第6話 雪華の照準
中級エリアへの移行を目前に控え、Rei Phantomは「Border Tower」と呼ばれる巨大な廃墟タワー群に足を踏み入れていた。
ここはNewbie Ruinsと中級エリアの境界線。初心者には危険すぎるため、ほとんどのプレイヤーが避ける場所だ。崩れかけた高層ビルが林立し、強風がコンクリートの隙間を吹き抜ける。空は低く垂れ込め、遠くで雷鳴が響いていた。雨は小降りになっていたが、風が冷たく、銀髪を激しく乱す。
零は一番高いタワーの屋上に伏せ、Void Railgunを構えていた。
銀髪が風に激しく舞い、左目に浮かぶ赤い十字が静かに輝いている。背中には予備のH&K USP「Phantom Edge」二挺を固定し、いつでも接近戦に移行できる態勢だ。
新人ランキング1位の影響は予想以上に大きかった。
フォーラムでは「一瞬の幽霊」の異名が定着し、零を狙う強者たちが中級エリアとの境目に集まり始めていた。
零はゆっくりと息を整え、スコープを覗いた。
風速は毎秒14メートル。やや不安定な横風で、方向が頻繁に変わる。湿度が高く、弾道に微妙な影響を与える。
Void Railgunの反物質弾は通常弾より遥かに高速で、弾道落下が少ない。だが、完全に無視できるわけではない。
H&K USP「Phantom Edge」とは全く異なるこの武器の特性を、零はすでに体で理解し始めていた。USPは軽快で連射性が高く、サイレンサーにより音を抑え、9mm弾のコントロールがしやすい接近戦の王者。一方、Void Railgunは重量級の長距離特化型。反動は非常に強く、発射時のエネルギーうなりが全身を震わせ、反物質弾の「無への還元」効果は遮蔽物を問わず貫通するが、連射は不可能に近い。
零は現実の射撃部時代を思い出した。
強風の屋外レンジで、最後の射撃を任されたときの緊張と高揚。あの頃の自分が、今ここに蘇ろうとしている。
その瞬間、遠くの別のタワー屋上から、鋭い閃光が走った。
ヴゥン……!
高周波の射撃音。
零の位置から約1450メートル離れた屋上に、誰かが伏せている。
弾が零のすぐ横のコンクリートを削り、破片が頰を切った。痛みが走り、HPがわずかに減少する。
零は即座に身を低くし、Void Railgunを少しだけ角度を変えた。
——敵スナイパー。
しかも、かなりの腕前だ。風の読みが正確で、零の位置をほぼ完璧に捉えていた。
スコープを覗き直す。
相手は白を基調としたタクティカルスーツに身を包んだ少女型アバターだった。長い黒髪をポニーテールにまとめ、青い瞳が冷たく輝いている。手にしているのは精密スナイパー「Frostbite」——Void Railgunとは異なるが、風の影響を極めて補正する高性能モデルだ。軽量で連射性が高く、通常弾を使用するためVoid Railgunのような「無への還元」効果はないが、風読みと精密射撃に特化している。
プレイヤー名:**雪華**。
零の義眼が、相手の照準線を0.3秒先読みで捉えた。
雪華もまた、零の位置を正確にロックしている。
二人の視線が、1450メートルの距離を超えて交錯した。
零の心臓が、静かに速くなる。
——面白い。
初めての、本格的なスナイパー同士の対決。
接近戦の二刀流も好きだが、この遠距離の心理戦は、零の射撃部時代の魂を強く刺激した。
雪華の次の弾が飛んできた。
ヴゥン!
風を読み、わずかに左へ逸らされた弾道。零は咄嗟に体を横に滑らせ、弾をかわした。コンクリートの破片が飛び散る。
零は反撃した。
ヴゥゥゥン……!
Void Railgunの重い発射音。反物質弾が風を切り裂き、雪華の位置へ飛ぶ。
しかし、雪華は予測していたかのように体をわずかにずらし、弾をかわした。反物質弾は彼女の背後のパラボラアンテナを蒸発させ、跡形もなく消した。
零の唇が、わずかに弧を描いた。
——当たらない。
この距離、この風況で、互いの予測がほぼ完璧にぶつかっている。
0.3秒の先読みを持つ零と、卓越した風読みと反射神経を持つ雪華。
二人のスナイプは、単なる撃ち合いではなく、心理戦だった。
零は深く息を吸い、吐きながら次の射撃を準備した。
現実の記憶が、フラッシュバックする。
射撃部の大会。強風の屋外レンジで、零は最後の射撃を任された。
仲間たちが息を潜めて見守る中、零は風を読み、トリガーを引いた。あのときの緊張と高揚が、今、仮想の身体に蘇る。
だが、あの事故以来——右目を失って以来、零は二度とそんな舞台に立てなかった。
ここでは、違う。
ここでは、義眼が零に「もう一度、撃てる」機会を与えてくれている。
雪華の次の弾が、再び飛んできた。
今度はわずかに低め。風の変化を読んでの調整射撃だ。
零は体を少しだけ沈め、弾をやり過ごした。
同時に、Void Railgunの照準を微調整。風速の変化、湿度、気温、すべてを頭の中で計算する。
ヴゥゥゥン……!
三射目。
反物質弾が、強風の中でわずかに弧を描きながら雪華の位置へ迫る。
雪華は即座に反応し、屋上の遮蔽物に身を隠した。弾は遮蔽物の端を貫通し、彼女の肩をかすめた。HPがわずかに減少するエフェクトが、遠くからでも確認できた。
雪華のチャットが、零の視界にポップアップした。
【雪華】「面白いわね。一瞬の幽霊と呼ばれている子?」
零は無言で応答した。
【Rei Phantom】「……」
言葉はいらない。
この対決は、弾道で語るものだ。
雪華が再び姿を現し、素早い連射を始めた。
タン! タン! タン!
Frostbiteの高速射撃。精密だが、Void Railgunほどの貫通力はない。
零は低く移動しながら応射。
二人は屋上から屋上へ、互いの位置を予測しながら撃ち合う。
風が強くなり、弾道が複雑に変化するたび、零の義眼が0.3秒の先を「視る」。
心の中で、零は雪華を分析していた。
冷静。予測が鋭い。風の読みが零に匹敵するか、それ以上。
だが、零には義眼がある。死に際のスローモーションが、相手のわずかな動きの「先」を教えてくれる。
ヴゥゥゥン!
零の四射目。
今度は風の変化を完全に読み切り、雪華の隠れた遮蔽物を貫通した。
直撃。
雪華のHPが一気に35%減少。彼女の体がわずかによろめくのが、スコープ越しに見えた。
雪華の声が、再びチャットで響く。
【雪華】「やるじゃない。あなたの目は……普通じゃないわね」
零は小さく息を吐いた。
——普通じゃない。
そうだ。この義眼は、零のトラウマの産物であり、同時に最大の武器だ。
現実では失った「見る」能力が、ここでは超人的な予測を生んでいる。
雪華が大胆に動き、別の屋上へ素早く移動した。
零も即座に追従し、Void Railgunを構え直す。
距離が少し縮まり、約1100メートル。
風が一瞬、止んだような静けさ。
その刹那、二人は同時にトリガーを引いた。
ヴゥゥゥン! タン!
二つの弾が、空中で交錯するような錯覚。
零の反物質弾が雪華の左腕を直撃。
雪華の弾が零の右肩をかすめ、HPを18%削る。
痛みが仮想神経を焼く。
零は歯を食いしばった。
この痛みさえ、心地いい。生きている証だ。
雪華が初めて、声に出して笑ったように見えた。
【雪華】「あなた、強い。名前はRei Phantom……覚えておくわ。次に会ったら、本気で殺し合うことにしましょう」
雪華はそう残し、素早く屋上から撤退した。
零は追撃せず、Void Railgunを下ろした。
肩の痛みが、じわじわと引いていく。
零は屋上の縁に腰を下ろし、銀髪を風に任せた。
初めての、互角に近いスナイプ対決。
雪華という存在は、零に「まだ上がある」ことを教えてくれた。
心の奥で、何かが熱く疼く。
孤独だった零の戦いに、初めて「ライバル」の影が落ちた瞬間だった。
しかし、その高揚の裏側で、義眼の疼きがさらに強くなっていた。
赤い十字の明滅が速くなり、視界の端が現実の部屋と重なる。
ベッドに横たわる自分の体。Neuro Linkerの接続が深く、脳に異常な圧迫感を与えているような感覚。
零は小さく呟いた。
「……次は、当てる」
風が、再び強くなった。
仮想の銃姫は、ゆっくりと立ち上がり、次の戦場へ視線を向けた。
雪華の照準は、零の覚醒を確かに加速させていた。
そして、遠くの高層タワーの影に、黒い人影が一瞬だけ現れては消えた。
【Null】
謎の影は、静かに零の成長を観測し続けていた。
(第6話 終わり)




