表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

世界は設計されていると思っていた

作者: はまのすけ
掲載日:2026/01/09

 自分は選ばれた存在だと、疑いなく思っていた時期がある。


 特別な力があったわけではない。

 未来が見えたわけでも、誰かの声が聞こえたわけでもない。

 ただ、この世界は自分を中心に配置されていて、どこかで常に「見られている」——そんな感覚があった。


 今なら、それは「厨二病」と呼ばれるものだと分かっている。

 誰にでも起こりうる、思春期特有の認知の歪み。

 インターネットは、そのことを過不足なく教えてくれた。


 それでも私は、あの感覚を完全には否定できなかった。



 子どもの頃から、成績は安定していた。

 小学校ではテストの返却で名前を呼ばれ、

 中学では進路の話題になると教師がこちらを向いた。

 高校は進学校と呼ばれる部類で、偏差値は六十を少し超えていた。


 だがそれは、誇るほどのことではない。

 努力すれば届く範囲であり、偶然に左右されるほどでもない。

 私自身、その位置を「上位」だと強く意識していたわけではなかった。


 ただ、世界は整って見えていた。


 物事には理由があり、

 人の配置には意味があり、

 自分がここにいることも、説明可能であるように思えた。


 それは慢心ではなかった。

 むしろ、静かな納得に近い。


 夜、机に向かいながら、ふと考えることがあった。

 世界は、無作為に積み上げられたものなのだろうか、と。


 偶然が重なり、今この形になった。

 そう説明されれば、理解はできる。

 だが、腑に落ちることはなかった。


 私は、世界を「見ている側」にいる感覚を持っていた。

 それは優越感ではない。

 選ばれている、という陶酔でもない。


 もっと事務的で、もっと冷静な感覚だ。


 ――配置されている。


 そんな言葉が、当時の私には最も近かった。


 インターネットが普及し始めた頃、

 似たような思考が「厨二病」と呼ばれているのを知った。


 特別でありたいという欲望。

 世界を自分中心に捉える未熟さ。

 成長とともに消える幻想。


 私は、その説明を否定しなかった。

 確かに、そういう側面もあるだろう。


 だが、同時に思った。


 本当に、それだけだろうか。


 大学へ進学すると、世界の見え方は変わった。

 自分よりもはるかに優秀な人間が、いくらでもいる。

 努力は戦略になり、成果は数値で比較される。


 「上位」という言葉は、意味を失っていった。


 それでも、あの感覚だけは消えなかった。

 世界が、単なる偶然の集合体には見えないという直感。


 多くの人は、それを手放していった。

 忙しさや、現実や、説明のしやすさの中で。


 社会人になり、営業職に就いた。

 私は、言葉を選ぶことを覚えた。

 違和感を口にしないことが、最適解だと理解した。


 世界は、整合的である方が都合がいい。

 疑問は、分類され、説明され、処理される。


 疲労。

 ストレス。

 過去の成功体験への執着。


 どれも、もっともらしい。


 だから私は、何も言わない。

 あの感覚について語ることはない。


 だが、捨ててもいない。


 夜、部屋の灯りを消すと、

 世界は静かで、何も主張しない。


 その沈黙の中で、私は思う。


 もし、世界が本当に無作為なものなら、

 なぜ、あの感覚はこんなにも自然に立ち上がったのか。


 なぜ、同じ位置にいたはずの人々は、

 皆、同じようにそれを失っていったのか。


 彼らは忘れたのではない。

 説明され、納得し、手放したのだ。


 私は、それができなかった。


 できなかったのではない。

 しなかった。


 世界が偶然であると断言するには、

 私はあの感覚を知りすぎている。


 社会人になってから、私は「適切な人間」になった。


 空気を読み、

 余計なことを言わず、

 期待されている役割を理解する。


 営業という仕事は、世界がどのように作動しているかをよく見せてくれる。

 人は合理的に判断しているつもりで、

 ほとんどの場合、感情と慣習に従って動く。


 それを責める気はない。

 むしろ、その方が生きやすい。


 私自身、そうして生きている。


 昼休み、同僚たちは将来の話をする。

 昇進、転職、結婚、資産形成。

 どれも重要で、現実的で、正しい。


 その会話の中で、私はただ頷いている。

 否定もしないし、異を唱えもしない。


 なぜなら、彼らが間違っているとは思わないからだ。


 ただ――

 足りないものがある。


 それを言葉にすると、急に幼稚になる。

 抽象的で、証明できず、共有されにくい。


 だから語られない。

 語られないから、存在しないことになる。


 だが、存在しないものは、失われない。

 失われるのは、確かにあったものだけだ。


 私は思う。

 あの感覚は、能力でも才能でもない。


 選ばれたから生まれたのではない。

 上位だったから保持できたのでもない。


 むしろ逆だ。


 成績が安定し、

 環境が整い、

 将来が説明可能だったからこそ、

 世界を疑う余裕があった。


 不安に押し潰されることなく、

 焦りに視野を奪われることなく、

 「なぜ、この形なのか」と考える余地が残っていた。


 多くの人は、もっと早い段階で現実に追われる。

 説明に救われ、

 納得に安堵し、

 疑問を閉じる。


 それは賢明だ。

 大人になるということでもある。


 だから私は、彼らを見下さない。

 上位だったことを誇らない。

 今も特別だとは思っていない。


 ただ、ひとつだけ違う点がある。


 私は、あの感覚を「誤り」だと確定しなかった。


 世界は、誰かに設計されたものだ。

 そう断言するつもりはない。


 だが、世界が「設計されていない」と言い切る自信も、

 私にはない。


 人は、加齢とともに調整されていく。

 過剰な意味付けは削がれ、

 都合の悪い直感は修正される。


 その過程で、多くのものが失われる。

 想像力、畏怖、違和感。


 そして、

 世界が「ただの世界」になる。


 私は、それを拒んだわけではない。

 ただ、最後の一線を越えなかった。


 あの感覚は、

 今も私の中で、静かに息をしている。


 何かを主張するわけでもなく、

 行動を促すわけでもない。


 ただ、問いを残す。


 ――本当に、これだけか。


 夜、帰宅し、ネクタイを外し、

 窓の外を眺める。


 世界は、何事もなく続いている。

 奇跡も啓示も起こらない。


 それでも私は思う。


 もしあなたが、

 かつて同じ感覚を持っていたのなら。


 もし、

 「そんなことを考えていた時期があった」と

 少し照れながら思い出せるのなら。


 それは、間違いだったのだろうか。


 いつからだろう。

 あの感覚が「痛いもの」として扱われるようになったのは。


 中学、高校、大学。

 どの段階でも、直接否定された記憶はない。

 教師も、友人も、親も、露骨には笑わなかった。


 ただ、説明された。


 「それは思春期によくあることだ」

 「皆、そういう時期を通る」

 「大人になれば分かる」


 それらはすべて、善意だったと思う。

 不安を取り除くための言葉だった。


 だが、その説明のどこにも、

 「もしかしたら正しいかもしれない」

 という余白はなかった。


 人は、否定されなくても、

 分類されることで安心する。


 名前が与えられ、

 枠に収められ、

 過去形にされる。


 厨二病。


 便利な言葉だと思う。

 あまりにも多くのものを、

 一度に無効化できる。


 だが私は、どうしても引っかかった。


 なぜ、あの感覚だけが、

 「必ず間違いだったこと」にされるのか。


 なぜ、夢や希望は「持っていてよいもの」として残され、

 世界への違和感だけが「卒業すべきもの」になるのか。


 成長とは、

 何を獲得することなのか。


 そして、

 何を失うことなのか。


 社会に出てから、

 私は多くの「正しさ」を理解した。


 合理性。

 効率。

 再現性。

 説明可能性。


 それらは世界を安定させる。

 人を救う。

 生活を前に進める。


 だから私は否定しない。

 拒絶もしない。


 ただ、思うのだ。


 それらは、

 世界を説明するための道具であって、

 世界そのものではない。


 説明できないものは、

 存在しないのではなく、

 語られなくなるだけだ。


 多くの人は、

 あの感覚を「捨てた」のではない。


 調整されたのだ。


 適切な大きさに。

 生活に支障のない形に。

 話題にしなくて済む深さに。


 そして、二度と取り戻せない場所に置いてきた。


 ここまで読んで、

 あなたはどう感じただろうか。


 くだらないと思ったかもしれない。

 未熟だと思ったかもしれない。

 あるいは、少し胸がざわついたかもしれない。


 もし、ほんの一瞬でも、

 「昔、こんなことを考えていた気がする」

 と思ったのなら。


 それは偶然ではない。


 私は、あなたに何かを信じろとは言わない。

 世界は設計されている、と主張するつもりもない。


 ただ、ひとつだけ問いたい。


 あの感覚を、

 本当に「間違いだった」と言い切れるだろうか。


 説明できないから、

 共有できないから、

 笑われるから。


 それだけの理由で、

 真実である可能性を切り捨ててよいのだろうか。


 世界は、私たちが思っているよりも、

 はるかに静かで、

 はるかに精巧で、

 そして、思っているよりも

 見られているのかもしれない。


 私は今も、普通に働き、

 普通に生きている。


 何かを暴こうともしないし、

 誰かに訴えようともしない。


 ただ、

 あの感覚を「失ったこと」にしなかった。


 それだけだ。


 もしあなたが、

 まだどこかにそれを残しているのなら。


 どうか、

 完全に手放さないでほしい。


 世界がすべて説明できるものになったとき、

 私たちはきっと、

 何か決定的なものを見落としている。


 それが何なのか、

 私はまだ言語化できない。


 だが、

 あなたも、かつて感じていたはずだ。


 世界が、

 ただの世界ではなかった瞬間を。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ