命懸けで育てた上場企業、妻が間男を飼う金づるでした
妻の上場会見。私は最前列で彼女より緊張していた。晴香は全員に感謝した。協力企業、取締役、社員、清掃員まで――。ただ、私だけは除いて。
この会社は私がゼロから創った。彼女が「社長をやってみたい」と言うから、株を譲り、退いた。夫婦だから、彼女の成功は私の成功だ。
会見後、花束を抱えて楽屋へ向かうと、晴香が若い男のネクタイを直していた。幼なじみの水城湊だ。彼は勝者の笑みを浮かべた。
その瞬間、私は気づいた。三年の夫ではなく、ただの部外者だと。七年間、私は彼女の夜食であり、感情の逃げ場だった。でも彼女の目の光は、もうずっと私のために輝いてはいなかった。
1
記者会見の会場を出たあと、地下駐車場で血を吐いた。
次に目を覚ましたとき、俺は城南大学病院の病室にいた。医師によると、今回の吐血は肝硬変に伴う食道静脈瘤の破裂が原因だったという。
出血はひとまず止まったものの、肝機能は著しく低下していた。すでに非代償性肝硬変の状態にあり、このまま悪化すれば肝不全に至る可能性が高いらしい。
「すぐに入院してください。禁酒はもちろん、さらに詳しい検査も必要です」
医師は検査結果をベッド脇の台に置いた。
「これ以上、無理を続けてはいけません。次に同じ出血が起きたとき、また間に合うとは限りません」
俺は本当の病状を晴香には伝えなかった。
胃から少し出血したため、数日間入院して様子を見る必要があるとだけ話した。
その日の夜、晴香からLINEが届いた。
「浩介、記者会見がやっと終わったよ。今から病院に行くから、待っていてね」
メッセージの最後には、キスをする顔のスタンプまで添えられていた。
彼女は相変わらず甘えるのが上手だった。まるで数時間前、別の男のそばで楽しそうに笑っていた女とは別人のように。
俺と晴香は七年間交際し、三年前に結婚した。
晴香は起業する前から「神谷晴香」の名で仕事上の実績を築いていたため、結婚後も職場では旧姓を使い続けている。会社の人間は彼女を神谷社長と呼ぶが、病院や銀行、警察関係の正式な書類に記載される名前は桐生晴香だった。
アステラを立ち上げたばかりの頃、俺たちはコンビニの弁当一つを二回に分けて食べるほど貧しかった。
そんな時代、晴香が一度だけ俺に贈り物をくれたことがある。
二人で銀細工の工房へ行き、飾りのない銀の指輪を一つずつ作った。工具で赤くなった彼女の指を見て胸が痛み、その手を握りながら、いつか金のことで頭を下げなくていい暮らしをさせると誓った。
その後、上場前最後の資金調達で不足が生じた。
一億円を確保するため、俺は十数回もの会食に参加し、勧められるまま酒を飲み続けた。喉が焼けるように痛んでも、会社さえ持ちこたえられるのなら、もう一杯くらい構わないと思っていた。
後悔したことはなかった。
晴香を愛していたからだ。
病室の外から足音が聞こえ、扉が開いた。
晴香が入ってきて、その後ろには湊が続いていた。淡い色のコートを着た彼は、いつものように人当たりのいい表情を浮かべている。
「ここで合っているみたいだね」
湊は俺に向かって軽く頭を下げた。
「浩介さん、具合はいかがですか?」
俺が答えるより先に、湊は何かを思い出したように晴香へ視線を向け、言いにくそうに目を伏せた。
「こんなこと、俺が言うべきじゃないと思うんだけど」
「何?」
「この間、歌舞伎町の近くで浩介さんを見かけた気がするんだ」
「あの辺りには、あまり健全とは言えない店も多いだろう? 声をかけようと思ったんだけど、見失ってしまって」
俺に向かって伸ばされていた晴香の手が、途中で止まった。
「浩介、本当なの?」
「違う」
「その日、俺は歌舞伎町になんて行っていない」
湊はすぐに口を挟んだ。
「俺の見間違いかもしれない」
「すみません、浩介さん。晴香のことが心配で、余計なことを言ってしまいました」
彼が一歩引くほど、まるで俺のほうが後ろめたいことを隠して怒っているように見えた。
晴香は、湊が本当に俺の顔を見たのかとは尋ねなかった。俺がその日どこにいたのかも確認しなかった。
ただ眉を寄せ、冷たい目で俺を見た。
「もう少し説明することはないの?」
俺は、必要以上に近い二人の距離へ視線を向けた。腹部が鈍く痛み始め、ゆっくりと顔を背ける。
「していないことを、どう説明すればいいのか分からない」
湊は晴香の袖を軽く引いた。
「もういいよ。病室で揉めることじゃない」
「浩介さんも最近は相当なストレスを抱えていたんだろうし、一人になりたかったのかもしれない」
晴香の表情がわずかに和らいだ。
「この数か月、湊が上場資料をまとめて、投資家との連絡まで全部手伝ってくれたの」
「湊がいなかったら、私は今日まで持たなかった」
晴香は持ってきた保温弁当箱をベッド脇の台に置いた。
「今は休んで。退院するときには迎えに来るから」
そう言って、二人は並んで病室を出ていった。
廊下の向こうへ消えていく背中を見送りながら、胸の内側を大きく抉られたような感覚に襲われた。
周囲が完全に静かになってから、俺は弁当箱を開けた。
中に入っていたのは、見るからに辛そうな激辛麻婆丼だった。
医師からは、刺激物や塩分の多い食事を避けるよう、つい先ほど注意されたばかりだった。晴香は俺が入院したことを知っているのに、なぜ血を吐いたのかさえ、まともに尋ねようとはしなかった。
スマートフォンを手に取り、何気なく湊のInstagramを開いた。
最新の写真には、背後から晴香を抱き締め、額に口づける湊の姿が写っていた。記者会見後の祝賀会らしく、晴香は目を閉じ、俺にはもう長いこと見せていない笑顔を浮かべている。
投稿には、たった一言だけ書かれていた。
『今日までそばにいられて、本当によかった』
結婚して三年、晴香は俺との親密な写真をSNSに載せることを一度も許さなかった。代表取締役の私生活が世間の話題になるべきではないと言われ、俺はずっと彼女の考えを尊重してきた。
それなのに今、彼女は何のためらいもなく、湊の腕の中にいた。
長い間その写真を見つめた末、俺はなぜか「いいね」を押していた。
そして晴香にメッセージを送った。
「この弁当、晴香が用意したのか?」
数分後、返事を寄こしたのは湊だった。
「俺が用意しました。晴香は今、電話に出られません」
「口に合いませんでしたか? すみません。普段は料理なんてほとんどしないので、何を食べられるのか分からなくて」
続けて、音声メッセージが届いた。
「湊がわざわざ用意してくれただけでもありがたいでしょう。昔から家事が苦手なのに作ってくれたんだから、あまり文句を言わないで」
晴香の声には、はっきりと苛立ちが滲んでいた。
これまで家で食事を作ったのは俺だった。洗濯も掃除も、すべて俺がしてきた。晴香が深夜まで残業した日は先に風呂を沸かし、翌日に着る服へアイロンをかけた。
それでも彼女は、一度もまともに「ありがとう」とは言わなかった。
俺はしばらくスマートフォンを握り締めたあと、一文字だけ返信した。
「分かった」
その夜は、一睡もできなかった。
翌朝になると、LINEとInstagramの通知が画面を埋め尽くしていた。晴香は湊の投稿に、ここまで一緒に歩いてくれたことを自分も幸せに思う、とコメントしていた。
二人はとてもお似合いだという書き込みまであった。
俺はスマートフォンの電源を切り、壁に手をつきながら病室を出た。
隣の病室に入院している老婦人が休憩スペースで日向ぼっこをしており、俺を見るなり親しげに話しかけてきた。
「昨日お見舞いに来ていたきれいな方、お友達?」
俺は少し黙ってから答えた。
「まあ、そんなところです」
「一緒にいた若い男性は、あの方の恋人なのかしら。とても親しそうだったわね」
老婦人は穏やかに笑った。
「あなたもあの方が好きなら、もっと早く気持ちを伝えればよかったのに。もう間に合わないかもしれないわよ」
窓の外に広がる灰色の空を眺めると、喉の奥に苦いものが込み上げてきた。
「そうですね」
「もう、間に合わないのかもしれません」
2
晴香を会社の資金危機から救うため、俺は株式を手放しただけでなく、それまで貯めてきた個人資産のほとんどを差し出した。
銀行口座に残された金額を見て、何も持っていなかった頃を思い出した。違うのは、あの頃なら晴香が隣に座り、値引きされたおにぎりを半分に分けて食べてくれたことだ。
今では、二人で一度の食事を最後まで共にすることさえ、ほとんどなくなっていた。
退院の日になって、ようやく晴香が現れた。
薄いキャメル色のコートに身を包み、化粧もきれいに整っている。記者会見の日よりも明るい表情をしており、入院している夫を心配しているというより、恋人との旅行を控えた女のように見えた。
彼女は時計を確認した。
「荷物はまとまった?」
「今夜から、上場プロジェクトのメンバーで沖縄へ慰安旅行に行くの。湊が全体の手配をしてくれていて、私も参加すると約束しているから」
思わず笑いが漏れた。
長年、晴香は仕事が忙しいという理由で、俺とまともに旅行をしたことがない。新婚旅行は資金調達の都合で取りやめになり、結婚記念日も会議と会食で終わることが多かった。
「行けばいい」
「俺は一人で帰る」
晴香は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「別に」
「拗ねているの?」
彼女は俺の前まで歩み寄り、苛立ちを隠さずに言った。
「今回の上場で、湊が助けてくれたのは事実よ。沖縄に行くのは私たち二人だけじゃない」
「写真一枚を見ただけで、変な想像をしないで」
俺は彼女を見つめた。
聞きたいことは山ほどあった。なぜ湊と沖縄へ行く時間はあるのに、入院している夫のそばにはいられないのか。なぜ証拠もない湊の話は信じるのに、俺の説明には耳を貸さないのか。
けれど、口から出たのは短い返事だけだった。
「そうか」
晴香の顔が険しくなった。
「何、その態度」
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言って」
突然、彼女は俺の手首をつかみ、無理やり目を合わせようとした。腹部の痛みが急激に強くなったが、晴香を傷つけるのが怖くて、強く振りほどくことができなかった。
「会社が一番大変な時期に、あなたはあんな場所へ行っていたんでしょう」
「湊が教えてくれなかったら、私はずっと何も知らないままだったの?」
晴香の声には、深い失望が滲んでいた。
「私は説明を聞くつもりだった。でも、みんなの心配を当然だと思わないで」
彼女が急に手を離した。
俺は二歩ほどよろめき、病床の縁をつかんで、どうにか転倒を免れた。額から冷や汗が流れ、呼吸も徐々に苦しくなっていく。
晴香の瞳に一瞬だけ迷いが浮かび、手を伸ばしかけたものの、すぐに止まった。
「本当に、私を裏切っていないんでしょうね」
俺はもう反論せず、枕の下に隠していた資金調達実行確認書と振込明細をしまおうとした。
それは一億円の資金調達が完了したことを示す書類だった。俺が自分の身体と引き換えに確保した最後の資金であり、投資ファンドの指定口座から株式会社アステラの法人口座へ入金されたことが明記されている。
俺の動きに気づいた晴香は、先に書類を抜き取った。
「一億円?」
記載された金額を見た瞬間、彼女の顔色が変わった。
「このお金、どうしたの?」
「黒川ファンドからの出資なの?」
黒川礼子は業界で名の知れた投資家だった。仕事の進め方は強引で、私生活についても週刊誌に書かれることが多い。
彼女が運用するファンドから出資を受けるため、俺は何度も関係者との会食に出席していた。
再び病室の扉が開いた。
いつの間に来たのか、湊が姿を現した。
「一億円?」
彼は書類を受け取り、わざとらしく驚いた顔をした。
「最後の資金調達は、もう完了していたんですね」
そして俺を見た。
「こんな重要なことを、どうして晴香に黙っていたんですか?」
晴香は俺を凝視した。
腹部を刃物で何度も抉られているような痛みに襲われ、俺はベッド脇の水へ手を伸ばした。
「浩介、教えて」
晴香は突然俺を抱き締め、必死な目で顔をのぞき込んだ。
「まだ話す時間がなかっただけでしょう?」
「わざと書類を隠していたわけじゃないでしょう?」
俺は首を横に振り、彼女の身体を押し返した。
晴香はその場で凍りつき、しばらく反応できなかった。
「もう私を愛していないの?」
彼女の声が急に大きくなった。
「前は、こんな態度を取らなかったじゃない」
晴香が腕を振り、ベッド脇のコップを落とした。
ガラスが床で割れ、冷たい水が俺の顔に飛び散った。額の汗と混ざり合い、頬を伝っていく。
俺はベッドの端に座ったまま、身体の震えを止めることができなかった。
この瞬間、身体と心のどちらがより痛いのか、自分でも分からなくなっていた。
湊はすぐに晴香のそばへ寄り、低い声で慰めた。彼女は拒むこともなく、その肩へ身体を預けた。
二人が再び立ち去ると、広い病室には俺一人だけが残された。
俺は掛け布団の下から、二人に見つからなかったもう一枚の振込明細を取り出した。
振込依頼人は俺で、受取口座はアステラの法人口座だった。
一億円は、とっくに会社へ入金されている。
晴香は資金の出所を確認したこともなかった。湊が「自分が調達した」と話した言葉に、裏付けがあるかどうかさえ考えなかったのだろう。
鎮痛薬を飲み、床に散らばった物を一つずつ片づけた。
身体からすべての力が抜け落ちていくようだった。荷物を引きずりながら病院を出ると、廊下の冷気が氷のように肌へ突き刺さった。
それでも、その寒さは心の中にある冷たさの一万分の一にも満たなかった。
3
湊と晴香は、幼い頃から一緒に育った。
晴香によれば、子どもの頃の湊はいつも彼女の後ろをついて回り、晴香も弟のように面倒を見ていたらしい。
数年前、海外から日本へ戻った湊は、起業に失敗して多額の借金を抱えていた。晴香は借金の一部を整理する手助けをしただけでなく、彼をアステラへ迎え入れ、高額な役員報酬、社宅、社用車、ストックオプションまで与えた。
幼なじみが困っているのだから、見捨てることはできない。
晴香はそう言っていた。
病院を出た俺は、隅田川沿いのタワーマンションへ戻った。
会社の経営が軌道に乗ってから、二人で初めて購入した住まいだった。入居した日、晴香は大きな窓の前に立ち、川面に映る夜景を眺めながら、ようやく自分たちの家ができたと笑っていた。
それより以前、俺たちは狭い賃貸アパートで暮らしていた。
夏にエアコンが壊れれば何度も冷たいシャワーを浴び、冬に暖房が足りなければ一枚の毛布に二人でくるまった。
あの頃、晴香は俺の胸に寄りかかり、何が起きても絶対に離れないと言った。
その言葉だけで、俺は何もかも彼女に差し出すことができた。
けれど今、俺はようやく、この家を出ようとしていた。
書斎で自分の書類を整理していると、資料の奥に挟み込まれた数通の業務委託契約書を見つけた。
契約当事者は、アステラと水城コンサルティング。
契約金額は大きいのに、業務内容は曖昧だった。海外市場調査とされる案件の中には、実施記録が一切存在しないものもある。
さらに不審なのは、最終的に資金が流れた複数の会社が、すべて湊の過去の事業と関係していることだった。
嫌な予感が胸を締めつけた。
俺はすぐに晴香へ電話をかけた。
一度目も二度目も応答はなく、三度目でようやくつながった。
「晴香、水城コンサルティングとの契約をすぐに確認しろ」
「湊が会社の資金を外へ流している可能性がある」
受話口から聞こえたのは、笑いを含んだ湊の声だった。背景では波の音がしている。
「どうして浩介さんは、いつも晴香が電話に出られないときにかけてくるんですか?」
「伝言なら俺が聞きましょうか?」
「晴香に代われ」
電話の向こうが二秒ほど静かになった。
湊は声を落とした。
「医者から聞いているんでしょう?」
「もう肝臓が長くは持たないって」
スマートフォンを握る手に力が入った。
「かわいそうですね」
湊は小さく笑った。
「晴香のために身体を壊すまで飲んだのに、本人は何も知らない」
少し離れたところから、晴香の声が聞こえた。
「湊、誰から?」
「何でもないよ」
湊はわざと声を張った。
「浩介さんがもう長くないって、誰かが言っているだけ。どうせまた、気を引くための冗談だろうけど」
晴香は疲れたように答えた。
「そんな悪趣味な冗談、やめて」
「切っていいよ」
通話が途切れた。
俺は書棚を蹴り倒した。
資料が雪のように床へ散らばり、その中から薄い桃色の診療明細が一枚、足元へ滑り落ちた。
診断欄には、妊娠六週と記載されていた。
患者氏名は、桐生晴香。
文字を見つめたまま、頭の中が真っ白になった。
この二か月、俺と晴香の間に夫婦らしい接触はほとんどなかった。資金調達のため、俺は出張と病院と会食を行き来する生活を続けていた。
スマートフォンが震えた。
湊から動画が送られてきた。
映像の中で、晴香はシルクの部屋着を着て、沖縄のホテルらしい部屋のソファに座っていた。背後から湊が彼女を抱き締め、晴香は疲れた表情を浮かべながらも、その腕を拒んではいなかった。
彼女の手は、そっと下腹部に添えられていた。
目の奥が熱くなった。
俺はすぐに晴香へ電話をかけた。
「浩介?」
彼女の声には動揺が滲んでいた。
「今は話せないの。帰ってからにして」
「子どもの父親は誰だ?」
電話の向こうで、何かが割れる音がした。
「私の書斎に入ったの?」
晴香の呼吸が速くなった。
「最近、浩介の精神状態がおかしいと湊から聞いていたけど、まさか勝手に私の物を調べるなんて」
「どうして私の物を見たの?」
俺は診療明細を強く握り締めた。
「この二か月、俺たちは何もしていない」
「それなのに、どうして妊娠六週なんだ?」
電話の向こうは沈黙した。
しばらくして、晴香が冷たい声で答えた。
「東京に戻ってから話す」
「今は、この話をしたくない」
通話が切れた。
散乱した書類の真ん中に立ち尽くし、呼吸をすることさえ難しかった。
晴香は妊娠している。
彼女と湊の間には、すでに子どもまでできている。
怒りと絶望が同時に込み上げ、俺は診療明細を引き裂いた。スーツケースを引きずり、マンションの外へ飛び出す。
エレベーターへ入った途端、熱い血の味が喉に広がった。
口元を押さえた手のひらが、すぐに赤く染まった。
医師は具体的な余命を告げなかった。
ただ、病状を早急に安定させ、移植適応評価を受けなければ、数か月のうちに急激に悪化する可能性があると言っていた。
俺にはもう、待っている時間がなかった。
4
俺は短期賃貸のマンションへ移り、かつての部下だった佐伯直人に連絡した。
直人は長年、俺のそばで働いていた。俺が代表取締役を辞任したあと、自ら大阪支社への異動を希望した男だ。
俺と晴香の間に何があったのか、彼は何も尋ねなかった。資金の異常について話し終えると、長く沈黙した。
「必ず調べます」
「水城コンサルティングとの過去三年分の契約と資金の流れ、全部です」
「湊が担当した海外案件も頼む」
「分かりました」
電話を切って間もなく、晴香から何度も着信が入った。
「浩介、どこにいるの?」
「どうして家に帰ってこないの?」
「本当に私と別れるつもりなの?」
「妊娠のことは、あなたが考えているような話じゃない。東京に戻ったら全部説明するから」
俺は返事をせず、電話を切った。
彼女がどんな説明を用意していたとしても、妻が別の男の子どもを身ごもったという事実を受け入れることなどできなかった。
夕方、突然インターホンが鳴った。
ここへ越してから数日しか経っておらず、住所を知っているのは直人だけだ。モニターには、沖縄土産らしい紙袋を下げた湊が映っていた。
「桐生さん、中にいるんでしょう?」
湊はカメラへ向かって穏やかに微笑んだ。
「晴香から、これを渡してほしいと頼まれました」
結局、俺は扉を開けた。
これ以上一人で推測を続けるより、彼が何を考えているのか直接聞いたほうがいいと思った。
湊が部屋へ入ろうとしたため、俺は腕を伸ばして入り口を塞いだ。
「話なら、ここで聞く」
彼の笑顔がゆっくりと消えた。
「俺が何のために来たか、分かっているでしょう」
「知らないな」
「晴香を憎くないんですか?」
湊が一歩近づいた。
「病気で入院している夫を置いて俺と沖縄へ行き、俺の子どもまで妊娠した」
「それでも晴香を憎めないんですか?」
いつも温厚で礼儀正しい男とは別人のように、湊の目は暗く歪んでいた。
「もう憎んでいるのなら、どうして会社の金を調べるんです?」
「アステラは、お前の借金を埋めるための財布じゃない」
湊はポケットから煙草を取り出し、火をつけて扉の枠へ寄りかかった。
「半分やりますよ」
「何も知らないふりをしていてください。残りの金を移し終えれば、少なくとも人生の最後に金の心配をせずに済む」
俺は冷たい目で彼を見た。
「晴香はお前に高額な役員報酬も、社宅も、社用車も、ストックオプションも与えた」
「子どものことまで隠そうとしているのに、まだ会社を盗むつもりか?」
湊の表情が険しくなった。
「だから何です?」
「あなたは晴香の何なんですか?」
「アステラの元社長? それとも、身の回りの世話をするだけの男?」
彼は嘲るように笑った。
「晴香が必要なときだけ金を出す、都合のいいATMですか?」
俺は湊の襟をつかんだ。
「お前が移した一円一円は、晴香が徹夜で企画書を書き、何度も株主に頭を下げて稼いだ金だ」
湊は俺の手の甲に浮き上がった血管を見下ろした。
「愛情深い夫のつもりですか?」
「先月、晴香が三十九度の熱を出したとき、あなたはどこにいたんです?」
「投資家と酒を飲んでいたんでしょう?」
湊は俺の耳元へ顔を寄せた。
「あなたが一億円を調達したからって、それが何になるんですか?」
「俺が持ってきた金だと言えば、晴香は信じますよ」
呼吸が止まった。
湊は首を傾け、襟元から薄い痕跡をのぞかせた。
「資金が入った日、晴香は俺の腕の中でずっと泣いていました」
「俺がいなければ会社は上場できなかったって」
俺は彼の首をつかみ、壁へ強く押しつけた。
「この卑怯者が」
「証拠はすべて警察と会社の顧問弁護士に渡す」
「アステラから動かした金は、一円残らず、お前が刑事責任を問われる証拠になる」
湊は顔色を失いながらも、笑っていた。
「やれるものなら、やってみてください」
俺は彼の耳元の壁へ拳を叩きつけた。白い壁材の欠片が床へ落ちた。
「出ていけ」
湊が立ち去ったあと、俺は長い間、玄関から動けなかった。
それでも一度は、証拠を晴香へ渡し、湊をどう処分するか彼女自身に選ばせようと考えていた。湊は晴香が長年大切にしてきた幼なじみであり、腹の子の父親でもあると思っていたからだ。
深夜、俺は晴香へ電話をかけた。
「明日の午前十時、昔よく行った喫茶店で会おう」
証拠を保存したUSBメモリを握り締める。
「湊について、大事な話がある」
受話口から、布団が擦れる音が聞こえた。
続いて、寝ぼけた湊の声が耳に届いた。
「晴香、誰……?」
晴香は声を潜めた。
「ごめん、浩介」
「明日の午前中は、名古屋で取引先と会う予定があるの。十時は無理」
「明後日なら東京に戻るから、そのときに会おう」
電話が切れる直前、彼女が湊をなだめる声が聞こえた。
「何でもないから。もう寝て」
俺はUSBメモリを握り締めた。指先から血の気が引いていく。
もともとは、証拠を最初に彼女へ渡すつもりだった。
だがもう、晴香を通さずに終わらせるしかなかった。
5
これ以上、先延ばしにすることはできなかった。
会社には数百人の社員がいる。晴香は今も代表取締役であり、湊が発覚前に最後の送金を終えれば、アステラは取り返しのつかない危機に陥る可能性があった。
晴香は子どもを身ごもっている。
このまま黙っていれば、湊は彼女も、子どもも、会社も、すべて破滅へ引きずり込む。
翌日の昼、丸の内のオフィス街で偶然二人を見かけた。
晴香は背伸びをしながら、湊のネクタイを整えていた。湊はレストランのテイクアウト用紙袋を持ち、親指で彼女の口元についたソースを拭っている。
名古屋への出張など、最初から嘘だった。
先に俺へ気づいた湊は、挑発するように眉を上げた。
晴香も視線を追って振り返り、手にしていた紙袋を落とした。
「浩介、どうしてここにいるの?」
突然、腹部が引きつった。
早くこの場を離れたいと思ったが、湊が追いつき、馴れ馴れしく俺の肩へ腕を回した。
「どうして逃げるんです?」
彼は紙袋を軽く振った。
「晴香から身体が悪いと聞きました。ここの蒸籠料理、少し食べませんか?」
「晴香も最近は脂っこいものを食べられないから、本当は俺が作ってあげたいんですけど、料理は苦手で」
紙袋から、淡い魚介出汁の匂いが漂った。
晴香は無意識に下腹部をかばい、複雑な表情で俺を見た。
「先方の予定が急に変わって、名古屋へ行く必要がなくなったの」
「まだ連絡できていなかっただけ」
「体調が悪いなら、家事代行サービスを頼めばいい」
俺は彼女の腹部へ視線を落とした。
「あまり外食ばかりするな」
背を向けたとき、視界の端で晴香が手を伸ばしかけた。
もう、どうでもよかった。
それから数日間、俺は直人と共に、水城コンサルティングとアステラの取引記録を一つずつ確認した。
架空の業務委託契約、実施されていない市場調査、複数の口座へ分散して振り込まれた資金。
すべてをつなぎ合わせると、一本の明確な証拠の線になった。
直人が最後の資料を机へ置いた。
「これだけそろっていれば、警察へ被害届を出せます」
「顧問弁護士も、業務上横領と詐欺に当たる可能性が高いと言っています」
彼は少し間を置いた。
「本当に会社へ戻るつもりはないんですか?」
「アステラは、あなたのすべてだったはずです」
俺は椅子の背へ身体を預け、ゆっくり息を吐いた。
「もう、手放せるかどうかを考える段階じゃない」
「この身体では、会社の日常経営を支えられない」
「それに、晴香の経営能力が低いわけじゃない。会社を彼女へ任せたことと、湊に壊させることは別だ」
プリンターから最後の一枚が出てきたとき、強烈な吐き気が込み上げた。
洗面所へ駆け込み、何度も空えずきを繰り返した。最後に吐き出した液体には、暗い赤色の血が混じっていた。
鏡に映る男の頬は痩せ、目の下には深い影が落ちている。顎には剃っていない髭が伸び、どう見ても、死へ向かって少しずつ衰えている人間だった。
洗面台に手をつきながら、俺は不思議なほど心が軽くなっていることに気づいた。
あまりにも長く続いた茶番が、ようやく終わろうとしていた。
6
その夜、俺は湊が関与した契約書、銀行の入出金記録、社内メールを整理し、会社の顧問弁護士へ渡した。同時に警察へ被害届を提出し、保有している証拠もすべて提供した。
主要株主の要請を受け、会社では緊急の説明会が開かれることになった。
取締役、監査役、主要株主、顧問弁護士が会議室へ集まった。
会議が始まる前、俺は久しぶりに濃紺のスーツへ袖を通した。鏡の中の青白い自分を見ていると、一つの考えが頭をよぎった。
あのとき会社を晴香に譲らなければ、何かが変わっていたのだろうか。
だが人生は、やり直す機会など与えてくれない。
会議室の扉を開けると、晴香が正面の席に座っていた。
俺を見た瞬間、彼女の瞳に驚きが広がった。
「浩介、どうしてここに?」
俺は答えず、投影機器の前へ進み、リモコンを手に取った。
「今送付された資料を開いてください」
「これからお見せするのは、アステラにおける過去三年間の資金の流れです」
会議室がざわつき始めた。
「この業務委託契約には、成果物が存在しない」
「水城コンサルティングへ入金されたあと、複数の関係会社へ資金が移されている」
「神谷社長は、本当に何も知らなかったのか?」
出席者の視線が、湊と晴香の間を行き来した。
晴香は資料を次々にめくり、顔から血の気を失っていった。
「浩介、どういうこと?」
「どうして誰も私に教えてくれなかったの?」
事態がもはや取り返せないことを悟った湊が、突然立ち上がった。
彼は俺へ駆け寄り、胸元をつかんだ。
「桐生浩介、首を突っ込むなと警告したはずだ!」
拳が頬に当たった。
俺は避けなかった。口の中へ血の味が広がる。
目を血走らせた湊が再び腕を振り上げると、会議室の人間たちが一斉に立ち上がった。
「誰か止めて!」
「警備員を呼んで!」
物音を聞いた警備員が会議室へ飛び込んできた。顧問弁護士も同時に一一〇番へ通報した。
湊は完全に理性を失ったように暴れ続け、数人の警備員によって床へ押さえつけられた。
晴香はその場に立ち尽くしていた。
やがてふらつく足取りで湊へ近づき、目の前の現実を受け入れられないまま問いかけた。
「湊、教えて」
「この資料、全部偽物なんでしょう?」
すべてが発覚した今、湊はもう、従順な弟分を演じるつもりもないらしかった。
晴香を見る目には、隠しようのない冷たさしか残っていなかった。
俺は一冊の資料を晴香の前へ置いた。
「水城コンサルティング名義で架空の業務委託契約を作り、アステラの金を自分が管理する口座へ流していた」
「警察には被害届を提出済みだ。契約書もメールも、資金記録もすべて渡してある」
晴香は震える手で資料をめくった。
「あり得ない」
「湊は、海外事業の準備費用だと言っていた」
「まだ公表できない案件だから、取締役会には話せないって……」
湊が突然笑い始めた。
「あと一歩だったのに」
「もう少しで、残りの金も全部移せた」
警備員の腕を振りほどこうとしながら、湊は晴香をにらみつけた。
「どうしてなんだよ」
「俺たちはずっと一緒に育ってきたのに、あんたは留学から戻ってきて、全部変わった」
「こいつと出会って、結婚して、一緒に会社まで作った」
その顔は醜く歪んでいた。
「どうして、あんたたちだけが、何もなかったみたいに幸せになれるんだよ」
間もなく警察官が到着した。
「水城湊さんですね。業務上横領および詐欺の疑いについて、お話を伺います」
「抵抗しないでください」
湊の手首に手錠がかけられた。
晴香は連行される湊を見つめ、追いかけようとした。
警察官が彼女の前に立った。
「桐生さん、関係者には近づかないでください」
「このあと、会社の代表者として事情を伺います」
俺は晴香の腕をつかんだ。
「最初から、お前の立場と権限を利用するために近づいたんだ」
「助けてくれたことも、約束も、優しさも、全部お前の警戒を解くためだった」
晴香の手から、資料が一枚ずつ床へ落ちた。
顔から完全に血の気が消え、書類が落ちていることにさえ気づいていなかった。
俺は鞄を手に取り、会議室を出ようとした。
晴香が背後から俺の袖をつかんだ。
「浩介、待って」
「話さなければいけないことがあるの」
俺はその手を振り払った。
「まだ湊をかばうつもりか?」
晴香は勢いよく顔を上げた。
「お腹にいた子は、あなたの子よ!」
7
晴香はバッグから流産の診断書を取り出した。
俺は一歩下がり、背中を投影機器へぶつけた。白い光が晴香の青白い顔を照らし、書類を持つ手は制御できないほど震えていた。
「妊娠に気づいたとき、すでに六週だったの」
「でも、その二週間後に流産した」
彼女はスマートフォンに保存された検査記録や処置の資料を、一枚ずつ俺へ見せた。
日付も、検査結果も、処置の内容も、すべて明確に記録されていた。
「妊娠の状態は、最初から安定していなかった」
「上場前の重圧で休めない日が続いて、結局、守れなかった」
晴香は唇を噛み、涙を流し続けた。
「その後の処置で、身体にも大きな負担がかかった」
「医師からは、今後、自然妊娠するのはかなり難しいと言われた」
「本当は、落ち着いてからあなたに話すつもりだった。でも子どもがいなくなって、どう向き合えばいいのか分からなくなった」
俺は彼女を見つめた。
「動画は何だった?」
「なぜ、湊の子どもだと思わせた?」
晴香は目を閉じた。
「流産を知った湊が、私が本当にあなたへ申し訳ないと思っているなら、自由にしてあげるべきだと言ったの」
「子どもが湊の子だと思わせれば、あなたは私を完全に嫌いになって、新しい人生へ進めるって」
「あなたはまだ若い。もう子どもを産めないかもしれない女に、縛られるべきじゃないって」
会議室には、彼女の押し殺した泣き声だけが響いていた。
「最初は、あなたから離れてもらうためだった」
「その後は?」
俺は言葉を遮った。
「湊に一度も心を動かされなかったと、本当に言えるのか?」
晴香の全身が震えた。
「違う」
慌てたように首を振った。
「本当に違うの」
だが、視線をそらした時点で、答えは出ていた。
湊を愛してはいなかったのかもしれない。けれど、崇拝されることも、頼られることも、何があっても味方をしてもらえることも、心地よく感じていたのだろう。
俺の献身を当然のものとして受け取りながら、湊が用意した一つ一つの優しさは救いとして受け入れた。
それもまた、裏切りだった。
警察から、俺と晴香はそれぞれ事情を聴かれた。
供述調書が作成されると、内容を確認したうえで署名を求められた。
湊が別室へ移される途中、廊下で晴香とすれ違った。数人の警察官が二人の間に立ち、晴香は一言だけ問いかけることができた。
「湊」
「最初から、全部私をだましていたの?」
湊は足を止め、笑った。
「泣きながら協力してくれと頼んだのは、誰だった?」
「浩介に嫌われれば、あの人は人生をやり直せるって言ったのは、誰だよ」
晴香の身体が大きく揺れた。
湊は悪意に満ちた目で彼女を見た。
「俺は、あんたの望みどおり、少し背中を押してやっただけだ」
警察官に促され、湊はそのまま連れていかれた。
晴香は廊下の中央で、呼吸の仕方さえ忘れたように立ち尽くしていた。
俺は反射的に彼女を支えようと手を伸ばし、触れる直前で止めた。
「浩介」
晴香の声が震えた。
「ごめんなさい」
「もっと早く、あなたを信じればよかった」
俺は彼女を見た。
「もう遅い」
「全部、手遅れだ」
視線が、自然と彼女の平らな腹部へ落ちた。
俺たちは、本当なら子どもを持てた。
妊娠に気づいたとき、彼女が俺へ話していれば。俺を追い払うために、最も残酷な方法を選ばなければ。
何か一つでも違っていれば、ここまで壊れることはなかったのかもしれない。
突然、腹部に激しい痛みが走った。
証拠を整理するため、何日も薬を決められた時間に飲んでいなかった。鞄から薬を取り出そうとしたところ、急いで通りかかった職員が俺の肩へぶつかった。
「すみません」
相手はそのまま立ち去ろうとしたが、俺の顔色に気づいて足を止めた。
「大丈夫ですか?」
天井の照明が回り始めた。
足から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。
意識が暗闇へ沈む直前、晴香が俺へ駆け寄ってくる姿が見えた。
その顔に浮かんだ恐怖も焦りも、嘘ではなかった。
「浩介!」
8
周囲にはすぐに人が集まった。
俺は腹部を押さえながら立ち上がろうとしたが、視界は何度も暗くなり、耳には混乱した声しか入ってこなかった。
晴香は俺のそばへ膝をつき、慌てて鞄の中を探した。
「低血糖なの?」
「浩介、飴はどこに入れているの?」
結婚したばかりの頃、俺が仕事に夢中になって食事を忘れることがあると知った晴香は、家の引き出しや車内、仕事用の鞄にまで飴を入れていた。
忘れかけていた優しさは、確かに存在していた。
晴香は飴より先に、数枚の錠剤のシートと、薬の名前が書かれた処方薬の袋を見つけた。
見慣れない薬の名前を見つめるうちに、彼女の顔は青ざめていった。
別の通行人が鞄の底から飴を見つけた。
「ありました」
晴香は飴を受け取った。
周囲の人間が俺を壁際へ座らせている隙に、彼女は処方薬の袋をそっとコートのポケットへしまった。
「浩介、病院へ行こう」
腹部を押さえ続ける俺を見て、ようやく単なる低血糖ではないと気づいたらしい。
俺は答えなかった。
視界が少し戻ると、緊急時用の薬を飲み、彼女の手を振り払った。そのまま一人で車を呼び、病院へ向かった。
晴香は追ってこなかった。
マンションへ戻った晴香は、一人でリビングのソファに座り、薬袋に書かれた名前を検索した。
画面には「肝硬変」「食道静脈瘤」「肝不全」「肝移植の適応評価」という言葉が並んでいた。
スマートフォンを握る手から、少しずつ温度が消えていった。
晴香の脳裏に、二人でこの部屋へ引っ越してきた頃の記憶が浮かんだ。
あの頃は、ソファに並んで古い映画を見ていた。晴香は毛布をいつも自分のほうへ引っ張り、冷たい足を俺の膝へ載せ、ポップコーンを床にこぼした。
映画が終わる前には、決まって俺の肩へ寄りかかって眠っていた。
あの頃の二人は、確かに愛し合っていた。
晴香は突然ソファから立ち上がり、車の鍵をつかんで部屋を飛び出した。
「すぐに浩介の居場所を調べて」
秘書へ電話をかけた声は、恐怖で震えていた。
「できるだけ早く」
間もなく秘書から連絡が入った。
「桐生さんは昨日、城南大学病院へ再入院しています」
「ただ、病院によると、本日すでに退院手続きを済ませ、福岡の移植専門医療機関で詳しい検査を受ける予定だそうです」
晴香は病院へ駆け込み、身分証明書を提示した。自分が患者の配偶者であり、入院時に登録された緊急連絡先でもあると説明した。
記録を確認した看護師は、病状が一時的に安定したため、医師の了承を得たうえで自力で福岡へ向かったと話した。
同じタイミングで、晴香のスマートフォンに航空会社からの通知が表示された。
その日の福岡行き最終便だった。
東京は激しい雨に包まれていた。
深紅色の車が水のたまった道路を走り抜ける。晴香は何度も時刻を確認し、ハンドルを握る手は完全に血の気を失っていた。
羽田空港へ到着したとき、俺は保安検査場へ入ろうとしていた。
「浩介!」
スーツケースを引く手を止めた。
晴香は全身ずぶ濡れだった。髪は頬に張りつき、いつもの隙のない姿はどこにもない。
入口の案内柵を挟み、涙と雨で濡れた顔を俺へ向けていた。
「話を聞いて」
「湊がたくさん助けてくれたから、私はあの人を信じてしまった」
「最後の資金も湊が調達したと思っていたし、あなたが本当に私を裏切ったのだと思った」
声が震えていた。
「私は、たくさんおかしなことをした」
「でも、心の中にはずっと浩介がいたの」
俺は書類袋から銀行の振込明細を取り出し、彼女の前へ差し出した。
「本当に、お前を助けたのは湊か?」
晴香は振込依頼人と受取口座を確認し、一瞬で顔色を失った。
「その一億円を用意したのは俺だ」
俺は一歩ずつ彼女へ近づいた。
「会社も、株も、これまで貯めた金も、渡せるものは全部渡した」
「この身体まで、会社の資金を集めるために壊れた」
「それでもお前は、一度も振り返って確かめなかった」
空港職員が俺へ声をかけた。
「お客様、まもなく保安検査の受付を終了いたします」
俺は目を閉じ、込み上げる涙をこらえた。
再び目を開き、晴香を見る。
「もう、元には戻れない」
俺は背を向け、保安検査場へ入った。
晴香は案内柵の外に立ち尽くしたまま、すべての力を失ったように金属製の柵を握り締めた。
涙を流し続けていたが、もう追いかけてくることはなかった。
9
福岡へ到着したあと、俺は西日本医科大学附属病院で詳しい検査を受けた。
主治医は結果を机の上に置いた。
「肝機能は、すでに重度の非代償状態にあります」
「薬物治療で一時的に症状を抑えることはできますが、長期的に見れば、肝移植が最も有効な治療法です」
「脳死下臓器提供を待つには時間がかかります。条件を満たし、ご本人の意思が明確な配偶者または近親者がいる場合、生体肝移植のドナー評価を行うこともできます」
俺には兄弟がおらず、両親もすでに他界していた。
短期間で適合する臓器を待つことは、奇跡を待つこととほとんど変わらなかった。
福岡へ着いてから、晴香からの着信は止まらなかった。LINEの未読件数は九十九件を超えていたが、俺は一つも開かなかった。
彼女にどう向き合えばいいのか、自分でも分からなかった。
翌朝、病室の扉が開いた。
スーツケースを引いた晴香が、入り口に立っていた。
一睡もしていないらしく、髪は乱れ、服には深いしわができていた。長時間泣いたため、目も赤く腫れている。
「浩介」
彼女はゆっくりとベッド脇へ歩いてきた。
「ここにいさせて」
「手続きもするし、身の回りのことも手伝うから」
震える手が伸びてきた。
指先が触れる直前、俺は反射的に身体を引いた。
晴香の手が空中で止まり、その目からすぐに涙があふれた。
「ごめんなさい」
「本当に、ごめんなさい」
ようやく自分が大きな過ちを犯したことに気づいた子どものように、同じ言葉を何度も繰り返した。
「どうして、もっと早く教えてくれなかったの?」
「どうして一人で全部抱えたの?」
俺は窓の外へ顔を向けた。
「話して、何が変わった?」
「もう全部、起きたあとだ」
「罪悪感でここにいる必要はない」
「方法を探す」
晴香が急に俺の手を握った。
「私はあなたの妻よ」
「病院が私の身体に問題がないと判断するなら、ドナー検査を受ける」
俺はすぐに手を引いた。
「必要ない」
「お前の肝臓を受け取るつもりはない」
晴香は言い返さなかった。
病床のそばへ座り、静かに俺を見た。
「これで許してもらえるなんて思っていない」
「肝臓の一部を渡せば、これまでのことが消えるとも思っていない」
その声は穏やかだった。
「でも、助けられる可能性があるのに、何もしないことだけはできない」
俺は拒み続けた。
それでも晴香は移植チームへドナー評価を申し込んだ。
病院は俺と晴香を別々に診察し、身体検査、心理評価、倫理面の確認を行った。医師は何度も晴香と二人きりで面談し、本人の意思であることを確かめ、ドナー手術に伴う危険性を説明した。
初期検査の結果、晴香はドナー候補として条件を満たしていた。
主治医が再び俺の病室を訪れた。
「桐生晴香さんの意思は明確です」
「ただし、移植を受けるかどうかを最終的に決めるのは、あなたです」
俺は長い間、何も言えなかった。
晴香は病室の入り口に立っていた。
受け入れてほしいと泣いて頼むこともなく、ただ俺を見ていた。
「浩介」
「生きて」
「この先、二度と私に会わなくてもいい。だから生きていて」
俺は最終的に、手術同意書へ署名した。
手術までの一週間、晴香は毎日、面会時間になると病院へ来た。着替えを届け、必要な手続きを手伝い、夕食の時間にはそばへ座って、病院で用意された食事を俺が食べ終えるまで見守った。
もう許してほしいとは言わず、何度も説明を繰り返すこともなかった。
ときどき、昔に戻ったような錯覚を覚えた。
けれど、一度割れたものは、つなぎ合わせても必ず亀裂が残る。
手術当日、俺たちは別々の手術室へ運ばれることになった。
エレベーターへ入る直前、晴香が俺を呼んだ。
「浩介」
振り返る。
移動用ベッドに横たわった晴香は、無理に笑顔を作った。
「必ず目を覚ましてね」
俺は答えなかった。
エレベーターの扉が静かに閉まり、二人の間を隔てた。
再び目を覚ましたとき、窓の外は夕暮れだった。
医師によれば、移植手術は成功したらしい。今後、重い拒絶反応が起きず、免疫抑制薬を決められたとおりに服用すれば、身体は徐々に回復する可能性がある。
俺はすぐに晴香の状態を尋ねた。
医師は少し沈黙した。
「ドナー手術そのものは、当初は順調でした」
「しかし桐生晴香さんは術後に腹腔内出血を起こし、緊急の止血処置を行いました」
「今後も厳重な経過観察が必要です」
数日後、晴香は重い感染症を併発した。
感染は急速に敗血症へ進み、多臓器不全を引き起こした。容体は何度も悪化し、ほとんどの時間を医療機器に支えられて過ごすことになった。
俺の回復も、想像していたよりはるかに長い時間を必要とした。
手術後、俺は病院とリハビリ施設で数か月を過ごした。状態が少し安定してから、ようやくオンラインでアステラの取締役会へ参加できるようになった。
晴香は手術前に代表取締役の辞任届を残し、保有株式の譲渡手続きも弁護士へ依頼していた。
代表取締役という立場は、物のように俺へ返せるものではない。
半年後、俺は再び取締役会へ出席した。取締役と主要株主の支持を受け、改めてアステラの代表取締役に選任された。
最初は、一週間に数時間しか働けなかった。
直人と経営陣が日常業務の大半を担い、俺は定期検査を受けながら、湊が残した問題を少しずつ整理していった。
凍結されていた事業が再開され、会社の経営も徐々に安定を取り戻した。
湊の裁判は一年以上続いた。
最終的に彼は、業務上横領と詐欺の罪で実刑判決を受けた。判決が確定したあと、一度だけ刑務所へ面会に行った。
わずか一年で、彼は別人のように痩せていた。以前は丁寧に整えられていた髪は短く刈られ、頬は落ち込み、あの余裕のある笑顔も消えていた。
俺はガラス越しに、晴香がドナー手術後の合併症によって長期入院していることを伝えた。
湊は受話器を握ったまま、長い間何も言わなかった。
あの瞬間、彼が何を考えていたのか、最後まで俺には分からなかった。
晴香の人生が終わりに近づいていた頃、俺は結局、彼女のそばにいた。
意識のある時間は日ごとに短くなっていた。時折、俺の手を握り、途切れ途切れに名前を呼んだ。
彼女はひどく痩せていた。
かつて自信と輝きに満ちていた顔から、すべての血の気が失われていた。
最後の日、晴香は自分に残された時間が少ないことを理解しているようだった。
残された力を振り絞り、俺の手を強く握った。
「浩介」
「この人生では、私があなたを傷つけた」
彼女は苦しそうに、それでも笑おうとした。
「もし来世があるなら、また夫婦になって」
「次は、私があなたを大切にするから」
俺は晴香を見つめ、最後には笑ってうなずいた。
彼女が安心して逝けるようにするための、最後の嘘だった。
心電図モニターが長い音を響かせた。
晴香の指先から、少しずつ温度が消えていった。
俺は病床のそばに座り、彼女の人生が終わる瞬間まで手を握っていた。
窓の外が白み始め、朝の光が静かな顔を照らした。
俺は彼女の指から銀の指輪を外し、自分のものと一緒に小さな箱へ収めた。
もし、本当に来世があるとしても――
俺はもう二度と、彼女には会いたくない。




