第2話 0.3秒の幽霊
雨はまだ降り続いていた。
Rei Phantom——星野零は、濡れたアスファルトに立つ自分の影を見つめていた。左肩に残る先ほどの被弾の痛みが、仮想とは思えないほどリアルに疼く。HPはすでに80%近くまで回復していたが、指先の微かな震えと、心臓の激しい鼓動はまだ収まらなかった。
初めてのPvP勝利。
それだけで胸の奥が熱くなった。
しかし、零はすぐに自分を戒めた。ここはゲームだ。油断すればすぐに殺される。現実と同じように——いや、現実以上に容赦がない世界。
彼女は右手に握ったH&K USP「Phantom Edge」のグリップを強く握り直した。サイレンサーが付いたコンパクトなハンドガン。重量バランスが絶妙で、連射してもブレにくい。初心者装備とは思えない完成度だ。雨粒が銃身を伝い、冷たい感触が手のひらに染みる。
零は深呼吸をした。
銀髪が雨に濡れて頰に張り付き、冷たい水滴が首筋を滑り落ちる。湿った土とコンクリートの匂いが鼻をくすぐり、雨音が耳を満たす。
——もっと撃ちたい。
その衝動が、胸の奥から熱く湧き上がる。現実では失ったはずの「撃つ」という行為が、ここではこんなにも鮮烈に蘇る。義眼が熱を帯び、左目に浮かぶ赤い十字が、雨の雫を赤く染めて輝いている。
零はゆっくりと廃墟の路地を進んだ。足音を殺し、壁に背を預けながら角を覗く。初心者エリア「Newbie Ruins」は広大で、崩れたビルや錆びた車が無数に点在している。隠れる場所は多いが、逆に敵も隠れやすい。
チャットウィンドウが再び点滅した。
【おいPhantom、さっきの動きヤバかったぞ。どうやったんだ?】
【新人狩りしてたKillerDogが一瞬で返り討ちとか笑える】
【銀髪の女、幽霊みたいに消えて撃ってきたな】
零は無言でチャットを閉じた。
まだ、誰とも関わりたくない。ただ、撃ち続けたいだけだ。
そのとき、前方から複数の足音が聞こえた。
三人——いや、四人。雨音に混じって、重いブーツの音が近づいてくる。
零の右目が、再び熱を持った。義眼の十字が淡く赤く光る。
視界が、わずかに遅くなる。
0.3秒。
世界がスローモーションに落ちる瞬間。
零は息を止めた。
敵は四人組だった。リーダー格の男がショットガンを構え、残り三人がサブマシンガンとアサルトライフルを持っている。明らかに初心者狩りを目的としたPK集団だ。雨に濡れたタクティカルベストが体に張り付き、表情は獰猛。
「見つけたぜ、新人! さっきの銀髪だ!」
ショットガンが火を噴いた。
ドンッ!
大口径の散弾がコンクリートの壁を粉砕し、破片が零の頰を切り裂く。激しい痛みが走り、HPが一気に15%減少した。雨水と血のような赤いエフェクトが混じって飛び散る。
零は即座に動いた。
壁から飛び出し、左に低く滑り込むようにダッシュ。右手のUSPを一瞬で構え、トリガーを連打した。
パン! パン! パン! パン!
四発の9mm弾が雨のヴェールをかいくぐり、リーダー格の胸と腹に命中。男の体が後ろに吹き飛び、ショットガンが地面に落ちて水溜まりを跳ね上げる。
「うわっ!?」
残りの三人が慌ててサブマシンガンを向ける。
タタタタタッ!
雨を切り裂くような連射音。弾丸が零の周囲を蜂の巣にし、跳弾が耳元を鋭くかすめる。コンクリート片が顔に当たり、痛みが走る。
零の心臓が激しく鳴る。
この緊張。この鼓動。この痛み。
現実では味わえなかった、純粋な戦いの昂ぶり。
零は歯を食いしばり、冷たい微笑を浮かべた。クールな仮面の下で、少女の内側が熱く燃えていた。
「来い……もっと、来い!」
彼女は二挺のUSPを両手に構え、雨の中を疾走した。
接近戦。二刀流の本領発揮。
左の敵がサブマシンガンを乱射しながら近づいてくる。零の義眼が敵の指の動きを0.3秒先読みし、弾道を「視る」。
零は右へステップし、左手の銃を一瞬で上げてトリガーを引いた。
パン! パン!
二連射。敵のヘッドショット。体が崩れ落ち、水溜まりに倒れ込む。
即座に右へ旋回。もう一人の敵がアサルトライフルを構える。
タタタタタッ!
弾が零の左腕をかすめ、HPがさらに20%減少。激しい痛みが仮想神経を焼く。雨が傷口を冷やし、痛みを増幅させる。
零は痛みを無視し、右手のUSPを連射しながら距離を詰めた。
パン! パン! パン! パン! パン!
五連射。雨粒が弾ける中、敵の腹部と脚部を正確に撃ち抜く。男は膝をつき、絶叫を上げながら倒れた。
【プレイヤー「PKHunter」を撃破しました】
【プレイヤー「NewbieKiller」を撃破しました】
残る一人——サブマシンガンを乱射しながら後退しようとする男。
零は一気に距離を詰めた。
低く身を沈め、両手のUSPを同時に構える。
パン! パン! パン! パン! パン! パン!
左右交互の猛烈な連射。雨の中で銀髪が激しく舞い、九ミリ弾が容赦なく敵の体を貫く。体がビクビクと痙攣し、地面に崩れ落ちた。
【プレイヤー「ShotgunBoy」を撃破しました】
四連続の撃破メッセージが視界に浮かぶ。
零は息を荒げながら、倒れた敵の死体を見つめた。
心臓が激しく鼓動している。指が熱い。雨が銀髪を伝い、頰を濡らす。硝煙の臭いが鼻を強く刺激する。
——強い。
この世界では、自分は強い。
現実では右目を失い、銃を握れなくなったのに、ここでは違う。
義眼が、ゲームのシステムと共鳴している。死に際の0.3秒で敵の弾道を「見える」ようにしてくれる。
それは、まるで幽霊のように——一瞬で現れて、一瞬で消えて、敵を撃ち抜く。
Phantom。
その言葉が、零の脳裏に強く浮かんだ。
チャットがまた騒がしくなっていた。
【マジかよ、あの銀髪……四人同時に屠ったぞ】
【Phantomって名前、ぴったりじゃね? 一瞬の幽霊みたいだ】
【新人エリアでこんな化け物が出るとは……新人狩り終了のお知らせ】
零は無言でチャットを閉じた。
まだ、誰とも話したくない。
ただ、撃ち続けたい。この世界で、失ったものを取り戻したい。
零は再び二挺のUSPを構え、次の標的を探して歩き出した。
雨が激しく降り続ける廃墟の街。
そのとき、さらに大きな敵の気配が近づいてきた。
今度は六人。より連携の取れたPK集団が、零の戦績を聞きつけて集まってきたらしい。雨に濡れた重い足音が、地面を震わせる。
零の唇に、冷たい微笑が浮かんだ。
義眼の十字が、再び赤く輝く。
0.3秒の先読みが、敵の配置を頭の中に鮮明に描き出す。
彼女は低く身を沈め、廃墟の路地を疾走した。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
雨音がすべてを飲み込む中、銀髪の少女は再び戦場へと身を投じた。
パン! パン! パン! パン!
二刀流の連射が雨を切り裂く。
敵の叫び声が響く。
「Phantomだ! 囲め!」
零の心が、静かに燃え上がる。
孤独でもいい。
一人でも、撃ち続けられる。
この仮想の世界で、私は「Rei Phantom」として生きる。
銀髪が風を切り、雨の残り香を纏いながら、零は敵の群れの中に飛び込んでいった。
二挺の銃が、再び火を噴く。
雨が激しく降り、跳弾がアスファルトを跳ね、硝煙が雨に混じる。
零は戦いながら、現実の記憶を何度もフラッシュバックさせた。
事故の瞬間。血の匂い。右目の痛み。仲間たちの叫び。
ここでは違う。
ここでは、撃てる。勝てる。生きられる。
しかし、戦いが長引くにつれ、義眼の疼きが強くなってきた。
赤い十字の明滅が速くなり、視界の端がわずかに歪む。
0.3秒の先読みが、時折0.5秒近くまで伸びるような感覚。
零は歯を食いしばった。
——これは、何?
現実と仮想の境界が、ほんの少しだけ揺らぎ始めているような気がした。
雨はまだ止まない。
銀髪の幽霊は、廃墟の中でさらに深く、覚醒の淵に足を踏み入れていた。
(第2話 終わり)




