第8話 強制エントリー
Border Tower群の最上層、風が強く吹き荒れる屋上。
Rei Phantom——星野零は、膝をついたまま荒い息を繰り返していた。
銀髪が激しい風に乱れ、濡れたままのタクティカルスーツが体にぴたりと張り付いている。左肩と胸に残るガルドの重機関銃による被弾の痛みが、仮想神経をじわじわと焼き続けていた。HPは回復アイテムでようやく68%まで戻ったが、身体の芯に残る疲労感は本物のように重い。
雨が再び降り始めていた。
冷たい雨粒が、銀髪を伝って頰を滑り落ち、唇に触れる。味は無味だが、湿った土とコンクリートの匂いが鼻腔を刺激する。零はゆっくりと立ち上がり、両手のH&K USP「Phantom Edge」を確認した。
USPのサイレンサーは発射音を大幅に抑制し、「パン!」という小さく乾いた音に変える。雨音や環境ノイズに紛れやすく、零の接近戦スタイルに最適だ。反動はマイルドで、9mm弾の連射がしやすい。
零は深く息を吐いた。雨の冷たさが肺に染みる。
義眼が疼く。
右目の義眼が、ゲーム内で淡い赤い十字を浮かべながら熱を持っていた。0.3秒の先読みが、戦いの後もまだ世界をわずかにスローモーションに感じさせる。
零は屋上の縁に近づき、眼下に広がる廃墟の街並みを眺めた。
崩れたビル、錆びた車、雨に打たれるアスファルト。遠くで雷鳴が低く響き、稲妻が一瞬、空を白く染める。その光に照らされ、銀髪が幻想的に輝いた。
——勝った。また勝った。
ガルドという圧倒的な壁を、接近戦で突破した。
しかし、勝利の余韻は長く続かなかった。胸の奥に、奇妙なざわめきが広がっている。
現実の記憶が、フラッシュバックのように蘇る。
二年前の射撃部練習場。雨の降る屋外レンジ。零は最後の射撃を任され、強風の中でトリガーを引いた。弾が的に命中した瞬間、仲間たちの歓声が上がった。あのときの達成感、温かい拍手、親友の笑顔。
しかし、次の瞬間——爆発。
誤って実弾を扱った親友の叫び声。硝煙の匂い。右目から溢れ出す温かい血。痛み。闇。医師の冷たい声。「もう、射撃は無理です」。
零は唇を強く噛んだ。雨の冷たさが、仮想の頰を伝う。
ここPBOでは、撃てる。勝てる。
なのに、なぜか胸が締め付けられる。
そのとき、システムメッセージが視界中央に大きく表示された。
【重要通知:プレイヤー「Rei Phantom」に対し、公式大会「Bullet Crown」予選への強制エントリーが決定されました】
零の息が止まった。
【エントリー理由:新人エリアおよび境界エリアでの異常な戦績(撃破数累計58、KD比10.8以上)。運営による特別審査を通過。】
【予選開始まで残り48時間。強制転送先:予選専用マップ「Collapsed Highway」。参加を拒否した場合、アカウント凍結の可能性があります。】
零は無言でメッセージを凝視した。
強制エントリー。
公式大会「Bullet Crown」——PBOで最も権威ある大会。優勝者は現実世界で巨額の賞金と企業スポンサー契約を得られる。だが、それは同時に、トップランカーたちとの本格的な殺し合いを意味する。
零はこれまでソロを貫き、誰とも関わらずに戦ってきた。
仲間など必要ない。一人で十分だと思っていた。
しかし、今、強制的にその舞台に引きずり出されようとしている。
義眼が、激しく疼いた。
赤い十字が明滅を速め、視界の端がわずかに歪む。
雨の音が、遠く聞こえる。心臓の鼓動が、耳の奥で大きく響く。
——これは……ゲームか?
零はゆっくりと屋上の縁に腰を下ろした。
雨が激しくなり、銀髪をびしょ濡れにする。冷たい水が首筋を伝い、タクティカルスーツの隙間から染み込んでくる感触がリアルすぎる。
フルダイブのNeuro Linker Type-7は、五感を完全に置き換える。
今、零が感じている雨の冷たさ、風の強さ、硝煙の残り香、痛み——すべてが、脳に直接送り込まれている。
だが、義眼の疼きは違う。
現実の義眼と、ゲームのシステムが共鳴しているような……不自然な熱。
零は現実世界に戻ることを考え、ログアウトボタンを呼び出した。
しかし、指が止まる。
現実に戻れば、またあの薄暗い部屋。埃をかぶった射撃部のユニフォーム。義眼の違和感。外に出られない引きこもり生活。
ここでは、撃てる。強くなれる。「Rei Phantom」として、誰かに認められる。
零は深く息を吸い、吐いた。雨の匂いが肺に満ちる。
【強制エントリーを受け入れますか?】
メッセージが再び浮かぶ。
零は無言で「はい」を選択した。
瞬間、視界が白くフラッシュした。
転送が始まる。
廃墟の屋上が消え、零の体が光の粒子に包まれる。
次の瞬間、彼女は広大な高速道路の廃墟に立っていた。
「Collapsed Highway」——予選専用マップ。
崩壊した高架橋が何キロも続き、車が横転したり、コンクリート片が散乱したりしている。空は暗く、遠くで雷が鳴り響く。雨はここでも激しく降り続いていた。
零はゆっくりと周囲を見回した。
広すぎる。隠れる場所は多いが、逆に敵も隠れやすい。
予選はバトルロイヤル形式か、チーム戦か——詳細はまだ表示されていない。
そのとき、チャットウィンドウが爆発的に流れ始めた。
【Phantomが予選に強制エントリーされたぞ!】
【マジかよ。一瞬の幽霊が本戦級の舞台に……】
【雪華やガルドもいるらしい。楽しみだな】
【新人なのに強制って、運営が本気で注目してる証拠じゃね?】
零はチャットを無視し、二挺のUSPを構えた。
しかし、義眼の疼きが強くなっていた。
赤い十字が、激しく明滅する。
視界の端が、ぼやける。現実の部屋の輪郭が、一瞬、重なるような錯覚。
——これは、ゲームのバグか?
それとも……もっと危険な何か?
零は歩き始めた。
高架橋の残骸を慎重に進む。足音が雨に紛れる。銀髪が濡れて頰に張り付き、視界を少し邪魔する。
前方に、複数の影が見えた。
予選参加者たち。すでに戦闘が始まっているらしい。
零の義眼が反応した。
0.3秒の先読み。
敵の位置、動き、武器の種類が頭の中に浮かび上がる。
三人組。サブマシンガンとショットガン。明らかに零を狙って接近してくる。
零は低く身を沈め、崩れたガードレールの影に隠れた。
雨が激しく降る中、敵の足音が近づく。
ドンッ!
ショットガンの発射音。散弾がガードレールを削り、破片が零の腕をかすめる。仮想の痛みが鋭く走る。
零は即座に動いた。
二挺のUSPを抜き、低くダッシュしながら連射を開始した。
パン! パン! パン! パン!
雨音に紛れる小さな銃声。四発の9mm弾が先頭の敵の胸を貫く。体が後ろに吹き飛び、水溜まりに倒れ込む。
残り二人が応射。
タタタタタッ!
サブマシンガンの連射。弾が零の周囲を蜂の巣にする。跳弾が耳元を鋭くかすめ、コンクリート片が頰を切る。
零の心臓が激しく鳴る。
この音。この痛み。この緊張。
現実では味わえなかった「生きている」感覚。
しかし、同時に——義眼の疼きが頭痛のように強くなる。
視界が、一瞬、現実の部屋と重なる。
薄暗い自室。ベッドに横たわる自分の体。Neuro Linkerのヘッドギアを装着したまま動かない姿。
義眼が、現実でも熱を持っているような錯覚。
零は歯を食いしばった。
「集中……!」
彼女はガードレールを蹴り、空中に跳躍しながら光学迷彩を発動した。
体が雨に溶け込むように透明化する。
敵たちが動揺する。
「消えた!?」
零は迷彩の効果を活かし、敵の背後に回り込んだ。
迷彩が解ける瞬間、二挺のUSPを至近距離で押しつけ、トリガーを引き続ける。
パン! パン! パン! パン! パン! パン!
高速連射。雨粒が弾ける中、弾が敵の背中と頭部を貫通する。
二人が次々と倒れ、水溜まりに血のような赤いエフェクトを広げる。
【プレイヤー3名を撃破しました】
零は息を荒げながら立ち止まった。
しかし、戦闘の余韻に浸る暇はなかった。
義眼の疼きが、限界を超えていた。
視界が激しく歪む。
現実の部屋が、はっきりと浮かび上がる。
ベッドの上で横たわる自分の体。右目の義眼が、微かに光っている。
Neuro Linkerの接続が、通常より深く脳に食い込んでいるような感覚。
零は頭を抱えた。
——これは、ゲームのバグか?
それとも……もっと危険な何か?
雨が激しく降り続けるCollapsed Highway。
銀髪の少女は、膝をつきながらもUSPを構え直した。
強制エントリーされた予選。
そこで待つのは、雪華、ガルド、そしてさらに強大な敵たち。
零の胸に、初めて明確な「不安」が芽生えた。
現実と仮想の境界が、ゆっくりと——しかし確実に、崩れ始めていた。
義眼の赤い十字が、雨の中で激しく明滅し続ける。
仮想の銃姫は、強制的に引きずり出された舞台で、静かに次の戦いへと身を構えた。
雨の音が、すべてを飲み込むように響いていた。
(第8話 終わり)




