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第四話 調査はボルボで

四月二十九日、午前六時三十分。港南理工大学の正門へ続く坂の上は、まだ人影がまばらだった。夜の冷えがわずかに残り、空気は澄んでいる。新歓期間の喧騒もこの時間にはなく、キャンパスは静かな別の顔を見せていた。坂の上の歩道脇に、三人が立っている。


翔太がリュックを背負い直しながら言う。


「で、おやつ持ってきた?」


美咲がきょとんとする。


「おやつ?」


「遠足だぞ」


「調査でしょ」


「山入るんだぞ。糖分いるだろ」


美咲は少し考えてからリュックを開ける。


「一応、チョコとクッキーはあるけど」


「ナイス。教授は?」


二人の視線が同時に向けられる。少し離れた場所で、凛が立っている。黒いコートのポケットからスマートフォンを取り出し、地図アプリを拡大しながら位置情報を確認していた。視線は画面と周囲の地形を交互に行き来しているが、微妙に方向がずれている。


「教授」翔太が声をかける。


凛は顔を上げる。


「はい」


「おやつ持ってきた?」


「なぜでしょうか」


「遠足だから」


「本日は観測活動でございます」


「甘いものないと集中力落ちるぞ」


凛は少しだけ考え、バッグの中を確認する。


「羊羹がございます」


「羊羹?」


「血糖値の維持に適しております」


翔太が吹き出す。


「さすが教授」


凛は腕時計を見る。


「現在六時三十四分。予定より四分早い到着です」


「誰も遅刻してないのに?」


「余裕は必要です」


そう言いながら、再び地図を見る。


美咲が小声で言う。


「ねえ、教授、そっち逆じゃない?」


凛は一瞬止まり、周囲を見渡す。


「……方位は一致しております」


「門あっちだよ」


凛は黙って体の向きを修正した。


そのとき、坂の下から低く重たいエンジン音が響いてきた。三人が同時に振り返る。角を曲がって現れたのは、直線的なシルエットのステーションワゴンだった。深い紺色のボディ、四角いヘッドライト、分厚いバンパー。どこか時代を感じさせる無骨な存在感が、朝の光の中で静かに浮かび上がる。ボルボ240。瀬川の愛車である。


車はゆっくりと坂をのぼり、三人の前で止まった。助手席の窓が下がる。


「時間ぴったりだな」翔太が笑う。


瀬川はハンドルを軽く叩く。


「スウェーデン製は正確だ」


「関係あるのかそれ」


美咲が後部座席のドアを開ける。中は意外と広い。革のシートはやや硬く、年季の入った匂いがかすかに残っている。ダッシュボードには余計な液晶はなく、アナログのメーターが整然と並ぶ。


凛は黒いハードケースを両手で抱え、慎重に乗り込む。


「瀬川先輩、急加速は避けてください」


「まだ発進してねえ」


キーをひねると、エンジンが低く唸る。現代車の滑らかな音とは違い、機械らしい振動がわずかに伝わった。


「燃費、悪いんですよね」美咲が言う。


「悪い」瀬川は即答する。


「でも頑丈だ。ぶつかっても向こうが折れる」


「事故前提で言うな」


車は坂を下り、住宅街を抜け、保土ヶ谷バイパスへと合流する。早朝のバイパスは流れが速く、トラックが一定の間隔で走り抜けていく。ボルボはその流れに溶け込みながら、安定した速度で進む。横浜町田付近から東名高速へ入り、本線へ合流すると視界が一気に開けた。空は高く、雲は薄く流れ、遠くに丹沢の稜線がかすかに見える。


「厚木インターで降ります」凛が言う。


「ナビより教授を信じていいのか?」


「地図情報は客観的事実です」


「前回もそう言って迷った」


「地形が予想外でした」


翔太が笑う。


厚木で高速を降りると、空気が少し変わる。都市の匂いが薄れ、乾いた土と若い緑の匂いが混ざる。


宮ヶ瀬方面へ向かう道はゆるやかなカーブを繰り返し、山が次第に近づいてくる。湖面が朝の光を反射し、白く揺れる。


交通量は急に減り、ボルボのエンジン音だけが一定に響いた。


「丹沢って、思ったより近いですね」美咲が言う。


「都市圏の裏山だ」瀬川が答える。


「だからこそ油断が生じます」凛が静かに言う。


やがて舗装がひび割れ、林道へと入る。未舗装路に変わると、タイヤが砂利を踏み、乾いた音が響いた。ボルボは揺れながらも安定している。重い車体が地面を押さえ込むように進む。


電波表示が一つ減る。


「弱くなりました」凛が言う。


誰も冗談を言わなかった。


道の先に、小さな開けた空間が見えてくる。舗装は途切れ、土の広場が広がる。瀬川がゆっくりとブレーキを踏む。エンジンが低く唸り、そして止まる。静寂。


風が木々を揺らし、遠くで鳥が鳴く――その鳥の声が、妙に遠い。


「……ここか」翔太が小さく言う。


凛はハードケースを抱えたまま、フロントガラスの向こうを見つめる。


「配信映像と一致しております」


その声は、ほんのわずかに低かった。

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