第一話 山と配信者
山は音を失ってはいない。失ってはいないが、順序が崩れている。風は吹き、枝は揺れ、葉は擦れているはずなのに、その擦過の響きは均一だ。均一であることが、むしろ異様である。世界は存在している。だが存在の配列が、どこか一段ずれている。
尾根に貼り付いた小屋は、朽ちかけた箱に過ぎない。板壁は反り、屋根は歪み、窓枠は抜け落ちている。しかし内部だけは整然としていた。机、椅子、箱状の装置、記録帳、電源。必要と判断されたもののみが残され、不要とされたものは最初から存在しなかったかのように排除されている。選別は徹底している。徹底は秩序を生み、秩序は安定を生む。安定は安心を装うが、安心とは測定可能な範囲に世界を閉じ込めることでしかない。
男は机に向かい、装置の表示を凝視している。数字は揺れ、跳ね、やがて一定の幅に収束する。揺れは誤差である。誤差は管理されるために存在する。管理できぬ誤差は誤差ではなく、誤差でないものは名づけを拒む。
「条件は揃っている」
声は乾いている。その奥で、わずかに軋むものがあった。
装置の唸りが深くなる。床板が確かに震え、その振動は足裏から背骨へと伝わり、骨の芯を軽く打つ。これは現象である。発電機の回転数が上がれば振動は増す。構造物は共振する。それだけのことだ。表示の数値も、その因果を裏づけている。物理は裏切らない。少なくとも――裏切らないはずだ。
だが背後の空気が、わずかに歪む。
風ではない。振動でもない。密度が一瞬だけ変わる。背中の中央に冷たい線が走る。装置は反応しない。数値は示さない。だが皮膚は確かにそれを知っている。耳の奥が、薄く圧される。
「錯覚だ」
男は言う。振動は現象である。現象は説明できる。しかしこの気配は現象ではない。計測できぬものは誤認である。誤認は整理されるべきだ。整理できぬものは存在しないと見なすべきだ。
装置の表示が跳ね上がる。振動が強まり、床板が軋む。机の脚がわずかに鳴る。外界の音が一枚ずつ薄れていく。葉擦れが遠のき、虫の羽音が消え、山の厚みが削がれる。残るのは唸りと、耳の奥を圧する低い気配だけだ。
「再現」
男は呟く。再現とは同じ条件で同じ結果が出ることである。結果が一致すれば現象は実在する。実在するものは管理できる。管理できるものは安全である。安全は停滞を生む。停滞は終わりである。終わりは不要である。
背後の密度がさらに濃くなる。息のようなものがある。音ではないが、無音でもない。湿った圧が皮膚の内側を押す。外からではない。内からでもない。境界が曖昧になる。境界が曖昧になれば内部と外部の区別が崩れ、区別が崩れれば測定の前提が揺らぐ。前提が揺らげば数値は意味を失う。
男の指がわずかに震える。だが数字は安定域へ戻る。振動は収束し、外界の音が戻る。戻ったように聞こえるだけかもしれない。葉擦れは再び配列を持ち、虫の羽音が空間を埋める。背後の密度も薄れる。消えたのか、観測されなかっただけなのか、最初から存在しなかったのかは断定できない。
男は記録帳を開き、一定の書式で書き込む。正常。文字は乱れない。筆圧も一定である。正常とは基準を満たすことである。基準は自ら定めた。しかしその基準が正しい保証はどこにもない。保証とは観測の積み重ねであり、観測は確定を生み、確定は可能性を殺す。
振り向けば背後に何もないことが確定する。何もないと確定すれば、この気配は誤差となる。誤差は排除される。排除された可能性は戻らない。戻らないものは最初から存在しなかったことになる。それでよいのか。
男は振り向かない。
灯りを落とす。闇が小屋を満たし、内と外の区別が溶ける。背後の厚みが意識の端に残る。存在しないはずのものが、存在しないという形でそこにある。
「観測しない」
男は低く言う。観測しないという選択もまた、ひとつの観測である。確定を拒む確定。否定を肯定する肯定。
山はやがて音を取り戻す。しかし取り戻された音が、先ほどと同一である保証はない。
男は動かない。振り向かない。背後には何もないはずだ。何もないという確信だけが、いちばん信用ならない。
「はいはいはいはい! 聞こえてる? 音いけてる?」
夜の山道に、やけに明るい声が跳ねる。スマートフォンのフロントカメラ越しに、後ろ向きのキャップをかぶった男の顔が大写しになり、その隣で女が懐中電灯を振るたび、光がぶれて画面がちらついた。
「本日は神奈川の丹沢方面、ちょい奥! いまネットで話題のミステリースポットに来ちゃいましたー!」
女が笑いながらカメラを反転させる。街灯はない。アスファルトは途中で途切れて土の道へと変わり、両側には黒い森が壁のように立ち上がっている。風が葉を擦る音だけが、やけに大きく耳に残った。音が大きい、というより――それしかない。
画面の端ではコメントが滝のように流れていた。
《そこやばいって》《マジで行ったのか》《熊出るぞ》《あそこだろ?》《やめとけ》《音消えてるぞ》
「いやいや、ただの山だから」
男は笑うが、声はわずかに乾いている。乾きが、喉ではなく鼓膜の奥から出ているように聞こえた。
投げ銭の通知音が鳴る。《¥5,000 コンパス回せ》
「きた、五千!」女が男の腕を叩く。男はポケットから小さなコンパスを取り出し、ライトにかざした。
「はい正常。北はこっち」
針は安定している。
《もっと奥》《回せ回せ》《いる》《後ろ見ろ》
男が一歩踏み出すと、針がふらりと揺れた。さらにもう一歩で、くるりと回転する。
「……あれ?」
女がライトを近づける。
「今、動いたよね?」
「スマホ近づけすぎなんだって」
男がスマートフォンを遠ざけても、針はゆっくりと、一定の速さで回り続けている。
そのとき風が止んだ。森が急に静まり返る。葉擦れが途切れたのではない。途切れるべきではないところから、音が抜けた。
「ねえ」
女の声が少し低くなる。
「さっきの道、こんな曲がってた?」
一本道のはずだった。だが闇の奥は、さきほどよりも深く、遠く感じられる。距離が伸びたのか、目盛りがずれたのか、わからない。
コメントがさらに速くなる。
《音した》《今聞こえた》《振り向くな》《やめろ》《名前呼ばれるやつ》
そして通知音が、これまでよりわずかに長く鳴った。
ピコン。
画面の端に表示が浮かぶ。《¥50,000 振り向け》
一瞬、コメントの流れが鈍る。《五万?》《マジか》《いけ》《振り向け》《伝説回》
男の喉がはっきりと上下する。
「……五万は、やばいだろ」
さきほどより低い声だった。
女が画面を覗き込み、金額を二度見する。
「ほんとに五万……?」
笑おうとして、うまく笑えない。画面の向こうの無数の視線が、こちらを押している。やめる、という選択肢が音もなく消えていく。
「振り向くだけ、な」
男はコンパスを握り直す。針は狂ったように回り続けている。
ゆっくりと体を回す。森は音を失っている。暗闇。誰もいない――はずだった。
その瞬間、マイクが拾う。
――……。
小さな擦れる音。すぐ背後から聞こえたような錯覚。女の呼吸が荒くなる。
「……今、わたしの名前」
言い終わらない。コンパスが高速で回転する。
画面が歪む。音が消える。男の口だけが何かを叫んでいる。
声は、ない。
ブラックアウト。
コメントだけが流れ続ける。
《おい》《切れた》《ガチ?》《通報しろ》《やばいって》
――配信は終了しました。
翌朝、動画は爆発的に拡散していた。再生数は三百万回を超え、「丹沢のあそこ」「ゼロ地点」「方向が消える山」とさまざまな呼び名が飛び交うが、当の配信者二人のアカウントは更新されない。
数日後、山中で発見――との小さな記事が出る。軽い脱水症状、外傷なし。ただし、配信が途切れた後の数分間については「よく覚えていない」と話しているという。スマートフォンの一部ログは破損していた。それ以上の続報はない。
丹沢の山は今日も静かで、動画のコメント欄にだけ、ときどき新しい書き込みが落ちる。
《まだ消えてないらしい》




