第三話 データロガー
ゴールデンウィーク前夜の部室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。窓の外を風が抜け、遠くで軽音サークルの残響がかすかに揺れている。ホワイトボードの前に四人が集まり、瀬川がマーカーで日付を書き込む。
四月二十九日、午前七時出発。現地滞在予定三時間。
「確認するぞ。目的は?」
「磁場異常の有無の確認、低周波帯域音の計測、気圧変化の記録、GPS座標の誤差検証でございます」
凛が一息で言う。
「教授、専門書みたいに言うな」翔太が笑う。
凛は少しだけ考え、
「要するに、コンパスが狂うなら物理的原因があるはずです。それを数値で確かめます」と言い直した。
「それでいい」瀬川がうなずく。
美咲はノートを開き、静かに書き留めている。順序も言い回しも、ほとんどそのまま残る。
瀬川が部室の隅から黒いハードケースを運んでくる。机に置いた瞬間、どしりと重い音がした。ぱちん、と金具を外す。
中から現れたのは、弁当箱ほどの銀色の装置だった。角はラバーで覆われ、側面には端子と小さな液晶が整然と並ぶ。いかにも研究室の備品という顔をしている。――そして、どこかで見た“箱”に似ている。
「これが例のやつか」
「はい、データロガーです」
翔太が首をかしげる。
「ロガーって何?」
凛は装置の側面を指先で示しながら答える。
「一定間隔で数値を自動的に記録し続ける装置でございます。人間が見ていない間も、磁場や気圧、温度、振動といった物理量を時系列データとして保存します」
「ずっと勝手にメモしてくれる箱ってこと?」
「概ねその理解で差し支えありません。観測者の主観を排除できる点が利点です」
「主観?」瀬川が聞く。
「“なんとなく変だ”という感覚は記録に残りません。しかし数値であれば、後から再検証が可能です」
凛は淡々と続ける。
「配信映像ではコンパスが回転しておりましたが、それが本当に磁場変動によるものかどうかは、実測しなければ判断できません。したがって、この装置が必要となります」
翔太が腕を組む。
「勘じゃなくて証拠ってことか」
「その通りでございます」
凛は自然に装置を持ち上げ、机に置いた。
がつり、と鈍い音がする。三人の肩が同時に跳ねた。
「置き方!」
「教授、それ高いんだろ!」
凛はきょとんとする。
「衝撃吸収構造ですので問題ございません」
「精神的に問題あるわ」瀬川が低く言う。
「いくらするんだ」
凛は少しだけ考え、
「正確な価格は存じませんが、新車が一台購入可能な程度と聞いております」
と答えた。
「車?」
「国産コンパクトカー相当でございます」
部室の空気が一瞬止まる。
翔太がそっと装置から手を離す。
「それ、研究室から借りてきたんだよな」
「はい」
「許可は?」
凛はほんの一瞬、視線を逸らす。
「もちろん……明示的には」
「取ってないな」
「合理的理由は提示しております」
「なんて?」
「“地域環境における微細変動の実地観測は、基礎物理理解に寄与する可能性がある”と申し上げました」
翔太が吹き出す。
「何言ってるかわからないけど、断りづらいやつだ」
「論理は通っております」
凛は本気で言っている。
「壊したらどうなるか分かってるか」
「壊れません」
「そういう意味じゃない」
凛は電源を入れる。小さな電子音が鳴り、液晶に数値が並ぶ。
「現在の磁場値は通常範囲内。温度、気圧も安定しています」
「これが跳ねたら?」
「物理的異常の可能性がございます」
「跳ねなかったら?」
「心理的補完、もしくは錯聴の可能性が高いと考えられます」
そのとき、画面の数値が一瞬だけ上昇した。翔太が身を乗り出す。
「今、上がったよな」
凛は表示を見つめたまま答える。
「鉄骨構造の影響でしょう。校舎内では微小変動は珍しくありません」
さらりと言ってケースを閉じる。金具の音が静かな部室に重く響いた。
美咲はノートの隅に、小さく〈0.3〉と書き留める。
瀬川が言う。
「現地では俺が持つ」
「なぜですか」
「俺のほうが手汗少ない」
翔太が笑う。
凛は少し考え、
「それは合理性ではなく体質です」
と返したが、それ以上は言わなかった。
装置は瀬川の足元に置かれ、部室にはわずかな緊張が残る。緊張は、ほんの少しだけ期待にも似ていた。




