重要視していないのだが。彼なりに考えてはいる、と思う。たぶん。
無理矢理納得した風情で頷いた彩華は、ぼんやりと空を見上げた。
夜空には望月と呼ぶにはまだ早い月が淡い銀の輝きを放っている。
「さっさと帰ってきなさいよ、ばか」
口にした言葉は誰に聞かせるわけでもなく、彩華はぼそりと呟いた。
暗闇の中、彩華は手探りで電気のスイッチを探した。
指に触れた四角のスイッチを押すと、軽い音とともにオレンジ色の明かりが点く。ひんやりとした書庫の中は、電気を点けても少し薄暗く感じた。
少し湿った空気と独特の臭いが鼻を突き、彩華はしかめっ面をしながら棚をひとつずつ見て回る。
ふいに入り込んだ風に煽られて埃が舞い上がった。軽く吸いこんでしまった彩華は、口元を覆いながら悪態をついた。
明かり取り用の窓が開いているとはいえ、定期的に掃除しているのにどうしてこんなに埃っぽいのか。
堪らず彩華は一旦外へと出た。咳きこみ過ぎて目尻に涙が滲んでいる。
荒れた息を整えながら、どうしたものかと思案する。
棚の上は掃除し辛いから取れきれない埃が溜まっているのだろう。一度徹底的に掃除した方がいいのかもしれない。
「うん。今度詠に手伝ってもらおう」
彩華の兄も背が低いわけではないが、彼の方が幾分か高いのだ。
「整頓もしたいし……」
心配かけてる迷惑料として手伝ってもらおう。決まりだ。
勝手に決定事項扱いにした彩華はほくそ笑んだ。普段散々からかわれているのだから、このくらいは許されるだろう。
ようやく咳が治まったところで書庫へと戻ってゆく。
本殿の横には庫がふたつある。ひとつは、神社に持ち込まれた呪具などを保管する庫。そしてもうひとつがこの書庫だ。ここには、古くからの陰陽道関連の文献や、先祖が記録した日記のような書物が保管されている。
だがすべて残っているわけではない。一般人から見ればただの記録でも、後々問題が生じる可能性があると判断されて燃やされてしまった物も数多くあるのだ。
「……もったいないよねぇ」
ぶつぶつと呟きながら視線を上下左右に動かす。
「このあたりかな」
彩華が立ち止まった辺りには、千年ほど前の記録が記された書物が置いてある。空輪山での凶事について宮司にそれとなく聞いてみたものの、望んだ答えは返ってこなかった。ならば書庫にあるかもしれないと探しにきたのだった。
とはいうものの、いつの時代に起きたことなのかさっぱりである。
棚から一冊手に取ると彩華は中身を斜め読みした。
「……」
文字を目で追う彩華の眉間に皺がよった。
流麗な文字は綺麗ではある。しかし現代人には正直読みづらい。昔は草書体やら行書体が多いのだ。書道の勉強もしているが、読むのはまた別だ。
自室でじっくり読むことにした彩華は二、三冊抱えると書庫の明かりを消した。
疲れたらすぐに眠ってしまおうと考えた。
まずは被った埃を風呂で洗い流し、彩華はほっと一息ついた。そうして、髪が痛むのも構わずにタオルで荒っぽく滴を拭う。最後に手ぐしで軽く整えると、使用済みのタオルを椅子の背もたれに放り投げた。
彩華は書庫から持ってきた書物を手に取りベッドへ腰掛けると、ぱらぱらとページを捲り、時折草書辞典とにらめっこする。
字を確認しながら読み進めるが、それでも補いきれない部分がある。
集中して書物と向きあっているうちに目が疲れたのを感じた彩華は、一度目を上げて瞬きを繰り返した。
いつも以上に疲れている。
そういえば、今日は慣れない結界張りなんて芸道を行ったのだと思い出す。彩華は首と肩を数回動かすと、ふたたび書物に目を落とした。
――それからどのくらいの時間が流れたのか。彩華ははっと顔をあげると、急に眠気が襲ってきたのを感じて小さく欠伸をした。
そろそろ眠りにつくかと本を閉じる。あまり成果が感じられなかったが仕方ない。
残りはまた明日にしようと立ち上がりかけ、何かが肩に触れる感覚に、彩華は身体を強張らせた。顔を上げた瞬間、押し倒されるようにベッドへ倒れ込んだ。
持っていた厚い本がばさりと大きな音をたてて落ちる。
「――っ! いや!」
身じろぎにあわせてベッドが軋む。首筋を生温かいモノが這う感覚に、彩華は肌を粟だたせた。自身を押さえつけている気の塊は、ほんの僅かだが荒々しく感じる。目元は覆われていて何も見えない。利き手と両足を封じられ、唯一自由な左手で自身にのしかかっているモノを押し返すが、ぴくりとも動かない。
祓いの祝詞を紡ごうとして、彩華は気づいた。自分を組み伏せている相手が笑いを堪えている。
「……」
「…………。詠?」
冷静になって気配を探れば、よく知った神気だ。
「異形と御祭神の区別もつかんのか、お前は」
くっと喉を鳴らして男が笑った。手を彩華の顔の横について身体を離すと、今度は声を出して笑う。
呆然としている彩華の髪を撫でると、詠はふたたび覆い被さって彼女を抱き締めた。
久しぶりに包まれた神気と男の体温に彩華の思考が停止する。
「とにかくいったんはーなーしーてー!」
男の手から逃れようと彩華が必死にもがく。
「少し黙ってろ。近所迷惑だ」
「わかったから離してっ」
なおも男の腕から逃げ出そうと暴れる彩華に、詠が含みのある声音で囁いた。
「…………少し黙れ」
耳に届いた優しい声が彩華の動きを止めた。
糸の切れた操り人形のような彼女を見た詠は、これ幸いと両腕でしっかりと抱える。そうして優しく拘束してから、何か言いたげに開かれた彩華の唇を自身のそれで塞ぐ。
触れた唇は、熱でもあるのかというくらい熱く感じた。
驚き、ふたたび暴れだした彩華の身体を難なく押さえこみながら、詠はさらに深く口づける。
唇に伝わってくる甘い衝動に、彩華は意識が落ちかけて徐々に力を抜いた。が、何とか意識を保ってふたたび暴れだす。
彼女の主張は通じたらしく、やがて名残惜しそうに詠の唇が離れた。
「し、死ぬかと思った……」
彩華がぜいぜいと荒い呼吸を繰り返したあと、ぽつりと洩らした。
「よりによって窒息か」
色気のない、と詠が渋い顔をすると、彩華は恨みがましい目で男を見上げた。
「だったらそういう雰囲気作ってよ。ムードもへったくれもない」
彩華が負けじと言い返す。
だが、その瞳が泣きそうに揺れたのを見逃さなかった詠は、安心させるように彼女の頭を軽く撫でた。
「ただいま」
「――おかえりなさい」
「そんなに寂しかったのか? そうかそうか」
意地悪な笑みを浮かべる相手に、彩華は僅かに頬を染める。抗議の声をあげかけて、ふと口を噤んだ。自身の首筋に触れる垂れた銀の髪に気づいたのだ。そっと手を伸ばして、銀の髪を梳くように指に絡める。落ち着いてよく見れば、彼は天色の狩衣姿だ。久しぶりに見る姿に、彩華は驚いた顔で詠の顔を見つめた。
「……あと二日すれば人型も取れるようになる。少しずつ大気を取り込めば元に戻る」
そう言って詠は不機嫌そうに嘆息した。
まだ本調子ではないのだろう。彼の子供のような様子に苦笑した彩華の顔が、急に真顔になる。
「なんだ?」
詠は訝しげな表情で彼女を見た。
「緋月には会ってきた?」
「まだだが……」
なぜ急に、と詠の瞳が語っている。
「じゃあ、すぐ行ってきて。とっても心配してたから」
急かす彩華に対して詠は胡乱げな目を向けていたが、やがて大気に溶けるように姿を消した。
詠が本殿へ向かったのを見届けてから、彩華はほっと息を吐いた。身体を起して軽く乱れた服装を正す。
見慣れない姿は非常に心臓に悪い。普段とは違う雰囲気を漂わせている彼に心を惑わされていた、なんて知られなくって本当に良かった。
先ほどとはまた違った呼吸困難に陥った彩華は大きく息を吸った。
鏡は見ていないけれど、きっと顔が赤くなっている。まずは水でも飲んで落ちついて、詠に何か用意しておこう。
そう思った彩華は、ゆっくりと部屋を出ていった。
詠が戻ってくると、ふたりはベッドに寄りかかるように並んで座った。彩華の部屋で彼が仔狼の姿に変化していないときの定番である。
盆に手を伸ばした詠は、小さな握り飯を掴むと口へと運んだ。僅かに目元を和ませてゆっくり咀嚼する。
握り飯はどうしようかと悩んだ末に彩華が用意した。別に食べなくってもよいのだからお茶だけでいいかなと思ったが、多分喜ぶだろうと考えたのだ。そしてその予想は正しかったらしい。
自身の湯飲みに口をつけながら彩華が顔を綻ばせた。
「ごちそうさまでした」
詠の顔が幸せを噛みしめているように見えて、彩華はこみ上げる笑いをこらえきれずに吹きだした。
「行儀の悪い」
彼女の様子を見た詠が目を眇めた。だが、たしなめるその言葉には非難めいた響きはない。
「ごめん」
素直に謝るが、久しぶりのやりとりに妙な照れくささが残るのか、彩華の顔は緩んだままだ。
双方とも纏う空気は甘く柔らかである。
詠の肩にこつん、と頭をもたせかけた彩華はしばし目を閉じた。彼女の口元には安堵の笑みが浮かんでいる。
互いの鼓動が聞こえるほどの静けさの中、無言の時間が過ぎていった。
「それで、もう体調は大丈夫なの?」
やがて顔をあげた彩華が穏やかな口調で問うた。
人型を取れるようになるまでに二日ほど必要としても、人界へ戻ってきたということは問題ないのだろう。そうと理解していても、やはり気になる。
横に座る詠に向ける視線には不安の色が滲んでいる。
「ああ。それよりお前、また妙な物拾ってきたな?」
妙な物、とは、例の鏡のことだ。
神社へ帰ってきた彩華は、鏡を保管庫へとしまっておいた。月の神と関係があるらしい物をそこいらに放っておくわけにもいかない。結界が張ってある保管庫ならばまず間違いはないと判断したのだった。だが、それでも気配は感じたのだろう。当然といえば当然なのではあるが。
「必然的に持って帰ることになってしまったというか……」
歯切れ悪く自身の知っていることを話した彩華に、詠は飽きれまじりに息を吐いた。
「で、あれって何なの? 詠のそっくりさんとかも出てくるし」
得た情報を整理して、ぼんやりとではあるが話は繋がった。しかしそれは想像でしかないし、当事者がいるのだから真実を知りたい。
真剣な眼差しで話しかけてきた彩華に、詠は苦笑しつつ答える。
「ドッペルゲンガーとか」
「真面目に答えてる?」
「もちろん」
少しおどけた口調で話す詠を上目遣いで睨みつけると、彩華は身体をずらして彼の目の前に正座した。腕を組んで無言のまま、ただ詠の顔をじっと見つめる。
やがて詠は少し困惑した表情で口を開いた。
「他に俺が話せることはない。麻布都が言った話が正解。……不本意だけどな」
僅かに目を尖らせて遠くを見つめる仕草をする。
怒りの矛先は自分そっくりな男に対してなのか麻布都に対してなのか、はたまた古の術者に対してなのか、彩華にはわからなかった。きっと全部なのだろうと彼女は思い至った。
麻布都とどうしてそんなに相性が悪いのかと、彩華は何度か尋ねたが、教えてはもらえなかった。話したくはない事情もあるだろうから、無理には聞かないようにしていたが、詠と麻布都ふたりだけの秘密がありそうで、とっても嫌だ。
自分の考えに彩華はやや不機嫌そうに頬を膨らませて感情を表した。
「また何を考えている?」
「麻布都、ずいぶん詳しそうだったんだけど、どういう関係?」
まっすぐ向けられる彩華の視線を受け止めて、詠は優しく微笑むと、彼女の髪を愛おしそうに撫でた。
「心配するような関係じゃない。――お前と似た立場だから詳しいだけだ」
「わたしと同じ? どこかの神社の巫女、とか?」
しかも、巫女の前に〝特殊な〟という言葉がつく。
彩華が首をかしげた。それならば、あの人間離れした物腰も納得がいく。
「ああ。…………正確には違うけれど。俺のこともあれははっきり口にしないんだから、そのあたりは教えられなくても割り切ってろ」
「……わかった」
歯切れの悪い詠の物言いに、彩華は不満げな顔をしたが、やがてこっくりと頷く。
素直に頷く彩華の髪を再度撫でて、詠が優しく笑んだ。
「じゃあ、話を元に戻していい? 有紀ちゃんが見た男と、わたしが会った男は同一で、その男はおそらく大昔に月詠尊の複製しようとした儀式と関係している。儀式はおそらく成功していて、月詠尊はまんまと力を取られた、と」
「…………はっきり言うな」
時計の秒針が一周回るくらいの時間を置いてからぼそりと呟いた詠が、幾分か傷ついたような目で彩華を見つめ返した。
「ごめん。――儀式って、詠は気づいてたんだよね? 当時の術者が止めたって聞いたけど、それってわたしの祖先なの?」
いいや、と詠は首を横に振った。
「高村家はまだこの土地へ来ていない頃の話だ。ろくでなしどもは潰すの簡単だったんだがな。鏡の行方だけはどうにも掴めなくて。跡形もなく壊れたんだろうと思っていたんだが、何百年も経過してから発見されるとは」
詠は少々驚いた様子だ。
今までわからなかったのは、蛇の精霊たちが創った霊力の籠で気配が遮断され、なおかつ放置されていた場所が月詠尊を祀る神社と近すぎた結果なのだろう。
「鏡に映った月、か……」
それだけ言った詠は僅かに目を伏せると黙りこんだ。
本物そっくりの鏡像。人為的に作られた二つ目の月は、呪具の鏡に封印されたまま長い年月を経た今現れた。
「――凶変の予兆……とか」
「それはない」
恐る恐るといった風の呟きを、詠はやけにきっぱりと否定した。
「なんでよ」
拍子抜けして、ぽかんと口を開いた。彩華は意味がわからないといった表情を浮かべている。
凶事に使われた鏡から生まれた妖のようなモノ。それが自我を持って存在し、歩き回っている。本体と入れ替わろうとしているのか、それとも別の理由があるのか。アレが何を考えているのか、今の段階ではまったくわからない。
それなのに、なぜ彼がしれっとしているのか、彩華には見当がつかないでいる。
詠はしばらく目を閉じて黙考すると、
「俺の複製だから」
頬にかかる銀髪を掻きあげた。絡みのない柔らかな長い髪は、彼の余裕さを物語っているようだ。
「……あっそ」
本気で心配すると自分が馬鹿をみそうだ。
「ふざけてないぞ。そいつが悪鬼の類ならお前はとっくに喰われてるか、嬲り殺されていた」
内側からじわじわと蝕み消滅へと導いていく術を、あのとき自分が受けることになっていたら――ふいに、妖の命が尽きてゆくさまを思い出した彩華は、ぶるりと身震いした。悪意を向けられなかったから良かったものの、攻撃されていたら、今頃この世にはいなかったはず。
あの男に敵意は感じなかったが、その双眸は冷たい印象をもたらしていた。
彩華は無意識に伸ばした指で詠の衣をぎゅっと掴んだ。
「荒ぶる魂も、別に気の赴くままに暴れたい訳じゃないからな。悪意があるならこの世へ出てすぐ行動起こすだろうし」
「――ごめん。聞いてなかった」
我に返った彩華が詫びる。
「あぁ……独り言だから気にするな」
詠は気にしていない素振りを見せるため目元を和ませた。
それに返すように小さく笑うと、彩華は唇に人差し指をあてて考えるような仕草をする。
「ねぇ……彼が目の前に現れたら、どうするの?」
ずっと思っていた疑問を口にする。いずれは会うことになるだろう。
「月がふたつもあったらバランスが壊れるから、やっぱり……排除、なの? 月詠の霊力から生まれたのなら元に戻せないの?」
詠は何も言わず彩華を見つめ返した。しばしの逡巡のあと、
「俺の霊力を分け与えた緋月を俺に戻すのは無理だ。文字通りこの世から消して、大気に溶かすしか方法はない」
一度個体として存在したら、たとえ分身でも簡単にはいかないと言った。
「それじゃあ、彼は――っ」
彩華は手を口元にあてがい言葉を止めた。
欠伸を噛む姿を見た詠は彼女を抱きあげると、有無を言わさずベッドへと放りこんだ。何か言いたげな彼女の顔を黙殺して、掛け布団を肩まで引きあげる。
「どうするかは俺が考えているから今は休め」
子供をあやすように詠が頭を撫でていると、諦めて目を閉じた彩華から安らかな寝息が聞こえてきた。
暗闇の中、淡い月光だけが彩華の顔を照らしていた。