三原大空襲、少女の日記 第3話:燃える町
作者のかつをです。
第十二章の第3話をお届けします。
今回は炎の中を逃げ惑う人々の地獄絵図を描きました。
戦争がもたらす極限状況の中で人々が何を見たのか。
目を背けたくなるような場面もありますが、これもまた紛れもない歴史の事実として描いています。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
「……逃げるぞ!」
父の絶叫が和子を我に返らせた。
自分たちの家もすでに炎に包まれている。
ここに留まっていては焼け死ぬだけだ。
「川へ! 沼田川へ向かうんだ!」
父を先頭に一家は燃え盛る町の中へと飛び出した。
熱い。
まるで巨大な焚き火の中にいるようだ。
息を吸い込むと喉が焼ける。
火の粉が雨のように降り注ぎ、着ているもんぺに次々と穴を開けていく。
道という道は瓦礫と炎で塞がれていた。
昨日まで見慣れていた風景はどこにもない。
自分がどこを走っているのかさえ分からなかった。
周りには同じように逃げ惑う人々がいた。
炎に巻かれ生きたまま火だるまになっている人。
幼い子供の名を泣き叫びながら瓦礫をかき分けている母親。
全てを諦めたように道端に座り込み、虚ろな目で空を見上げている老人。
地獄だった。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
和子は弟の手をきつく握りしめ、ただ無我夢中で父の背中を追いかけた。
その時だった。
前方から逃げてきた人々が絶叫している。
「ダメだ! こっちも火の海だ!」
行く手を阻まれ人々はパニックに陥っていた。
右も左も火の壁。
まさに袋の鼠だった。
もうダメか。
和子が諦めかけたその時。
「こっちだ! こっちに水があるぞ!」
誰かの声がした。
見ると三原城の堀の方だった。
人々はその声に導かれるように、一斉に堀へと殺到した。
和子たちもその人の波に飲み込まれるように、堀へと転がり込んだ。
水はぬるく油のようなものが浮いていた。
だが炎の熱さからは逃れられる。
人々は首まで水に浸かり、必死に炎が通り過ぎるのを耐えていた。
堀の中にはすでに多くの人々が避難していた。
皆泥と煤で真っ黒になり、男も女も老いも若きも見分けがつかない。
ただ恐怖に見開かれた目だけが、暗闇の中で白く光っていた。
和子はそこで見た。
隣で水に浸かっていた赤ん坊が、母親の腕の中でぐったりと息を絶えているのを。
自分のすぐそばで一人の男が、「熱い、熱い」と呻きながら自ら顔を水の中に沈めていくのを。
人の命がまるで虫けらのように、次々と消えていく。
和子は歯を食いしばり必死に涙をこらえた。
泣いてはいけない。
ここで気を失ってはいけない。
生きるのだ。
何としても生きて、この地獄を抜け出すのだ。
彼女の心の中で何かがぷつりと切れた。
昨日までの夢見る少女の心は、この堀の泥水の中で死んだ。
代わりに生まれたのはただひたすらに、生き延びることだけを考える冷たい鋼のような意志だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
三原大空襲では多くの市民が防火水槽や堀、そして沼田川で亡くなったと言われています。
炎の熱と煙から逃れるために水に飛び込んだものの、そのまま力尽きてしまったのです。
さて、地獄の一夜をかろうじて生き延びた和子。
しかし彼女を待っていたのは、さらに過酷な現実でした。
次回、「夜明けの景色」。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。




