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世界は設計されていると思っていた

作者: はまのすけ

 自分は選ばれた存在だと、疑いなく思っていた時期がある。


 特別な力があったわけではない。

 未来が見えたわけでも、誰かの声が聞こえたわけでもない。

 ただ、この世界は自分を中心に配置されていて、どこかで常に「見られている」——そんな感覚があった。


 今なら、それは「厨二病」と呼ばれるものだと分かっている。

 誰にでも起こりうる、思春期特有の認知の歪み。

 インターネットは、そのことを過不足なく教えてくれた。


 それでも私は、あの感覚を完全には否定できなかった。



 子どもの頃から、成績は安定していた。

 小学校ではテストの返却で名前を呼ばれ、

 中学では進路の話題になると教師がこちらを向いた。

 高校は進学校と呼ばれる部類で、偏差値は六十を少し超えていた。


 だがそれは、誇るほどのことではない。

 努力すれば届く範囲であり、偶然に左右されるほどでもない。

 私自身、その位置を「上位」だと強く意識していたわけではなかった。


 ただ、世界は整って見えていた。


 物事には理由があり、

 人の配置には意味があり、

 自分がここにいることも、説明可能であるように思えた。


 それは慢心ではなかった。

 むしろ、静かな納得に近い。


 夜、机に向かいながら、ふと考えることがあった。

 世界は、無作為に積み上げられたものなのだろうか、と。


 偶然が重なり、今この形になった。

 そう説明されれば、理解はできる。

 だが、腑に落ちることはなかった。


 私は、世界を「見ている側」にいる感覚を持っていた。

 それは優越感ではない。

 選ばれている、という陶酔でもない。


 もっと事務的で、もっと冷静な感覚だ。


 ――配置されている。


 そんな言葉が、当時の私には最も近かった。


 インターネットが普及し始めた頃、

 似たような思考が「厨二病」と呼ばれているのを知った。


 特別でありたいという欲望。

 世界を自分中心に捉える未熟さ。

 成長とともに消える幻想。


 私は、その説明を否定しなかった。

 確かに、そういう側面もあるだろう。


 だが、同時に思った。


 本当に、それだけだろうか。


 大学へ進学すると、世界の見え方は変わった。

 自分よりもはるかに優秀な人間が、いくらでもいる。

 努力は戦略になり、成果は数値で比較される。


 「上位」という言葉は、意味を失っていった。


 それでも、あの感覚だけは消えなかった。

 世界が、単なる偶然の集合体には見えないという直感。


 多くの人は、それを手放していった。

 忙しさや、現実や、説明のしやすさの中で。


 社会人になり、営業職に就いた。

 私は、言葉を選ぶことを覚えた。

 違和感を口にしないことが、最適解だと理解した。


 世界は、整合的である方が都合がいい。

 疑問は、分類され、説明され、処理される。


 疲労。

 ストレス。

 過去の成功体験への執着。


 どれも、もっともらしい。


 だから私は、何も言わない。

 あの感覚について語ることはない。


 だが、捨ててもいない。


 夜、部屋の灯りを消すと、

 世界は静かで、何も主張しない。


 その沈黙の中で、私は思う。


 もし、世界が本当に無作為なものなら、

 なぜ、あの感覚はこんなにも自然に立ち上がったのか。


 なぜ、同じ位置にいたはずの人々は、

 皆、同じようにそれを失っていったのか。


 彼らは忘れたのではない。

 説明され、納得し、手放したのだ。


 私は、それができなかった。


 できなかったのではない。

 しなかった。


 世界が偶然であると断言するには、

 私はあの感覚を知りすぎている。


 社会人になってから、私は「適切な人間」になった。


 空気を読み、

 余計なことを言わず、

 期待されている役割を理解する。


 営業という仕事は、世界がどのように作動しているかをよく見せてくれる。

 人は合理的に判断しているつもりで、

 ほとんどの場合、感情と慣習に従って動く。


 それを責める気はない。

 むしろ、その方が生きやすい。


 私自身、そうして生きている。


 昼休み、同僚たちは将来の話をする。

 昇進、転職、結婚、資産形成。

 どれも重要で、現実的で、正しい。


 その会話の中で、私はただ頷いている。

 否定もしないし、異を唱えもしない。


 なぜなら、彼らが間違っているとは思わないからだ。


 ただ――

 足りないものがある。


 それを言葉にすると、急に幼稚になる。

 抽象的で、証明できず、共有されにくい。


 だから語られない。

 語られないから、存在しないことになる。


 だが、存在しないものは、失われない。

 失われるのは、確かにあったものだけだ。


 私は思う。

 あの感覚は、能力でも才能でもない。


 選ばれたから生まれたのではない。

 上位だったから保持できたのでもない。


 むしろ逆だ。


 成績が安定し、

 環境が整い、

 将来が説明可能だったからこそ、

 世界を疑う余裕があった。


 不安に押し潰されることなく、

 焦りに視野を奪われることなく、

 「なぜ、この形なのか」と考える余地が残っていた。


 多くの人は、もっと早い段階で現実に追われる。

 説明に救われ、

 納得に安堵し、

 疑問を閉じる。


 それは賢明だ。

 大人になるということでもある。


 だから私は、彼らを見下さない。

 上位だったことを誇らない。

 今も特別だとは思っていない。


 ただ、ひとつだけ違う点がある。


 私は、あの感覚を「誤り」だと確定しなかった。


 世界は、誰かに設計されたものだ。

 そう断言するつもりはない。


 だが、世界が「設計されていない」と言い切る自信も、

 私にはない。


 人は、加齢とともに調整されていく。

 過剰な意味付けは削がれ、

 都合の悪い直感は修正される。


 その過程で、多くのものが失われる。

 想像力、畏怖、違和感。


 そして、

 世界が「ただの世界」になる。


 私は、それを拒んだわけではない。

 ただ、最後の一線を越えなかった。


 あの感覚は、

 今も私の中で、静かに息をしている。


 何かを主張するわけでもなく、

 行動を促すわけでもない。


 ただ、問いを残す。


 ――本当に、これだけか。


 夜、帰宅し、ネクタイを外し、

 窓の外を眺める。


 世界は、何事もなく続いている。

 奇跡も啓示も起こらない。


 それでも私は思う。


 もしあなたが、

 かつて同じ感覚を持っていたのなら。


 もし、

 「そんなことを考えていた時期があった」と

 少し照れながら思い出せるのなら。


 それは、間違いだったのだろうか。


 いつからだろう。

 あの感覚が「痛いもの」として扱われるようになったのは。


 中学、高校、大学。

 どの段階でも、直接否定された記憶はない。

 教師も、友人も、親も、露骨には笑わなかった。


 ただ、説明された。


 「それは思春期によくあることだ」

 「皆、そういう時期を通る」

 「大人になれば分かる」


 それらはすべて、善意だったと思う。

 不安を取り除くための言葉だった。


 だが、その説明のどこにも、

 「もしかしたら正しいかもしれない」

 という余白はなかった。


 人は、否定されなくても、

 分類されることで安心する。


 名前が与えられ、

 枠に収められ、

 過去形にされる。


 厨二病。


 便利な言葉だと思う。

 あまりにも多くのものを、

 一度に無効化できる。


 だが私は、どうしても引っかかった。


 なぜ、あの感覚だけが、

 「必ず間違いだったこと」にされるのか。


 なぜ、夢や希望は「持っていてよいもの」として残され、

 世界への違和感だけが「卒業すべきもの」になるのか。


 成長とは、

 何を獲得することなのか。


 そして、

 何を失うことなのか。


 社会に出てから、

 私は多くの「正しさ」を理解した。


 合理性。

 効率。

 再現性。

 説明可能性。


 それらは世界を安定させる。

 人を救う。

 生活を前に進める。


 だから私は否定しない。

 拒絶もしない。


 ただ、思うのだ。


 それらは、

 世界を説明するための道具であって、

 世界そのものではない。


 説明できないものは、

 存在しないのではなく、

 語られなくなるだけだ。


 多くの人は、

 あの感覚を「捨てた」のではない。


 調整されたのだ。


 適切な大きさに。

 生活に支障のない形に。

 話題にしなくて済む深さに。


 そして、二度と取り戻せない場所に置いてきた。


 ここまで読んで、

 あなたはどう感じただろうか。


 くだらないと思ったかもしれない。

 未熟だと思ったかもしれない。

 あるいは、少し胸がざわついたかもしれない。


 もし、ほんの一瞬でも、

 「昔、こんなことを考えていた気がする」

 と思ったのなら。


 それは偶然ではない。


 私は、あなたに何かを信じろとは言わない。

 世界は設計されている、と主張するつもりもない。


 ただ、ひとつだけ問いたい。


 あの感覚を、

 本当に「間違いだった」と言い切れるだろうか。


 説明できないから、

 共有できないから、

 笑われるから。


 それだけの理由で、

 真実である可能性を切り捨ててよいのだろうか。


 世界は、私たちが思っているよりも、

 はるかに静かで、

 はるかに精巧で、

 そして、思っているよりも

 見られているのかもしれない。


 私は今も、普通に働き、

 普通に生きている。


 何かを暴こうともしないし、

 誰かに訴えようともしない。


 ただ、

 あの感覚を「失ったこと」にしなかった。


 それだけだ。


 もしあなたが、

 まだどこかにそれを残しているのなら。


 どうか、

 完全に手放さないでほしい。


 世界がすべて説明できるものになったとき、

 私たちはきっと、

 何か決定的なものを見落としている。


 それが何なのか、

 私はまだ言語化できない。


 だが、

 あなたも、かつて感じていたはずだ。


 世界が、

 ただの世界ではなかった瞬間を。



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